マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節前主日 聖餐式 『祈ること、イエス様に聞くこと』

 本日は大斎節前主日です。午前前橋の教会、午後新町の教会で聖餐式を捧げ
ました。聖書日課はコリントの信徒への手紙一12:27-13:13とルカによる福音書6:27-38。
 説教では、「キリストの変容」の箇所を通して、祈りを大切にし、神様が「これに聴け」と命じられていることを深く思い、大斎節を過ごすことができるよ祈り求めました。フラ・アンジェリコフレスコ画「キリストの変容」も活用しました。

   『祈ること、イエス様に聞くこと』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 教会の暦では、今日は「大斎節前主日」で、今週の水曜日、3月2日から「大斎節」に入ります。 
 本主日福音書ルカによる福音書9:28からの、いわゆる「変容貌(キリストの変容)」の箇所です。顕現節から大斎節に移ろうとするこの主日は、福音書では毎年この変容貌の箇所が採用されています。それはこの出来事がイエス様の生涯のちょうど半ばあたりに置かれ、これ以後、今までのガリラヤからエルサレムでの十字架・復活へと進展していくことが、イエス様の地上の生の前半を記念してきた顕現節から、後半の部分を記念する大斎節に入っていくのに、重なっているからです。

 この箇所の概略はこうです。
『イエス様は、ペトロ、ヨハネヤコブの3人の弟子を連れて祈るために山に登られました。そこで、祈っていると、イエス様の顔の様子が変わり、衣は白く光り輝きました。見ると、モーセとエリヤがイエス様と語り合い、2人はイエス様がエルサレムで遂げようとしている最後のことについて話していました。その有様の素晴らしさを目の当たりにして、ペトロは「幕屋を3つ建てましょう」と言います。やがて雲が現れ彼らを覆い、雲の中から「これは私の子、私の選んだ者、これに聞け。」という声が聞こえ、イエス様だけがそこにおられました。』

 この箇所を通して、イエス様が大切にしておられること、そして、神様が私たちに求めておられることは何でしょうか?
 冒頭の28・29節にこうあります。「この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、衣は白く光り輝いた。」
 この話とは、この前の9:21~27において、イエス様が弟子たちに御自身の死と復活を予告したことを示します。その8日後に、イエス様は3人の弟子を連れて祈るために山に登られたのです。なお、ここの「祈る」の原文のギリシャ語は「プロセウコマイ」でした。この言葉は直訳すれば「プロス(前に)+エウコマイ(置く)」ですが、「何の前に何を置くか」と言えば、「神様の前に自分を」ということなのだと思います。つまり、「祈る」ということは「神様の前に自分を置く」ことなのです。
 イエス様の地上での歩みは受難と死に向かう道でした。イエス様は祈りの中で、すべてを神様に委ねていたのではないでしょうか? 今日の箇所で言えば、だからこそイエス様の姿は祈るうちに光り輝いたのだ、と言えるかもしれません。これは、十字架の死と復活が予告された後、山の上で、その衣が白く光り輝き、人間となられたイエス様が、瞬間的に神の栄光をお受けになったという出来事です。その出来事の直接の引き金になったのが「祈り」であり、それこそイエス様が大切にしておられることだと言えます。

 今日の箇所の最後にあたる34節から36節では、雲が現れ彼らを覆い、雲の中から「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」という声が聞こえます。雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。雲の中からの声は、もちろん神様の声です。それが、弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。聖書における「聞く」はただ声を耳で聞くというだけでなく、「聞き従う」ことを意味します(申命記18:15等参照)。受難・復活・昇天へと進む神の子、救済の業を行うため神様が選んだ者に私たちも「聞き従わなければならない」ということであり、それこそ神様が私たちに求めておられることだと思います。

 この箇所を表した絵画があります。フィレンツェのサン・マルコ修道院にあるフラ・アンジェリコフレスコ画「キリストの変容」です。

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 この絵では、中心に光を背に白い衣を着たイエス様がおり、その下には左からペトロ、ヤコブヨハネの3人の弟子が畏怖の念をいだいています。
 そして、イエス様の下の左にモーセ、右にエリヤがいます。この2人は今まさに消えようとしています。さらにその下には、聖書の記事にはありませんが、左にマリア、そして右にドミニコがいます。ドミニコはフラ・アンジェリコが所属するドミニコ会創立者です。マリアは両手を交差して胸の前に置き、ドミニコは手を合わせています。つまり2人は祈っているのであります。
 イエス様が大切にしていることは「祈り」であり、神様が私たちに求めておられることはその「イエス様に聴く」ことだと言えます。なお、「祈る」と訳した「プロセコウマイ」には“聴く”という意味もあり、キリスト教の「祈る」目的は「神様やイエス様の声を聴く」ということです。言い換えれば「祈りは神様やイエス様の声を聴くこと」と言えると思います。

 私たちがそうできるために知るべきことは何でしょうか?
 そのヒントは先ほど読んでいただいた使徒書にあると言えます。コリントの信徒への手紙一12:27-13:13です。12章の終わり(31節)で「あなたがたは、もっと大きな賜物を熱心に求めなさい。」とパウロは勧めています。。そして「最も優れた道をあなたがたに示しましょう。」と言って13章の愛の賛歌につなぎます。つまり私たちには最も優れた道である「愛」という賜物があるのです。信仰も希望も愛も賜物、それらはすべて神様から与えられるものであり、「祈り」もです。このことを私たちは知るべきだと思います。

 皆さん、大斎節が近づきました。今度の水曜が大斎始日(灰の水曜日)です。
エス様が大切にしておられることは「祈り」であり、神様が私たちに求めておられることは「イエス様に聴き従う」ことです。これから始まる大斎節の期間、祈りを大切にし、神様が「これに聴け」と命じられてことを深く思い、イエス様のみ跡を黙想しつつ40日間の大斎の期節を過ごすことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。