マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第4主日 聖餐式 『主にある平和を宣べ伝える』

 本日は聖霊降臨後第4主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、イザヤ書66:10-16とルカによる福音書10:1-12、16-20。主イエス様の示された「平和」について理解し、私たちが主にある平和、イエス様によってもたらされる祝福を宣べ伝えることができるよう祈り求めました。8月13日(土)にシンポジストの一人を私が務める「群馬県カトリック平和旬間行事」や上毛かるたの「平和の使い、新島襄」にも言及しました。

   主にある平和を宣べ伝える

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は聖霊降臨後第4主日です。
 本日の福音書ルカによる福音書10章1節以下で、イエス様により72人が二人ずつ派遣される部分と彼らの帰還の記事が記されています。それは平和がもたらされること、また同時に裁きの時でもあることが語られます。旧約聖書イザヤ書66章10節以下で、神がイスラエルに「平和を大河の流れのように」与える(12節)と共に、その内の不信仰者には裁きをもたらされる(16節)ことが記されています。
 一般的には、「平和」は、「戦争状態にある」という意味の反対語として使われているようです。では、聖書や祈祷書が言う「平和」とは、どういうことなのでしょうか?

 本日は福音書を中心に、特にキリスト教における「平和」ということについて思い巡らしたいと思います。
 イエス様には、12人の弟子がいて、いつも行動を共にし、イエス様は彼らを教育し、訓練していました。本日の福音書は、イエス様が、さらに72人の弟子を選んで、任命し、彼らを宣教のために派遣されたことが、記されています。
 イエス様は、この72人を、ご自分が行こうとする地域へ、神の国を告げるイエス様の先駆けとして、派遣されました。72というのは当時考えられていた外国の民族の数です。そうであれば、イエス様は全世界に向かって宣教を考えていたということです。
 イエス様は、その時に、「行きなさい。私があなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り込むようなものである。財布も袋も履物も持って行くな。誰にも道で挨拶をするな。」(3・4節)と、派遣される人たちに、使命と、細かい注意を与えて送り出されました。

 神の国やイエス様のことを宣べ伝えようとして、その土地の人の家に入ったら、まず、「『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子(すなわち、神様のみ心にかなう者)がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」(5・6節)と言われました。
 ここでは、宣教する者の喜びが表現されています。平和のメッセージが受け入れられれば、それは大きな収穫であるし、拒絶されてもその平和は宣教する者に戻って来るからです。
 この箇所で、イエス様は、まず『この家に平和があるように』と挨拶しなさいと言われ、何回も「平和」という言葉を繰り返しておられます。
 この「平和」という言葉は、以前もお話ししましたが、ヘブライ語で「シャローム」、ギリシャ語では「エイレーネー」という言葉で、これは「何も欠けていない状態、そこなわれていない、十分に満ち足りている状態」を指しています。そこから、無事、平安、健康、繁栄、安心、和解などを意味しています。単に、「戦争でない」とか「穏やかに」というだけではない、「真に望ましい、救いに満ちた状態」を表す言葉です。この平和は、人間が作り出すものではなく神様が与えるものです。
 イエス様によって派遣された弟子たちは、どこかの家に入ったら『この家に平和があるように』と祈るよう命じられています。平和は神の国が到来したことによってもたらされる祝福です。神様のみ心にかなう人がそこにいるならその人は祝福され、祝福を受ける人がそこにいない時は、自分に帰ってきて自分が祝福されるというのです。

 最近、キリスト教でも仏教でも、多くの宗教は、「平和」を重視しています。ここ前橋でも、毎年8月5日に多くの宗教者や市民が一緒になって「前橋空襲一斉慰霊の祈り」を捧げています。
 多くの人々が、「平和でありますように」と願い祈るのは好ましいことですが、一波踏み込んで、私たち、キリスト者にとっての「平和」とはどういうことなのかと考えるのは意味あることと思います。
 私は先日、6月22日(水)と23日(木)の両日、午後7時からのオンラインによる「沖縄週間/沖縄の旅」に参加しました。沖縄からの証言、そして聖書研究や分かち合いを通して、平和について思いを深めました。
 また、週報の「報告・連絡」の終わりに記しましたが、群馬県カトリック平和旬間行事が8月13日(土)にカトリック前橋教会で行われ、シンポジストの一人を私が務めます。この行事のテーマは「キリスト者にとっての平和の志向」です。

