マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

顕現後第3主日 聖餐式 『貧しい人に福音を告げ知らせるイエス様』

 本日は顕現後第3主日です。午前は前橋の教会、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書日課はネヘミヤ記8:2-10とルカによる福音書4:14-21。
 説教では、イエス様がこの世界に来られたのは「貧しい人に福音を告げ知らせるため」ということを知り、自分が貧しい人であることを自覚し、へりくだって神を信じ恵みを祈りました。新町の礼拝では旧約聖書における「貧しい人」の発想を説明し、前橋の礼拝では今日の福音書箇所と思われる聖堂の入口に置いてあるイコンも使いました。

   『貧しい人に福音を告げ知らせるイエス様』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は顕現後第3主日です。この日は、カトリック教会では「神のことばの主日」と呼ばれる日です。この主日福音書は、毎年イエス様の公生涯の第一声、宣教開始の箇所が選ばれています。今年C年は、ナザレの会堂におけるイエス様のイザヤ書朗読とその実現の宣言です。旧約聖書はネヘミヤ記8章から、イスラエルの民が捕囚先のバビロンから帰還し、再建された神殿で祭司エズラたちの律法朗読を聞いた人々が感動する箇所が選ばれています。

 本日の福音書はルカの4章14節からです。イエス様は霊の力に満たされ、ガリラヤに帰りました。当時の会堂(シナゴーグ)は、安息日には礼拝する場所、平日には少年の学校として機能していました。会堂には会堂司がいて、その地を訪れている教師を招いて聖書の朗読と説教を依頼しました。イエス様はユダヤ教の一教師としてとらえられ、諸会堂で教えていました。
 そして、イエス様は故郷のナザレに行き、安息日に会堂でイザヤ書61章1-2節と58章6節から朗読しました。それは自分がどういう者であるか、これから何をするかということを人々に語った箇所です。

 イエス様の第一声は何だったでしょうか? それは18節の「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために 主が私に油を注がれたからである。」ということでした。主が私をメシア(油注がれた者)にされたのは、貧しい人に福音を告げ知らせるためだ、というのです。主の霊(聖霊)の力によって神様がイエス様をこの世界に遣わされた理由は、この一言で要約できます。貧しい人に福音を告げ知らせるため、ということです。
 ここの「貧しい人」は、ギリシャ語では「プトーコイ」で「プトーコス」という言葉の複数形でした。「貧しい人」とは、まず経済的に貧しさを意味しますが、そういう人は社会的にも不当な扱いを受けることから、神だけを頼りにするようになり、そこから「貧しい人」とは「神に信頼する謙虚な人」という意味になりました。また、旧約聖書での「貧しい人」はヘブライ語で「アナウィム」と言い、意味は「抑圧された人々」です。ただ単に経済的に貧しいというだけでなく、貧しさゆえに弱い立場に立たされ、抑圧されている状態の人々のことです。
 その「貧しい人」に福音(よい知らせ、Good News)を告げ知らせるために、イエス様はこの世界に来られたのです。なお、「貧しい人」は神様の助けを最も必要としてる人であり、それはまた私たち一人一人のことであり、すべての人であるとも言えるのではないでしょうか?

 貧しい人に、イエス様は福音を告げ知らせました。これを信じるかどうかが問われていると思います。私たちが病気をしたり、様々な苦難に遭遇したりすると、なかなか信じ難い、ということがあるとは思います。
 ちなみに、旧約聖書の発想はこうでした。神様に祝福された人は羊をたくさん持ち家族がたくさんいて、健康で、皆幸せで、そういう人は神様から祝福されていますが、お金がなくて病気で、貧乏で、子供のいない夫婦というのは祝福されていない、神様の恵みをもらっていない。だから、貧しい人というのは基本的に神の恵みがない人で、お金持ちで、健康で、社会的地位も高い人は、神の祝福がたくさんあるというふうに考えられていたのです。しかし、イエス様の場合は反対で、貧しい人に福音を告げ知らせるというので逆転しています。

 さらに、イエス様は「主が私を遣わされたのは 捕らわれている人に解放を 目の見えない人に視力の回復を告げ 打ちひしがれている人を自由にし主の恵みの年を告げるためである。」と言いました。「主の恵みの年」とは、「ヨベルの年」と言われ、50年に一度、民のすべてが自由になる、解放の宣言がなされる年とされています(レビ記25章)。この年が巡ってくると、売却された土地は返還され、奴隷は元の身分を回復することができました。「ヨベル」というのは雄羊の角の意味で、雄羊の角でつくったラッパを吹き鳴らしてこの年を聖別した(レビ記25:9)のでした。その「ヨベルの年」、つまり「主の恵みの年」を私たちに告げるためにイエス様は遣わされたのです。
 「貧しい人に福音を告げ知らせる」とは、詳しく言えば、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由に」する、ということです。それはつまり「口で言うだけではなくて、実際にそうする」ということです。イエス様は言葉と行いが一致しているのですから、貧しい人に福音を告げる、と言ったら、実際、福音がいただける。それが「解放」であり、「視力の回復」であり「自由」である。その恵みを主が私たちにくださる、と約束してくださり、しかも、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とあるように、このイエス様の言葉は「今日、実現した」のです。これこそ「よい知らせ、福音」であります。

 私たちにとって大事なことは何でしょうか? それは、「自分が貧しい者であることを認めること」、そして、「主が告げ知らせた福音を受け入れること」なのだと思います。私たちが「自分を貧しい者と自覚し、福音を受け入れるかどうか」が問われていると考えます。

 このイコンをご覧ください。

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 このイコンは、いつも聖堂の入口に置いておきましたが、私が「あかつきの村」のバザーで購入した物で、今日の福音書箇所を表したものと考えます。この絵は、全能者キリストを描くイコンの一つであり、右手は祝福のしぐさ、左手には、神のことばを象徴する巻物を示しています。イエス様は、神のことばである聖書を通して、私たちを祝福しておられるのです。

 皆さん、神様の願いは全ての人を救いたいということです。そこで救い主イエス様をこの世界に派遣しました。イエス様は貧しい人に福音を告げ知らせるためにこの世界に来られたのです。そのイエス様に信頼しましょう。願ったことをすぐに叶えてくださるかどうかは分かりませんが、私たちがへりくだってイエス様を信じるならば、イエス様は一人一人に応じた方法で必要な恵みを与えてくださいます。
 私たちが「貧しい人」であることを自覚し、この礼拝で、また、日々の生活において、イエス様がいつも豊かな恵みを与えてくださる、そのことを信じて、神様と共に歩む人生を送ることができるよう、祈って参りたいと思います。