マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

顕現後第5主日 聖餐式 『神の恵みと私たちの使命』

 本日は顕現後第5主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書日課はコリントの信徒への手紙一15:1-11とルカによる福音書5:1-11。
 これまでにない感染拡大を受けて、礼拝時間を短くリスクを減らすため、やむなく聖歌は歌わず奏楽のみ、説教は7分程度に短くしました。説教では、私たちは神の恵みを生きるように呼ばれ、「人間を生かして捕らえる」という使命が与えられていることを知り、神の恵みの内に歩み使命を果たすことができるよう祈り求めました。

   『神の恵みと私たちの使命』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は顕現後第5主日です。福音書は、ルカによる福音書の第5章1節以下で、シモン・ペトロがイエス様から召し出される箇所です。シモンは本名、ペトロはイエス様が付けたニックネームで「岩」という意味です。彼が教会の礎石となったからだと思います。今日の箇所は次のような話です。

 シモンたちは、ゲネサレト湖で夜通し働きました。ゲネサレトとは湖の西側にある平原地帯の名で、ゲネサレト湖はガリラヤ湖の別名です。今はその湖畔に「ペトロ召命教会」という名の教会が建っています。

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 ペトロたちは一生懸命働きましたが、全く魚が捕れませんでした。しかし、イエス様の言葉に従ったら、たくさん捕れました。そこで、シモン・ペトロは驚いて「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です。」(8節)と言って、恐れを感じました。そのシモンに対してイエス様は「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(10節)と言って弟子に選び、彼らは従いました。
 シモンが「私は罪深い人間」だと言ったことについては、この後の様子を見ると、シモンは優等生ではなく、出来の悪い弟子のようで、自分を「罪深い人間」と言うシモン・ペトロの告白は、理解できます。
 しかし、イエス様はそういうペトロを弟子として選ばれました。ペトロだけでなく、弟子の12人はそれほど優秀な人は選ばれていません。どちらかというと、皆、度々イエス様から叱られていて、出来の悪い人たちばかりだったような気がします。
 イエス様は弟子としてふさわしい人を選んだというよりは、人間的に見て、ふさわしくないような人を選んでいるように見えます。それは、少しでも能力のある者を重用するという世間の常識と真逆であると思います。
 
 洗礼を受けた私たち・教会に招かれた私たちは、神様から選ばれたと言えますが、ふさわしいから信仰者に呼ばれたのかというと、そうとも言えないのではないかと思います。聖職や自分を見ても、ふさわしいから選ばれたというとそうとも思えません。しかし、そこに信仰者として歩む不思議さ・神秘があるのではないかと思います。
 
 今日のペトロの話では、夜通し働いたのに魚が捕れませんでしたが、イエス様の言葉に従ったら、急にたくさん捕れました。これは、信仰者の世界は、人間の努力に見合う形で恵みがあるのではないということだと思います。ちなみに、ここの「言葉」という単語は原文では「ロゴス」(1節)ではなく「レーマ」(5節)で、「レーマ」には、「言葉」と「出来事」という二つの意味があります。イエス様が語った言葉は、「魚が捕れる」という出来事となってシモンたちの目の前に現れたのです。なお、「舟」は教会の象徴とも考えられます。教会は言葉「レーマ」の上に立つ共同体であり、言葉が語られる場であると同時に、その出来事を実際に体験する場でもあります。
 
 今日の使徒書、コリントの信徒への手紙一で、パウロは、私は「使徒たちの中では最も小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今の私があるのです。」(15:9-10a)と言っています。つまり、ふさわしくないけれども自分は選ばれた。それはなぜかと言ったら、「神の恵みによって」であり、自分の努力によってではないと言うのです。パウロは多くの働きをしましたが「働いたのは、私ではなく、私と共にある神の恵みなのです。」(10節b)と言っています。神様の恵みが私たちに働いているので、私たちは、ふさわしくないけれど選ばれたのです。
  この神様の恵みの神秘を生きるように、私たちは呼ばれています。信仰は努力主義ではありません。自力で自分を救うことはできません。私たちは神様の恵みによって救われて、神様の恵みを生きるように呼ばれています。神様はペトロやパウロのような、ふさわしくないと思われる人を選ばれました。私たちも選ばれました。神様の恵みを生きるように呼ばれ、使命を与えられているのです。
 イエス様は「今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」とペトロたち、そして私たちに語っています。ここは原文では2節や6節の「漁師(ハリエイス)」という言葉でなく、ゾーグレオー「捕らえて生かす」という言葉が使われています。ゾーグレオーは、形容詞ゾーオス(生きている)と動詞アグレオー(捕る)の合成語で、「生け捕りにする」「生かすために捕まえる」の意味であり、弟子の使命を表すのにふさわしい言葉であると思います。
 
 皆さん、私たちは神様の恵みを生きるように呼ばれ、「人間を生かして捕らえる」という使命が与えられています。
 この神様の心を受けとめて、神様の恵みを生き、与えられた使命を果たしていけるように祈りましょう。努力や真面目に生きることは大事なことではありますが、でもそれを完全にはできないと認めた上で、私たちが神様の恵みの内に歩み使命を果たすことができるよう、この礼拝で、そして日々の生活の中で祈り求めて参りたいと思います。