マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降臨節第3主日 聖餐式 『悔い改めにふさわしい実を結ぶ』

 本日は降臨節第3主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書日課はゼファニヤ書3:14-20・フィリピの信徒への手紙3:4-7・ルカによる福音書3:7-18。
 説教では、喜びの主日にあたり、主の来臨の準備として「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ことが望まれていることを知り、私たちが正しい生き方をして自分の持てるものを他の人と分かち合うことができるよう祈り求めました。これまで「まむし」と訳された言葉が今回「毒蛇」と訳された意図等についても言及しました。

   『悔い改めにふさわしい実を結ぶ』

 <説教>
主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 先主日、12月5日は前橋の教会で「群馬伝道区合同礼拝及び前橋聖マッテア教会会館・牧師館改築落成感謝礼拝」がありました。新町からは伊勢共栄さんと伊勢徹さんが参列されました。総勢57名の参列者と共に、この喜びを分かち合うことができ感謝な時でありました。

 さて、今日は降臨節第3主日です。伝統的に降臨節待降節)第3主日は「喜びの主日」と言われてきました。前橋の教会の今日のアドベント・クランツのローソクはピンク色です。事前に写真を撮ってきました。

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 降臨節の祭色は紫ですが、この日だけ祭服をバラ色やピンク色を使う教会もあります。そこで、「バラ色の主日(Rose Sunday)」とも言われます。
 本日の聖書日課でも、旧約聖書の冒頭で「娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜びの声を上げよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び祝え。」とか、使徒書でもその冒頭で「主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」とあるように喜びが強調されています。  
 そして、福音書では、洗礼者ヨハネがその到来を予告した救い主がすぐ近くに来ておられる、という喜びの雰囲気がこの主日にはあります。

 本日の福音書箇所は、ルカによる福音書3章7節-18節で、この箇所を含む聖書協会共同訳聖書の小見出しは「洗礼者ヨハネ、悔い改めの洗礼を宣べ伝える」と記されていて、洗礼者ヨハネによってイエス様の来臨の備えをすることが述べられています。この箇所では、特に、「群衆」「徴税人」「兵士」に対するヨハネの教えや「勧め」(18節)が挿入されているのが特徴と言えます。 
 今日の福音書箇所を振り返ります。
 イエス様が宣教活動を始められたのは、およそ30歳であったと記されています(ルカ3:23)。その前に、ヨハネという人が荒れ野に現れて、人々に罪の悔い改めを勧め、ヨルダン川で、洗礼を授けていました。そのことから、このヨハネは、バプテスマのヨハネ、洗礼者ヨハネと呼ばれます。今日の箇所の後に記されていますが、イエス様もこのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けます。
 この洗礼者ヨハネは、そこに集まってきた群衆に向かって、今日の福音書の冒頭で「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。・・・斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒され、火に投げ込まれる。」(7-9節)と叫び、神の怒りと神の裁きを宣告しました。ちなみに今回「毒蛇」と訳されたギリシャ語「エヒドナ」は、以前の訳(新共同訳・口語訳等)では「まむし」と訳されてきました。聖書協会共同訳聖書でこの言葉を「毒蛇」と訳した理由がこの本に記されていました。『ここが変わった!「聖書協会共同訳」新約編』です。

