マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第22主日 聖餐式 『新たな復活の命を生きる』

 本日は聖霊降臨後第22主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、ヨブ記 19:23-27aとルカによる福音書20 :27-38。サドカイ派の人々との論争から、復活や死後の世界はこの世の在り様とは異なることを知り、信仰によってイエス様とつながり神様との交わりを保つことができるよう祈り求めました。「死後の世界」とはどのようなものか記した井上洋治神父の「キリスト教がよく分かる本」についても言及しました。

   新たな復活の命を生きる

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第22主日、11月の第1日曜です。カトリックでは11月は「死者の月」として、亡くなられた方に思いを馳せて祈りを捧げます。先主日、当教会では教会墓地で「埋葬式及び逝去者記念の式」が執り行われました。その後、嶺霊園内の当教会の信徒の墓を巡り、祈りを捧げました。ちなみに、キリスト教の墓は、仏教のように故人の魂が宿る場所ではなく、故人を偲ぶ祈念碑(モニュメント)のような場所です。
 
 聖書に入ります。今日の福音書は、ルカ20章27節以下の、エルサレムにおいてなされた論争の一つ「復活についての問答」です。復活を信じないサドカイ派からの質問に対して、イエス様は復活について述べられます。選択されている旧約聖書ヨブ記19章23節以下では、25節から27節、特に25節の「私を贖う方は生きておられ 後の日に塵の上に立たれる。」が対応しています。ここは、祈祷書の「葬送の式」でも用いられてきたように、古来復活と関連する箇所とされてきました。
 
 本日は11月、死者の月でもあり、「人は死んだらどうなるのか、どこへ行くのか」ということについても思い巡らしたいと思います。

 福音書を中心に考えます。解説も加えて振り返ります。
『イエス様と弟子たちはエルサレムに到着しました。そして、イエス様がその神殿の境内で集まった人々に教えておられた時、サドカイ派の人々が、イエス様に近寄って来ました。このサドカイ派というのは、日頃から人が死んで復活することはないと主張している人たちでした。サドカイとはソロモン時代(前10世紀)の祭司サドクに由来し、サドクの子孫を意味します。サドカイ派は、主に神殿の祭司長や貴族など、上流階級の人々によって構成されていました。サドカイ派は、旧約聖書のうちモーセ五書だけを重んじていました。モーセ五書というのは、旧約聖書の最初の五つの文書、すなわち、創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記です。これは律法と呼ばれる部分であり、そこには、直接は復活について何も書いてありません。そこでサドカイ派は、復活ということを否定していました。彼らは言いました。28節です。
「先生、モーセは私たちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄のために子をもうけねばならない』」と。これは旧約聖書申命記の25章5~6節に記されていることを示しています。その内容はこうです。「兄弟の一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟がめとって妻として、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」と。これはレヴィラート婚と呼ばれるもので、なぜそんな決まりがあったかと言えば、それは家系を絶やさないためでした。サドカイ派の人々は続けます。29節です。
「ところで、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と、次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子を残さずに死にました。最後にその女も死にました。すると、復活の時、彼女は、誰の妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」と。サドカイ派の人の質問は、復活したらこの女性はだれの妻となるのか、というものでした。言い換えれば、天国ではこの女はだれの妻となるのか、ということです。
 この問いに対してイエス様はこう答えられました。34節です。 
「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活の子として神の子だからである。」と。
  イエス様の答えは、復活した人々は「めとることも嫁ぐこともない」というものでした。つまりだれの妻でもないということです。次の世(来たるべき世)には、結婚ということがないというのです。 
 イエス様は、来たるべき世、死後の世界というものは、私たちが、今、住んでいるのと同じような世界がどこかにあるというようなものではないと、言われます。復活したら、死ぬ前の生活と同じように夫婦や親子等の関係をそのまま引き継ぐものではないと言われるのです。
 続いてイエス様は、サドカイ派の人々が認めているモーセ五書から引用してこう言います。37節です。
「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、明らかにしている。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きるからである。」と。
  「『柴』の箇所」というのは、出エジプト記第3章の初めの所、モーセが、燃えているのに燃え尽きることのない柴を見ることを通して主なる神様と出会い、そして、奴隷とされたイスラエルの民をエジプトから解放するために遣わされる、という箇所です。そこに「私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という主の言葉があります。イエス様はそれを引用して、この言葉が、「死者が復活すること」と語っています。この表現は、過去において「アブラハムの神だった」ということではなく、今も「アブラハムの神」であり続けるということを意味します。神様は「生きている者の神」ですから、人は生きているうちに神様との関わりを持ち、その関わりはいつまでも、死後も続くのです。アブラハムやイサク、ヤコブは生前、神様との関わりに生きていました。だから、その関わりは死後も続くものであり、神様との関わりの中において、彼らは今も生きているのです。それをイエス様は「復活している」と言っているのです。

