マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『「2022年群馬県カトリック平和旬間行事」に思う』

    先日、13日(土)に「2022年群馬県カトリック平和旬間行事」にシンポジストとして参加しました。今回はこの行事から思うことを記します。

 基調講演の松浦悟郎司教様のお話から多くの示唆を得ましたが、特に最後にお話しになった「9条を変え、軍隊を持った場合」と「9条を今より徹底する場合」の比較が印象的でした。前者は「侵攻された場合、軍事で撃退できる。その場合の死者は、多大。破壊度はすさまじい」で、後者は「侵略を許す。死者は少ない。破壊度は少ない」。そして結論として「ただし、侵略される可能性は、9 条を活かして友を作った方がはるかに少ない」と話されました。
 近隣諸国が軍備増強してきて、「我が国はそのままでいいのか」という議論がありますが、相手が10増強したら、こちらは11にして、そうすると相手が12にして、今度はこちらが13にするということで、きりがありません。それをやめれば、確かに侵略されるかもしれませんが、軍備を多く持っている場合より死者は少なく破壊度も少ない、。という論理に共感しました。歴史を見ても第二次大戦で早く降伏したイタリアは、ドイツや日本より空襲も死者も極端に少なかったことを思い出しました。
 続くシンポジウムでは、4人のシンポジストがまず10分ずつ話しました。トップバッターは私でしたが、平和のためにはたらくことがイエス様の御心にかなうこと等について話しましたが、詳しい内容は最後に記します。
 2番手は日本ハリスト正教会前橋教会の桑原建夫司祭で、ロシアの中にも多くの戦争に反対する良心が存在すること、関係者でなければわからないお話を伺え、貴重でした。3番手はカトリック渋川教会のオリビエ・シェガレ司祭で、平和について御自身の出身国であるフランスとの比較をされ、ディベートの重要性を話されました。4番手は前述したカトリック名古屋教区の松浦悟郎司教で、戦争や平和という話では敬遠する人もいるが、痛みの連帯・苦しみの連帯ならすべての人が持っているものなのでつながりやすいのではないか、信頼の核を作ることが大事と話されました。
 この後に、私のシンポジストとしての話を記します。

群馬県カトリック平和旬間シンポジウム教話>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 私は聖公会前橋聖マッテア教会の牧師で、司祭の福田弘二と申します。
 私はもともと養護学校の教員で、退職してから神学校に行き2019年に司祭に叙階された者ですが、今回、35年以上の付き合いがある岩﨑清隆さんからお話があり、この平和旬間に参加させていただくことになりました。
 さいたま教区2022年平和旬間行事のテーマは「キリスト者にとっての平和の志向」で、先程、松浦司教様から基調講演があり、キリスト者にとっての平和を直視する意味、また、直視すべきこと等についてお話がありました。
 そして、シンポジストの最初として、キリスト者として平和をどうとらえ、どう取り組んでいくことが主の御心かということについてお話しできればと思います。
 
 最初に、事前にお送りしました「ウクライナのための祈り」を、皆様一緒に唱えていただきたいと思います。資料をご覧ください。この祈りはカンタベリー大主教とヨーク大主教が連名で作成したものです。私が「ウクライナのための祈り」、と言いましたら一緒に「正義と平和の神よ」と続けてお祈りください。

ウクライナのための祈り
正義と平和の神よ、 
わたしたちは今日、ウクライナの人々のために祈ります。 
またわたしたちは平和のために、そして武器が置かれますよう祈ります。 
明日を恐れるすべての人々に、
あなたの慰めの霊が寄り添ってくださいますように。 
平和や戦争を支配する力を持つ人々が、知恵と見識と思いやりによって、
み旨に適う決断へと導かれますように。
そして何よりも、危険にさらされ、恐怖の中にいるあなたの大切な子ども
たちを、あなたが抱き守ってくださいますように。 
平和の君、主イエス・キリストによってお願いいたします。
アーメン。

 今年の2月24日にウクライナで戦闘が始まり、3月2日の「灰の水曜日」の礼拝からマッテア教会では毎主日及び祝日の礼拝で、この「ウクライナのための祈り」を捧げています。
 また、聖餐式では、毎主日、奉献唱に続いて、塩田泉神父様がお作りになった「キリストの平和」の聖歌を歌っています。
「♪~キリストの平和~が、わたしたちのこころの、すみずみにまで~、ゆきわたりますように~♪」(歌う) 
 この「すみずみまでゆきわたるキリストの平和」とは何でしょうか?

 そのことに関係して私が思い浮かべるのは詩篇第23編です。今日はこの絵本(「かみさまはひつじかい しへん23(ターシャ・テューダ・え)」をお読みします。この絵本はむかしNHKで放映していた「大草原の小さな家」のローラのような少女が登場します。

詩編23編
1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 
2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 
3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 
4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 
5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 
6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

  この詩は「主は羊飼い」の言葉で始まります。これは神様が羊飼いで、私たちは羊だということです。この詩では、羊飼いである神様に導かれていく歩みを「わたしには何も欠けることがない。」と歌い、その豊かさを具体的に述べています。羊飼いが、緑の牧場に羊を導き、牧草を食べさせ、また、水場に伴われ、水を飲ませるように、神様は、厳しい日々の私たちの歩みを支え導き、必要を備えて下さると歌っております。
 そして、この状態こそが「平和」で、ヘブライ語で「シャローム」と言われる状態と考えられます。「シャローム」という言葉は「何も欠けていない状態、そこなわれていない十分に満ち足りている状態」を指しています。単に、「戦争でない」とか「穏やかに」というだけではない、「真に望ましい、救いに満ちた状態」を表す言葉です。この平和は、神様が共にいてくださることにより与えられるものです。これこそ「キリストの平和」であると考えます。
 
 ルカ福音書10章では、イエス様は弟子たちを派遣するに当たって「まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」とおっしゃっています。これは祈りであり、「神様からの救いが満ちるように、恵みと祝福がありますように」との祈りです。
 イエス様は弟子たちに、そして私たちに、そのように祈る「平和の使徒(平和の使い)」になることを求めておられると思います。
 「平和の使い」と言えば、群馬県で育った人なら誰でも知っている上毛かるたの読み札「平和の使い、新島襄」を思い浮かべます。

    ここでの「平和」も単に戦争状態でないということではなく、「イエス様によってもたらされる恵みと祝福」のことだと言えます。それを宣べ伝えるのが「平和の使い」であり「平和の使徒」であると思います。仏教の力の強い京都に同志社というミッションスクールを創立するなど、主にある平和を宣べ伝えた新島襄には多くのあつれきや葛藤がありました。彼は、そのあつれきや葛藤の向こうに主の平和を見ていた「平和の使い」でありました。私たちもそのような「平和の使徒(平和の使い)」になるよう求められていると考えます。
 しかし、それは自分の力でなれるものではありません。私たちが「平和の使徒(平和の使い)」にしていただけるよう、そして私たちが主にある平和、イエス様によってもたらされる恵みと祝福を宣べ伝えることができるよう祈り求めたいと思います。
  そして、それこそが私の思う「キリスト者にとっての平和の志向」であります。栄光は父と子と聖霊に、初めのように、今も、いつも世々に。アーメン