ウクライナでのロシア軍による攻撃、その深刻な被害に心が痛みます。日々、ウクライナの平和のために祈りを捧げています。
先日、前橋ハレルヤブックセンターで「聖フランシスコの平和の祈り」のクリアファイルを購入しました。表が日本語、裏が英語です。
この祈りは、我がマッテア教会では以前からクリスマスイブのキャンドルサービスの最後で唱えていました。
いろいろなバージョンがありますが、今回はこのファイルのものを記します。
『 平和の祈り
主よ
わたしを平和の器にしてください
憎しみのあるところには愛を
傷つけ合うところには赦しを
疑いのあるところには信仰を
絶望のあるところには希望を
暗闇のあるところには光を
悲しみのあるところには喜びをあたえられるように
ああ、主なる神よ
わたしが慰められるよりも慰めることを
理解されるよりも理解することを
愛されるよりも愛することを
なぜなら与えることでわたしたちは豊かに受け取り
赦すことで赦され
死ぬことで永遠のいのちによみがえるからです 』
このファイルの英語バージョンはこうです。
『 for Peace
Lord,
make me an instrument of your peace.
Where there is hatred, let me sow love;
where there is injury, pardon;
where there is doubt, faith;
where there is despair, hope;
where there is darkness, light;
and where there is sadness, joy.
O Divine Master,
grant that I may not so much seek
to be consoled as to console;
to be understood as to understand;
to be loved as to love.
for it is in giving that we receive;
it is in pardoning that we are pardoned;
and it is in dying that
we are born to eternal life.
Saint francis of Assisi 』
「聖フランシスコの平和の祈り」としてよく知られているこの祈りは、実際は聖フランシスコの作ではありませんが、聖フランシスコの精神を表しているとして、彼の信仰を受け継ぐ人たちによって広く愛されてきました。
この祈りは、1913年に、フランスのノルマンディー地方で、「信心会」の年報『平和の聖母』(1913年1月、第95号)に掲載されたのが最初のようです。そして、1916年1月、バチカン発行の『オッセルヴァトレ・ロマーノ』紙で公認され、第一次世界大戦の中、人々に広まっていきました。
さらに、第二次世界大戦が終わった1945年10月、サンフランシスコで開かれた国連のある会議の場で、アメリカ上院議員トム・コナリーがこの「平和の祈り」を読み上げ、それ以降、この祈りが広く知れ渡るようになったようです。
この祈祷文は、在俗フランシスコ会(第3会)の団体においても愛唱されました。その結果、聖フランシスコの御絵の裏にこの祈祷文が印刷されたものが作成され、広く配られました。この御絵には、祈祷文が聖フランシスコのものだとは書かれていないのですが、この御絵によって祈祷文の作者が聖フランシスコであるという誤解が生じたのではないかと研究者たちは推測しています。
マザー・テレサは、彼女の修道会でこの祈祷文を毎朝唱え、1979年のノーベル平和賞授賞式においても聴衆に共に唱和することを呼びかけました。1984年のノーベル平和賞を受賞したツツ大主教も、この祈祷文を愛唱していたことで知られています。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は1986年にアッシジで世界宗教会議を開催した際、何度もこの祈祷文を引用し、参加者たちに唱和することを求めました。
また、現教皇フランシスコは2019年に訪日した際に、長崎の平和公園でのスピーチでこの祈りを引用し、「主よ、私をあなたの平和の道具としてください。憎しみがあるところに愛を、いさかいがあるところにゆるしを、疑いのあるところに信仰を、絶望があるところに希望を、闇に光を、悲しみあるところに喜びをもたらすものとしてください」と述べたのは記憶に新しいところです。
この祈祷文は3つの部分に分かれており、最初の部分は「憎しみ/愛」「傷つけ合う/赦し」「疑い/信仰」「絶望/希望」「暗闇闇/光」「悲しみ/喜び」という対比が見られ、こうした対照法は中世の祈祷文によく見られるものでした。
また、2番目の部分は「慰められる/慰める」「理解される/理解する」「愛される/愛する」という3組の受動態と能動態の対照が使われおり、これは、聖フランシスコと行動を共にしたエジディオにちなむ『兄弟エジディオのことば』に類似例があります。
3番目の部分は「与えることで受け取る」「赦すことで赦される」「死ぬことでよみがえる」の逆説で構成され、福音書に出典を見出すことができます。それは以下の聖句と考えられます。
「与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる。」(ルカ6:38)
「赦しなさい。そうすれば、自分も赦される。」(ルカ6:37)
「自分の命を救おうと努める者は、それを失い、それを失う者は、命を保つのである。」(ルカ17:33)
ウクライナで戦闘が続く中、この平和の祈りが心に響きます。
プーチン大統領は聖書の言葉を使って、国を守るためには死をもいとわないように兵士たちを激励しましたが、聖書を誤用しているは明らかです。その聖句は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)です。この聖句はイエス・キリストの生き方を示しており、この節の前の12節には「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」とあり、これがイエス様の真意であると考えます。それは同胞のウクライナ人を殺害しているプーチンが行っていることとは真逆です。
「聖フランシスコの平和の祈り」の冒頭では「主よ わたしを平和の器にしてください」と神様に祈っています。私たち一人一人が平和の器となれるよう、そして、そのための具体的なアクションを起こすことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。