マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第4主日聖餐式 『父の家に帰り、父と共にある豊かさを知る』

 本日は大斎節第4主日です。午前・前橋、午後・新町の教会で聖餐式を捧げ
聖書日課はコリントの信徒への手紙二5:17-21とルカによる福音書15:11
-32 。
 説教では、「いなくなった息子(放蕩息子)のたとえ」から、悔い改め、父である神のもとに帰りその豊かさを知り、神が私たちの罪の贖いのためイエス様を生け贄にされたことに気づき、感謝するよう祈りました。
 レンブラント「放蕩息子の帰還」の絵を使って、神様の愛がどのようなものかについても語りました。

    『父の家に帰り、父と共にある豊かさを知る』

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 本日は大斎節第4主日です。3月2日の灰の水曜日から始まった大斎節ですが、もう一ヶ月近くが過ぎました。今年のイースターは3週間後の4月17日ですが、その前日までが大斎節です。本日はバラ色の主日(Rose Sunday)と言われる主日で、長い大斎節の間で一息入れ、リフレシュする主日でもあります(Refreshment Sundayとも言われます)。
 
 今日の福音書ルカによる福音書15:11-32、「放蕩息子のたとえ」としてよく知られた箇所です。今回の新しい訳では小見出しが「いなくなった息子のたとえ」となり、この方がこの箇所の真意を表していると考えます。概略はこうです。
『父から受けるはずの自分の分の財産をもらって、弟息子は家を出ます。そこで身を持ち崩し財産を使い果たしてしまい、家畜の餌も食べることができないほど落ちぶれます。どん底になったとき我に返り、父のいる豊かだった家を思い出します。「父のところへ帰ろう。」息子は、父のもとに戻ります。弟息子が罪を告白すると、息子の帰りを待ち続けていた父は、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と、弟息子を温かく迎え入れます。それに対して、兄息子は怒りますが、父は同じ言葉を繰り返すのでした。』

 この箇所は大きく3つの部分からなっています。ポイントを見ていきましょう。
 最初に15:11-16節です。
 ここでは、まず、弟息子は父親に向かって、「お父さん、私に財産の分け前をください」(12節)と言います。申命記21:17の規定により、長男は2/3、次男は1/3の財産分与を受けることになっていたそうです。これは本来、父親が死んだら受け継ぐことになっている財産の話です。弟息子の心の中で父は死んだも同然なのでしょう。
 続いて17-24節です。 
 弟息子は我に返ります。18・19節にこうあります。
『ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
 弟息子は父親のもとに行きました。これは改心(回心)を示します。神様の方に方向転換することです。すると「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)のです。ここで「憐れに思い」と訳されたギリシャ語は「スプランクニゾマイ」で、この言葉は「はらわた痛む」とも訳せる「痛みを伴い苦しむ相手への共感」を意味します。父が息子を見つけて走り寄るこの箇所には、出て行った息子を思う父親の強い愛情が溢れています。
 最後に25-32節です。
 ここでは兄息子の思いと父の思いが示されます。兄は「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」(29節)というように、人との比較の中で自分は正しいと誇り、「あなたのあの息子」をゆるす父の心が理解できません。それに対して父親は「あなたのあの息子」を「お前のあの弟」(32節)と言い換え、「お前にとって彼は兄弟ではないか」と諭します。父は弟だけでなく兄にも愛情をかけているのです。

 この箇所を読み、気づいたことがあります。それは、帰ってきた弟息子を迎えて、父が「子牛を屠って」祝宴を開いたことです。これは私には、神様が御自分のひとり子であるイエス様を私たちの罪のあがないのため生け贄として献げられたことを思い起こさせました。父の家に戻ってきた息子を喜んで御自分の大事にしている子牛を屠ってくださるのが私たちの神様なのだと思いました。そして、この祝宴は、イエス様の御聖体(聖別されたパン)をいただいている聖餐式のことを表しているのではないかと思いました。
 さらに31節で、父は兄息子にこう言います。
「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。」と。
 兄のそばに父はいつもいたのでした。そしてこれからもいるのです。それは大きな恵みです。しかし、兄はそのことの素晴らしさ・ありがたさに気づいていません。これは私たちにも言えることかもしれないと思いました。毎主日、教会に集い、御聖体に預かっていながら、その恵みに、ありがたさに気づかない。この兄のようではないかと思いました。私たちはもっと父である神様と共にある豊かさに目を向け、感謝したいと思います。
 実は、実は、先週の水曜(23日)に前橋の信徒のKさんのご自宅を訪問し、御聖体を差し上げました。奥様も、大変喜んでおられました。Kさんは車の運転はやめ、礼拝には出られそうにない、とのことでした。これから毎月ご自宅を訪問しようと思います。私たちが毎主日、御聖体をいただけることにもっと感謝したいと思いました。

 ところで、この箇所を表した絵では、レンブラントのこの絵「放蕩息子の帰還」を思い浮かべました。

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 向かって左側の弟息子の衣服はボロボロで使い古したサンダル、足裏には無数の傷があり、惨めな姿を晒しています。しかし、ひざまずいて父の懐に顔を埋める表情からは、安堵感が伝わってきます。また、大きな手のひらで強く抱き寄せる父の愛情に満ちた眼差し。父は「もうお前を絶対離さない」と呟いているように見えます。
 レンブラントは二人の劇的な再会を愛情深く描きました。
 この絵の他の登場人物としては絵の一番右側に兄息子、その左隣には財産管理の男、そして父の後ろには彼らの母と思われる人物が描かれています。この絵は、見る者に神様の愛がどのようなものかを強く訴えかけています。

 皆さん、本日は大斎節第4主日です。私たちは自らを振り返り、この弟息子のように悔い改め、愛情深い父である神様のもとに帰りたいと願います。神様はいつも私たちとともにいてくださいます。その大きな恵みに気づき、その豊かさに感謝しましょう。そして、父である神様が私たちの罪の贖いのため独り子であるイエス様を生け贄にされたことを覚え、イエス様の復活を待ち望み、神様の方を向きイースターを迎える心の準備をして参りたいと思います。