マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『チャールズ・ミンガスとキリスト教』

 先週の水曜(1月5日)午前2時のNHKラジオ深夜便で、チャールズ・ミンガスの特集をしていました。その日が、彼の命日であることを想起してのことでした。私は偶然、それを最後まで聞きました。
  チャールズ(私は「チャーリー」と言っていました)・ミンガス(Charles Mingus、1922年4月22日 - 1979年1月5日)は、アメリカ合衆国のジャズ演奏家(ベーシスト、作曲家、バンドリーダー、時にピアニスト)で、アルバム「直立猿人」等の名盤があり、人種差別反対活動家としても有名でした。力強い個性的なベースが印象的です。
 彼の人種差別反対の曲として知られているのが「フォーバス知事の寓話」で、私はこのLP「ミンガス・プレゼント・ミンガス」で聴いてきました。

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 「Charles Mingus Presents Charles Mingus」は1960年末に録音され発表されたアルバムです。「フォーバス知事の寓話」Fables of Faubus は次のyoutubeのアドレスで聞くことができます
https://www.youtube.com/watch?v=TJTZjRq0TMo

「フォーバス知事の寓話」はリトルロック高校事件に応じて人種差別主義者の白人知事を皮肉った曲です。
 この中でミンガスはこう言って(歌って?)います。訳したものを示します。

ああ神よ、
どうか我々を銃で撃たせないで
ああ神よ、
どうか我々にナイフを刺させないで
ああ神よ、
かぎ十字章は、もういらない
ああ神よ、
どうか我々を私刑にさせないで

ああ神よ、
クー・クラックス・クランは、もういらない
ダニー、
イカれた奴の名前を教えてくれ
フォーバス知事!
どうして奴は、イカれた病人なんだい?
奴は人種差別のない学校を許可しない
なんて奴は愚かなんだ!

ブー!
ナチスファシスト至上主義者!
ブー!
クー・クラックス・クラン
(それもジム・クロウ法付き)

ダニー・リッチモンド
愚かな奴らの名前を教えてくれ
ビルボー、トーマス、フォーバス、ラッセル、
ロックフェラー、バード、アイゼンハワー
どうして奴らは、イカれた病人なんだい?

2・4・6・8
奴らは君を洗脳して、差別を教え込む

H-E-L-L-O ハロー

ブー!
ナチスファシスト至上主義者!
ブー!
クー・クラックス・クラン
(それもジム・クロウ法付き)
 

 歌詞の中にある「ジム・クロウ法( Jim Crow laws)」は、1876年から1964年にかけて存在した、人種差別的内容を含むアメリカ合衆国南部諸州の州法の総称です。

 リトルロック高校事件の概要は以下のようです(ウィキペディアから)。
『1954年のブラウン判決によって、それまで行なわれていた公立学校における白人と黒人の分離教育が違憲となり、各地で白人と黒人が同じ学校に通う融合教育化が進められるようになった。
 アーカンソー州は人種偏見の強い南部の中では差別撤廃に最も積極的な州ではあったが、1957年にリトルロック高校の融合教育化が決定すると、当時のアーカンソー州知事オーヴァル・フォーバスは州兵を学校に送って黒人学生の登校を阻止した。異人種融合に反対する地元の白人も大群衆となって学校を取り巻き、黒人学生の登校に反対した。
 リトルロックの市長がフォーバス知事に法律順守を進言したが拒否されたため、市長はドワイト・D・アイゼンハワー大統領に軍の派遣を要請した。アイゼンハワー大統領は事件について報告されていたにもかかわらず、州の権限に介入することによる政治的問題が起こることを鑑みて静観していたが、騒動がテレビで大々的に報じられ国内外で大きな注目を浴びるに至り、市長の要請に応じて陸軍第101空挺師団をリトルロックへ送り込んだ。入学予定の9人の黒人学生(リトルロックの9人)は軍の護衛付きで登校した。
 その後も軍の警護がついたが、校内では白人生徒による黒人生徒への激しいいじめや命にかかわるような暴力的な嫌がらせが続き、耐えかねて一人が中退したが、1958年に一人が無事卒業した。フォーバス知事は、騒動後も融合教育に反対し続け、融合を命じられた高校3校を突然閉校するという暴挙にまで及んだ。
 1959年には、ジャズ・ミュージシャンのチャーリー・ミンガスは、この事件を揶揄する曲『フォーバス知事の寓話』を発表し、歌詞の中で知事とアイゼンハワー大統領を激しく批判した。
 フォーバス知事は地元民の支持を受け、その後12年間も知事職を務めた。リトルロックのすべての高校で融合教育が実施されたのは1972年である。』

 チャールズ・ミンガズが『フォーバス知事の寓話』のような曲を発表する背景には、彼の幼少期の体験があると考えられます。それは彼の自伝「敗け犬の下で」に記されていました。

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 この本によれば、チャールズは幼い頃からカルフォルニア州ロス・アンジェルス郡ワッツ市の第一アフリカン・メソジスト・エピスコパル教会の日曜学校に通い、ロス・アンジェルス・ジュニア・フィルハーモニック・オーケストラでチェロを弾いていました。ある時、教会の仲間が交通事故に見舞われ、救急車を呼んでも「黒人」と伝えると後回しにされ死亡するということを目の当たりにします。そこは黒人地区で、何度も停止信号橙設置の要望をしても叶わず、「これが白人地区ならすぐに設置されるだろう」という差別を実感します。「神の前で平等」という教会の教えと現実とのギャップに激しい憤りを感じていました。その感情が、彼の音楽となって溢れ出ていると思います。今でいえば「人権の主張」です。しかし、この自伝に聖書の内容が何度も出てくることから、キリスト教は彼の生き方の根っこにいつもあったと感じています。
  ちなみに、チャールズは彼が在籍したヨルダン高校の頃に友人から「黒人ではクラシックの世界ではうだつが上がらない」との助言を受け、チェロからダブルベースに替えたとのことです。
 チャールズ・ミンガズは1979年1月5日、筋萎縮性側索硬化症の悪化により56歳で息を引き取りますが、彼の音楽と人権意識は今も生き続けています。