 ここでも、キリスト者にとっての「平和」についての示唆が与えられるものと思います。なお、この行事は入場を40名に限定しているそうですが、マッテア教会用に5席用意してくださっているとのことですので、参加を希望される方は私に申し出てください。

 ところで、私たちが、毎主日行っている聖餐式の中の「平和の挨拶」では、司祭が「主の平和が皆さんとともに」と言うと、会衆が、「また、あなたとともに」と答え、司祭と会衆、会衆と会衆が、互いに「主の平和」と唱えながら、会釈をして挨拶を交わしています。
 聖餐式の中で、なぜ、このようなことをするのでしょうか? 私たちが、聖餐式の中で、互いに交わす「平和の挨拶」は、どのような意味を持っているのでしょうか?

 祈祷書の中にある、私たちが交わす言葉は、「主の平和」です。「主の平和」とは、「主にある平和」です。主によってもたらされる平和です。神様と、私たちの関係が、どのような状態にあるかを尋ね、求め合っている挨拶なのです。神様のみ心にかなうところに、本当の正義、すなわち義があります。反対に、神様のみ心に背いている状態は、義の反対です。それは、罪です。罪の状態、神様に背いているとき、そこには、本当の平和はありません。
 イエス様が求めておられる「平和」は、単に、仲良くしましょう、優しくしましょう、というようなものではありません。イエス様の命令は、もっと、もっと厳しいのです。イエス様を信じて生きようとすると、イエス様にすべてを委ねようとすると、必ず、あつれきや葛藤が起こります。
 しかし、そのあつれきや葛藤の向こうに、本当の平和があることを、指さしておられます。

 「主の平和」、「主にある平和」、それは「主イエス・キリストが、十字架に架けられることによって与えられた平和」であり、「主イエス様によって与えられた恵みと感謝に溢れる平和」であります。
 そのような思いを込めて、「主の平和があなたと共にありますように」と、私たちは、毎主日、挨拶を交わすのです。
 イエス様の弟子たちが、「平和がありますように」と言って挨拶を交わし、主が来られることを告げたように、私たちも、心して、挨拶を交わしたいと思います。

 皆さん、イエス様は弟子たちを全世界に派遣するに当たって「まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」とおっしゃっています。これは祈りであり、「神様からの救いが満ちるように、恵みと祝福がありますように」との祈りです。
 イエス様は弟子たちに、そして私たちに、そのように祈る「平和の使徒(平和の使い)」になることを求めておられるのです。
 「平和の使い」と言えば、群馬県で育った人なら誰でも知っている上毛かるたの読み札「平和の使い、新島襄」を思い浮かべます。

 ここでの「平和」も単に戦争状態でないということではなく、「イエス様によってもたらされる恵みと祝福」のことだと言えます。それを宣べ伝えるのが「平和の使い」であり「平和の使徒」であると思います。仏教の力の強い京都に同志社というミッションスクールを創立するなど、主にある平和を宣べ伝えた新島襄には多くのあつれきや葛藤がありました。彼は、そのあつれきや葛藤の向こうに主の平和を見ていた「平和の使い」でありました。私たちもそのような「平和の使徒(平和の使い)」になるよう求められているのであります。
 しかし、それは自分の力でなれるものではありません。私たちが「平和の使徒(平和の使い)」にしていただけるよう、そして私たちが主にある平和、イエス様によってもたらされる恵みと祝福を宣べ伝えることができるよう祈り求めたいと思います。