マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

映画「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」に思う

 前回のブログの説教原稿で、復活したイエス様が弟子たちに新たな使命を与え『「使命」という字は「命を使う」と書きます。』と記しました。この言葉は、2週間ほど前に前橋シネマハウスで見た映画「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」の中で、主人公の矢島楫子が晩年の講演会で発言したものです。楫子はこう言っていました。
「運命とは、命を運にあずけることです。大切な命を運に任すのではなく、これからの女性は、使命を持って生きてください。使命とは、命を使うことです。自分の命は、自分で使うのです。」

 映画「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」は三浦綾子の原作により、女性の地位向上に尽くした矢嶋楫子の生涯を映画化したものです。メガホンをとったのは90歳の女性映画監督である山田火砂子で、主役の常盤貴子とは15年前の「筆子その愛」でもタッグを組んでいました。私は「筆子その愛-天使のピアノ」以来、山田火砂子監督の作品を「大地の詩-留岡幸助物語」、「母 小林多喜二の母物語」、「一粒の麦 荻野吟子の生涯」と観てきましたが、今回の作品も期待にたがわない見応えのある作品に仕上がっていました。
 映画「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」のダイジェスト版は次のアドレスで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=5_Bw81OHk-Q


 矢島楫子は女子学院やキリスト教矯風会を作り、一夫一婦制、婦人参政権、禁酒、廃娼運動、アメリカでの軍縮会議に参加など数多くの功績を残しました。
 以下、映画「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」の公式ホームページにある年表を示します。
1833(天保4)年
肥後(現:熊本県)の益城町一帯を治める惣庄屋の矢嶋家の六女として生まれる。
1858(安政5)年・25歳
兄・直方の勧めにより、横井小楠門弟の林七郎と結婚、三児をもうける。
1868(明治元)年・35歳
夫の暴力や酒乱により離婚。矢嶋家に復籍する。
1872(明治5)年・40歳
兄の看病のため上京。その途上、かつ子から「楫子(かじこ)」と改名する。
兄のもとに住み小学校教員伝習所に学ぶ。
1873(明治6)年・41歳
小学校教員伝習所を卒業し、小学校の教員となる。
1875(明治8)年・43歳
書生である鈴木要介との間に娘・妙子を出産。農家に預ける。
1879(明治12)年・47歳
宣教師であり教育者のツルー夫人の影響によりキリスト教に入信し受洗。
1886(明治19)年・54歳
日本キリスト教婦人矯風会」を設立し、初代会頭に就任。
元老院への「一夫一婦制」の建白書提出をはじめとし、婦人参政権、廃娼・禁酒運動、男女同権等に尽力する。
1890(明治23)年・58歳
キリスト教系女学院二校を合併(現女子学院)を創立。初代校長となる。
1922(大正11)年・89歳
ワシントン平和会議に出席(三度目の渡米)し、その功績を讃えられハーディング米大統領より記念の花器を贈られる。
1925(大正14)年・93歳
死去。従五位勲五等に叙される。

 私がこの年表で注目するのは、41歳の時に小学校教員伝習所を卒業し小学校の教員となったこと、47歳で受洗したこと、54歳の時に「日本キリスト教婦人矯風会」を設立し初代会頭に就任したこと、58歳で女子学院を創立し初代校長となったこと、89歳で渡米しワシントン平和会議に出席したことです。必ずしも若くありません。というか、人生に定年はなく「ある程度の年になったら引退し悠々自適に過ごす」という生き方へ警鐘を鳴らしていると考えます。人生に「遅すぎる」ということはないのだと思います。そして、それは御年90歳の山田火砂子監督の生き方にも重なります。監督は、あるキリスト教番組の中で「農家の人が畑で土を耕しながら突然倒れて召されるように、生涯現役で映画を作りながら死んでいけたら本望です」というような発言をしていました。
 矢島楫子や山田火砂子監督のように、生涯現役で、神様から託された使命を忠実に果たして召されたいと切に願います。
  映画「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」のことを何名かの方に話しましたら、「私も見たかった」という声が複数ありました。この映画をもっと多くの人に観ていただきたいと思いますので、近いうちに以前「筆子その愛」を上映してくれた高崎のミニシアターに行って、この「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」の上映をお願いしようと思います。上映が決まりましたらお知らせしますので、皆さんぜひご覧ください。