マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

「シャローム・ジャスティス 聖書の救いと平和」に思う

 ウクライナでの戦争が一刻も早く終了するよう祈ります。
 先週の金曜日(11日)に、ハレルヤブックセンター支援会議が福伝前橋キリスト教会で行われました。その折り、「シャロームジャスティス 聖書の救いと平和」という本をいただきました。

f:id:markoji:20220316000645j:plain

 本書の原題は『Shalom: The Bible's Word for Salvation, Justice, & Peace』、訳せば『シャローム:救い、正義、平和を表す聖書の言葉』というものです。
 今、その本を読み進めていますが、そこでは聖書における「平和」の意味を多方面から追い求めており、新たな示唆を得ています。それは、ウクライナで現実に戦争が行われている今、キリスト者は平和についてどう考え、どう取り組むべきかを語りかけています。
 この本では、メノナイト派を代表する旧約学者ペリー・B・ヨーダーが、「平和」を表すヘブライ語「シャローム」を正義を根底にすえて丁寧に描き出しています。神の正義は、一般的な応報的正義と分配的正義とは異なり、むしろ修復的なものであることを聖書の中心的使信としての「シャロームジャスティス」として提唱しています。

 1章冒頭の「平和は中産階級の贅沢品である」との言葉から土肝を抜けられます。それは、現代のキリスト教会は平和の問題をあまりにも「暴力か非暴力か」という枠組みでとらえすぎてはいないか、そのため不正義の犠牲者に対しても非暴力の「平和」を唱道して、結果的に不正な現状維持に加担し、教会で語られる平和が「中流階級の贅沢」になってはいないか、との問いかけです。
 この本では、聖書本文の中で「シャローム」が意味することを拾い上げています。そしてそれを「元気(創世記29・6)」「(身体の)健全(詩篇38・3)」「友好のことば(申命記2・26)」「親しい者(詩篇55・20)」「安心(士師記19・20)」「無事(Ⅱサムエル18・29)」「繁栄(詩篇37・11)」「(豊作による)安らか(レビ記26・5)」「(戦勝による)安らか(エレミヤ43・12)」など、実にさまざまな言葉で訳し分けられていることが示されます。「シャローム」とは、すべてのものが「あるべき状態にあること」であり、それらすべてが「平和」と訳されるとは限りません。それだけ私たちには気づきにくい形で、聖書では「シャローム」があちこちに語られていることが分かりました。

 本書では、神の意志として「シャローム」(物事があるはずの状態)のヴィジョンとしてイザヤ2章2-4節が紹介されています。聖書協会共同訳で示します。
『終わりの日に 主の家の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。 国々はこぞって川の流れのように そこに向かい 
 多くの民は来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」と。教えはシオンから 主の言葉はエルサレムから出るからだ。
 主は国々の間を裁き 多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤に その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず もはや戦いを学ぶことはない。』
  ここでは、「シャロームは人々が神への従順において生きる-神の道を学び、その道を歩む-そのときに、結果として生じる。神の意志がなされるときに、シャロームは経験される。」と記されていました。ウクライナにおいても、できるだけ早く「剣を鋤に その槍を鎌に打ち直す。」状況になるよう祈るものであります。

 また、いわゆる「平和」にとどまらないシャロームの意味の広がりから、本書はシャロームを正義や救いを表す語としてもとらえ直しています。シャロームはしばしば正義と並立的に用いられ(イザヤ32・17、ヤコブ3・18)、物理的・身体的な苦境からの解放、不平等の改善や権利の回復といった関係性の正常化、道義的に誠実で責めるべきところがないことを意味します。シャロームに対応するギリシャ語(エイレーネー)では神の属性としての意味(「平和の神」)が加わることから、シャロームは聖書的正義の理解にとっても不可欠となるとしています。なお、本書ではへブライ語ミシュパトをjustice(正義)、ツェダカーをrighteousness(義)と訳しています。
 神の正義は、「応報的正義」また「分配的正義」とは異なり、不正義の構造をあるべき状態に正し、抑圧される者を回復し、困窮する者の必要を満たす正義であるとして、それを「シャロームジャスティス」と呼んでいます。
 さらに、「シャロームジャスティスには2つの側面がある。すなわち、困窮している者への援助が1つ、もう1つが抑圧する者の力の破壊だ」としています。そして、次の言葉が胸に突き刺さりました。
『なぜ、教会とキリスト者は、慈善-余剰の分配-には積極的でありながら、困窮を容認し、慈善が必要となる構造自体を変えることには比較的消極的なのだろうか。シャロームをつくり出すことは、力なき者の必要を満たし、彼らの困窮を引き起こす抑圧からの解放を要求することではないのか。平和をつくり出す者は、抑圧する者と抑圧的な構造に対して闘わなければならない。なぜなら、それの力が砕かれるまでは、困窮し抑圧される者たちは自由になれず、シャロームはあり得ないからだ。』

 ウクライナでの戦闘が激化し、女性や子どもまでが多くの被害を被っている現実を目の当たりにして、今、私たちは何をすべきでしょうか? ウクライナの人々に対する物資等の支援とともに、「シャロームジャスティス」に配慮し、不正義の構造をあるべき状態に正し、力なき者の必要を満たし、彼らの困窮を引き起こす抑圧からの解放を目指したいと思います。そして、それは遠いウクライナのことだけでなく、私たちの身近にある不正義の現実に目を向けることであると考えます。私たちキリスト者は、神の御旨である「シャローム」をつくり出すことができるよう、日々、祈り求めなければならないと思うのであります。