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 それによると、「エヒドナ」は毒を持つクサリヘビ(毒蛇)の一種で「まむし」もそれに含まれますが、日本では「まむし」は沖縄では自然には存在しない種類の蛇だそうです。今回、正確に訳すと共に、少数者を大切にするイエス様に倣って「まむし」より共通に存在する「毒蛇」を訳語にしたとのことでした。
 また、8節に「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。」 とあります。「アブラハムの子」というのは選民意識の表現です。ユダヤ人は神から選ばれた特別な民であるという意識が根底にあります。ここではヨハネユダヤ人たちに「アブラハムの子孫というだけで神からの救いが保証されると考えるな」と警告しています。これは、「人間は出自(生まれたところや家柄)で人格や人生が決まるものではない」ということです。この言葉は日本人を含むすべての人に向かって言われています。いかなる人も救いを受ける資格があるということです。
 これを聞いた「群衆」は、「では、私たちはどうすればよいのですか」と尋ねました。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えました。つまり、持たない者、貧しい人に、衣服や食べ物など生活の必需品を分かち合うようにと、答えたのです。続けて、徴税人も兵士たちも、それぞれ、「私たちはどうすればよいのですか」と尋ねました。「徴税人」はユダヤ人でありながらローマ帝国のために同胞から税を取り立て、そのことによって自分の利益を得ていた人です。彼らの中には不正な取立てをする者も多く、その職業というだけで罪人のレッテルを貼られていました。その徴税人にヨハネは「規定以上のものは取り立てるな」と言っています。「兵士」に対してヨハネが語ったのも、ただ、「人に対して悪を行なわないように、貪欲になるな」ということでした。ヨハネは徴税人や兵士に向かって、その仕事を辞めることを要求していません。「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」とは、みんなで荒れ野に行くことではなく、それぞれの置かれた場で正しい生き方をして自分の持てるものを他の人と分かち合うことであり、ヨハネはそうするように勧めたのです。 
 これは現代でいえば、ホームレスの方々への炊き出し貧困家庭のための子ども食堂の活動などが挙げられると思います。丸茂ひとみさんの行っているフードバンクの働きもヨハネの教えに添っていると考えます。

 このようなヨハネの言葉を聞いて、民衆は、この人は、我々が待ち望んでいるメシア(救い主)ではないかと思い始めました。ここでの「民衆(ラオス)」とは、救いを受け入れる準備のできた人のことです。民衆が「自分のことを、救い主、メシアではないか」と思い始めたことを知ったヨハネは言いました。「私よりも力のある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる。その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。」と。(16-17節)
 洗礼者ヨハネは、自分の後から来られる、イエス様のことを「私よりも力のある方。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」と言って紹介しました。「履物のひもを解く」は奴隷の仕事であり、「私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない」というのは、来られる方がいかに偉大であるかを強調する表現です。洗礼者ヨハネは、民衆に、自分の後に来られる方こそ、聖なる霊と火において洗礼を授ける偉大な方なのだと示したのです。そこには私たちを包み込むイメージがあります。そして、その方は裁きを行いますが、麦は倉に納めます。つまり、良い実は救われるのであります。

 18節に「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。」とあります。ヨハネの告げた「福音(よい知らせ)」とは何でしょうか? 第一には「真の救い主が私の後に来られるということ」でしょう。と同時に「悔い改めによって救いにあずかることができるということ」も福音であると考えます。「悔い改め」とは「悪いことはもうしません」ということではありません。「生きる方向を変えて神と向き合うこと」であり、「神に立ち帰ること」です。言い換えれば、自分中心の視点から神の視点に変えるということです。主がもうすぐ来るということ、悔い改めによって救われるということ、この2つが福音と言えるのではないでしょうか?

 洗礼者ヨハネは、来たるべき方のために、道備えを叫ぶ人でありました。「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言われた当時の人々は、口々に「では、私たちはどうすればよいのですか」と尋ねました。
 今、イエス様をお迎えしようとする私たちが、ヨハネの言葉を聞いて、「では、私たちはどうすればよいのですか」と尋ねるならば、洗礼者ヨハネはどのように答えるでしょうか?(少し待つ)

  本日は降臨節待降節)第3主日、「喜びの主日」です。イエス様はすべての人を救うためにこの世界に来られます。それには生まれや家柄は関係ありません。いかなる人も救いを受ける資格があります。すべての人の救い主であるイエス様がもうすぐ来られのです。これは大きな喜びであります。
 私たちがその準備としてなすべきことは何でしょうか? それは「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ことです。ヨハネは私たちに、自分中心から神中心に視点を変え、貪欲にならずにそれぞれの置かれた場で正しい生き方をして自分の持てるものを他の人と分かち合うようにと教えています。このヨハネの教えを日々の生活の中で行うことがことができるよう、共に恵みの主に祈り求めて参りたいと思います。