 このような問答でした。この箇所で神様が私たちに伝えたいことは何でしょうか? 
 本日の旧約聖書ヨブ記19:25~26にこうあります。
『私は知っている。私を贖う方は生きておられ 後の日に塵の上に立たれる。私の皮膚がこのように剥ぎ取られた後 私は肉を離れ、神を仰ぎ見る。』
 ここに死後、復活の命はあり、それは肉体を離れ別の姿で神様にまみえることが記されています。旧約聖書で既にこのように記されていたのです。
 しかし、サドカイ派の人々は、復活とは今の生活が続くことと考えていましたので、イエス様はその考えが全くの誤解であることを指摘しました。「来るべき世」の在り方は「この世」の在り方とは異なります。復活とは、死後も、同じ姿、同じ生活で生きつづけることではなく、神様が与える新しい命を生きることなのであります。

 では、「来たるべき世」の在り方とはどのようなものでしょうか? キリスト教のいう「死後の世界」とはどのようなものでしょうか? 
 「死とは、さなぎが蝶になるようなもの」という表現があります。キリスト教では、蝶は復活の象徴です。いも虫が、さなぎになり、やがてその中から蝶が現われて飛び立つ。人の死も、そのようである。さなぎの殻を脱ぎ捨てて蝶が飛び立つように、私たちは肉体という殻を脱ぎ捨てて、天国へ飛び立っていくというのです。それは一つの例示であり、他にもいろいろな表現がされています。
 今日はこの本、井上洋治神父の「キリスト教がよく分かる本」を持ってきました。

 この本は「キリスト教がどのような宗教であるか」を分かりやすくQ&A形式で記したものですが、そのQuestion57に「キリスト教のいう「死後の世界」とはどんなものですか?」という設問があり、その答えが示されています(P.196)。
 そこには、死んでからの状態は、「この世ではまだつぼみの状態にあるものが死後美しく開花するようなもの」とあります。また、死後の状態について「新約聖書コリントの信徒への手紙一13章」を引用し、死後にその状態がはっきり分かるとして、今の私たちは「ちょうど水の中にいるトンボの幼虫のヤゴが、青空を飛んでいるトンボの世界を理解しえないように、私たちには、至福直観という死後の永遠の次元の世界を想像することはできません」とあります。至福直観とは、死後、神様を直接仰ぎ見る幸いな状態を言います。そして、「仏教徒であろうと誰であろうと、キリスト教の考え方からすれば、救われた人はみんな同じ神さまのふところに迎え入れられるのだ」と結論づけています。
 
 皆さん、これまで聖書や井上洋治神父の本で見てきたように、サドカイ派が否定した復活や死後の世界も実際にあるのです。しかしそれは、この世での在りようではありません。「めとることも嫁ぐこともない」のです。それは、さなぎが蝶になるようなものであり、つぼみが美しく開花するようなものです。その生き方とは、全存在を神様に委ねて、すべての思い煩いから解放されて自由に生きることなのであります。

 私たちが「来たるべき世」で復活するのにふさわしい者とされるために必要なことは何でしょうか? それは、私たちが、神の子として救われることであり、言い換えれば、信仰によってイエス様とつながることであると考えます。 
 神様との交わりを持つ者は、死後も、約束を必ず果たす神様の誠実さのゆえに、その関わりの中で生き続けます。キリストと結ばれて生きる者は、すでにその「永遠のいのち」をこの世で生き始めているのです。新たな復活の命に預かり生きるよう、そして、生涯、神様との交わりを保つことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。