マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第7主日 聖餐式 『執拗な求めに応じる神』

 本日は聖霊降臨後第7主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、創世記18:20-33とルカによる福音書11:1-13。「主の祈り」と、一人一人が願う祈りを、日々、執拗に図々しく「求め、探し、叩」き続ければ、神様は必ず求めに応じて聖霊を送ってくださることを知り、そうできるよう、祈り求めました。ラファエル前派の画家、ホルマン・ハントの絵画「真夜中の友人(原題はThe Importunate Neighbour)」も活用しました。

   執拗な求めに応じる神

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第7主日、聖書日課は特定12です。福音書はルカ版の「主の祈り」、執拗に祈り続けることの大切さを教えるたとえ、それに「求め」「探し」「叩きなさい」と神様に願うようにとの勧めです。旧約聖書はこの内容と調和した部分で、創世記の全世界を裁く主に向かいアブラハムがソドムのために必死に取りなす箇所が選択されています。

 福音書を中心に考えます。この箇所(ルカによる福音書11章1節から13節)は3つの部分からなっています。①主の祈り(1-4節)、②真夜中の友人のたとえ(5-10節)、③神の誠実な応答(11-13節)です。
 今日の箇所を振り返ります。

 あるとき、弟子の一人が祈りを終えたイエス様に「祈りを教えてください」と教えを求めました。それに対してイエス様は「祈るときには、こう言いなさい。」とルカ版の「主の祈り」を教えました。2節から4節です。今回はこの箇所は簡単に触れ、その基本だけお話しします。
 イエス様は「主の祈り」を通して「生き方の理想」を伝えました。それは、「神の国」、すなわち神様が支配されている状態を求め実践していくことであり、人間が生きていく上で必要なものは何かを知り、それを求めるということです。それは、創造主である神様を「父よ」と呼び、御名が聖とされることであり、御国が来ることであり、必要な糧を求めることであり、罪の赦しを願うことであり、試みに遭わせないでほしいということです。

 そのような祈りを捧げていくとき、その思いをどのように持ち続けていけばよいかを、イエス様は次の「真夜中の友人のたとえ」といわれる話を通して教えられました。
 私が思い浮かべるこの話についての絵画があります。それは、19世紀、イギリスのラファエル前派の画家、ホルマン・ハントの「真夜中の友人(原題はThe Importunate Neighbour・・・しつこい隣人)」です。

 この絵では野良犬が残飯をあさる真夜中、友人の家の戸の前で、執拗に依頼している男性の様子が描かれています。
 聖書はこう記しています。日課の2ページ7行目、5節から7節です。
「また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちの誰かに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。友達が旅をして私のところに着いたのだが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるに違いない。『面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子どもたちも一緒に寝ている。起きて何かあげることなどできない。』」
 パレスチナ地方は暑いですから、夕方涼しくなってから歩き始め、時には夜に客人がやって来ることもあるそうです。旅人をもてなすのは当然しなければならないことで、それをしないのは、失礼に当たります。しかし、真夜中ですし、もてなす物も既にありません。それで友達の所にパンを借りにやって来ました。友達は何度ノックをしても起きてくれません。それでも叩き続けたのでしょう。中から断りの返事が聞こえました。
 当時の多くの家は一部屋しかありません。日中は扉が空いていて出入り自由ですが、一旦戸締りをしたら「邪魔をしないでください」という印になるのです。寝る時も地べたの上に藁などを敷いて、家族全員が一緒に眠ることが多いようです。ですから一人が起きると皆を起こすことになります。だから「面倒をかけないでくれ。」ということになるようです。ところが、イエス様はこうおっしゃいました。8節から9節です。
「しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。」
 『執拗に頼めば』とあります。ここは“しつこく求めるなら”と読むこともできますが、直訳は「図々しさのゆえに」です。夜中に友人の家に出向きパンを借りる「図々しさ」があるかどうかが問われています。「面倒をかけないでくれ」と言われても「困っているのだから頼む」と頼み続ける「図々しさ」がありますか?ということなのです。そのようにすれば、『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。』と。これが神様の原則だと言っていると思います。なお、ギリシャ語の二人称・命令形は継続を意味しますので、ここは「求め続けなさい。探し続けなさい。叩き続けなさい」という意味で、そうすれば、原文は未来形で「与えられるだろう。見つかるだろう。開かれるだろう」ということです。人の取るべき態度は「執拗に頼む」ことであり、そうすれば願いが叶えられるとイエス様は述べておられるのです。

  最後にイエス様は、神様の誠実な応答について、こう述べています。11節から13節です。
「あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」
 泳いでいる蛇と魚は一見すると見間違います。ガリラヤ湖で漁をすると魚と水蛇が一緒に網にかかるそうです。子どもが「魚をください」と言うのに、似ているからといって蛇をあげるでしょうか? サソリがとぐろをまくと丸くなって、これも卵に似ているそうです。似ているからといって危険なサソリを与えるでしょうか? いくらあなた方が“悪い者”であっても自分の子どもにはそんなことはせず、良い物を与えるでしょう。まして、天の父なる神様は愛する私たちの求めに応じて聖霊(良い物の以上のもの)を与えてくださるでしょう、とイエス様はおっしゃっておられます。
 聖霊は、祈る私たちを助けるペルソナ(位格)をもった神様です。祈りの中で、私たち自身が整えられ、本当の必要に気づかされたり、具体的な行動の力が与えられたりするのも聖霊の働きと言えます。父なる神様は、祈り求める私たちに良い物の以上のもの(聖霊)を与えてくださるのです。

 私たちはどう祈っているでしょうか? 『執拗に頼』んでいるでしょうか? 頼み続ける「図々しさ」を持っているでしょうか? 
 私は、毎朝、聖務日課の「朝の礼拝」の後、「ロザリオの祈り」を捧げています。この祈りでは、特に病床にある方々の名前を挙げて、その方々の癒しを願い求めています。この中で、使徒信経1回、主の祈り6回、アニュス・デイ「世の罪を除く神の小羊よ、憐れみをお与えください」を53回、栄唱「栄光は父と子と聖霊に 初めのように、今も世々に限りなく」を6回、唱えて祈っています。かなりしつこく執拗に祈っていますが、もっと「図々しさ」を持って求めてもいいのだと今回思わされました。

 皆さん、今日の福音書で、イエス様は、私たちに必要なことは、慈愛の神様に「父よ」と呼びかけて祈り、執拗に「求め、探し、叩」き続けることであるとおっしゃっておられます。それを忠実に行えば、祈りに誠実に応える神様は必ず聖霊を私たちに送り、必要な助けを与えてくださいます。私たちは聖霊によって常に新たにされ、新たな力を手にするのであります。
 イエス様が教えてくださった「主の祈り」と、一人一人が心に願う祈りを、日々、執拗に図々しく「求め、探し、叩」き続けることができるよう、祈り求めたいと思います。