マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降臨節第1主日 聖餐式 『イエス様の来臨を喜びを持って待つ』

 本日は降臨節アドベント)第1主日です。午前前橋、午後新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書日課はゼカリヤ書14:4-9・テサロニケの信徒への手紙一3:9-13・ルカによる福音書21:25-31。
 説教では、降臨節の始めの主日にあたり、イエス様の来臨について2つの側面があることを知り、その日を喜びを持って待ち、日々、イエス様を信じ主に従って生きるよう導きを祈りました。アドベントで思い浮かべる「待降節のリース」という話も紹介しました。

   『イエス様の来臨を喜びを持って待つ』

<説教>
  主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は降臨節第1主日です。アドベント・クランツのろうそくの1本目に火が点りました。

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 降臨節カトリックプロテスタントの一部の教派は、「待降節(降臨を待つ意)」と呼んでいます。降臨節待降節も英語では同じ「アドベント」です。「アドベント」は「だんだんやってくる」という意味を持っています。「何がやってくるか」と言いますと「救い主イエス様」であり、「主イエス様」の来臨を期待を込めて待つ期節、それが降臨節です。
 この「降臨節」というシーズンには、2つの意味があります。第1は、神の子キリストが、ユダヤベツレヘムにおいて、人間の肉体をとり(受肉)、私たちが住むこの世に来られたという「来臨」を待ち臨むということです。そして、第2は、世の終わり、つまり「終末」にキリストが再び来るという来臨、つまり「再臨」を待ち望むことです。

 本日の福音書は、ルカによる福音書21章25節-31節で、この箇所を含む聖書協会共同訳聖書の小見出しは「人の子が来る」及び「いちじくの木のたとえ」と記されていて、全人類を裁くため雲に乗ってくる人の子の来臨が述べられ、信じる者たちの救いの時と神の国の接近が告げられる箇所です。使徒書では、福音書と似た「私たちの主イエスが、そのすべての聖なる者たちと共に来られる」(13節)という表現のあるテサロニケの信徒への手紙一からの箇所が選ばれ、旧約聖書では、ゼカリア書14章の「主の日」の預言から、「主であるわが神が聖なる者たち(天使)と共に来臨し、王になられる」という部分を読んでいただきました。どれも主の来臨がテーマとなっています。

 今日の福音書を理解するには、この箇所の置かれている状況をつかむ必要があります。今日の箇所の直前では、イエス様は民衆にエルサレムの滅亡を予告し、その折りは「山に逃げなさい」と話し、さらにその時のなすべき事などについて話しました。その箇所は、2週間前の主日で扱ったマルコによる福音書13章で、イエス様がおっしゃったのは、人間の造った壮麗な建築物の中ではなく、「神のいる山に行き、神に出会いなさい」ということでした。そして今日の箇所につながっていきます。

 今日の福音書では終末のイメージが語られています。今私たちが生きているこの世界にははっきりと終わりがあり、その後に神が直接支配される世界がはじまる、それが終末という出来事なのですが、そのときには天体にも変化が起こると書かれています。私たちの世界から神の国(神の支配)に移るときには、「この世が一度崩れ去るような、非常に大きな変化があるのだ」ということを今日の箇所は語ります。
 この世の終わりかと思われる混乱の中にあって、「人の子が雲に乗って現れる」と27節で示されています。その前に天変地異を前にして「人々は気を失うだろう」とも書かれています。人々が気を失うほかないほどのことが起こる中にあって、「人の子が力と大いなる栄光を帯びて雲に乗って来る」と言われています。「人の子」とはイエス様を表す言葉です。イエス様は大混乱の中を私たちの方に向かってやってきます。「雲に乗って」という言葉は、妨げるものが何もない中を通り抜けてくるイメージがあります。だからその時を逃さないように、28節で「このようなことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからだ。」とイエス様はおっしゃています。気を失うほどの恐ろしいことはひどいことに終わるのではなく、あなたがたの救いの時は近いのだから、恐ろしいことの向こうにある救いを待ちなさい。恐ろしさに囚われたままでいるのではなく、恐ろしさの向こうにあるものを信じて待ちなさい。終末という言葉から「恐ろしいことが起こる」という思いを抱くのではなく、「イエス様がやってくる」という思いを抱きなさいと言っているのだと思います。なお、ここで「救い」と訳された言葉はギリシャ語では「アポリュトローシス」で、直訳では「解放」で、この前の新共同訳は「解放の時」と訳していました。英語の聖書(NRSV・KJV)では「redemption(贖い、キリストによる救い)」でした。人の子が到来する時はイエス様を信じる者にとっては「解放の時」であり、それこそが「救い」なのです。だから身を起こし頭を上げ神を見なさいと、イエス様はおっしゃっています。            
 そして、29-31節では、イエス様は、いちじくや他の木の葉が出たら夏が近いと分かるのと同じように、「このような天変地異やこの世界の混乱が起きたら神の国(支配)が近いと悟りなさい」と注意を喚起しています。

 本日は教会暦で1年の最初の主日であり、主の来臨を待ち望む降臨節アドベント)の第一主日です。アドベントになると、クリスマスツリーを出したりリースを飾ったりします。この教会でもリースが飾られました。そして、目の前にはアドベントクランツがあります。
 アドベントのリースは神の無限の愛を象徴する丸い形をしていて、「イエス・キリストがもたらす永遠の命の希望を示す」常緑樹の葉を用います。そして、アドベントリースの中には、アドベントの4週間を示し、かつ「キリストの降誕を通して世界にもたらされたキリストの光」をも象徴するキャンドルの明かりを主日ごとに一本ずつ増やします。その光は、それぞれ、希望、平和、喜び、愛を表します。この教会では5本目のキャンドルを降誕日またはその前夕に灯し、クリスマスを迎えます。

 アドベントのリースで思い浮かべる話があります。「待降節のリース」という話です。こんな話です。
 『第二次世界大戦中、ヨーロッパではドイツのナチス政府は多くのユダヤ人を収容所に送り残虐な行為をし、600万人にも及ぶユダヤ人が殺されました。ドイツの収容所に20世紀を代表する神学者で牧師のボンヘッファーユダヤ人の亡命を助けたということで逮捕されていました。1943年のアドベントの最初の主日(つまり降臨節第一主日)、彼は牢屋の壁に木の枝で編んで作った輪をかけました。それが「待降節のリース」と言われるもので、それはクリスマスを待ち望むしるしです。ボンヘッファーはどんな恐ろしい苦しみと不安の中にあっても、主イエス様が来て、必ず解放してくださり悪人は裁かれると信じていました。ボンヘッファーヒットラー暗殺計画に関与したとされ、1945年4月9日に処刑されました。その3週間後にドイツは降伏しました。
 ナチスドイツが、戦いに敗れ降伏したという知らせが収容所に届いたとき、そこにいたユダヤ人たちは喜びに沸き返りました。自分たちが解放され自由になる日が来たからです。反対に、これまで収容されていたユダヤ人を苦しめていたナチスの指導者や兵士たちは、今度は自分たちが裁かれ、これまでしたことの罰を受けると思い、大きな恐れにとらわれたということです。』
 このような話です。

 終わりの日、終末、それは主イエス様が再びこの世に来られる日です。今、苦しみの中にあってもイエス様を信じ主に従って生きる者にとっては、その日は大きな喜びの日、希望の日です。しかし、神の愛に逆らって生きている者にとっては、それは裁きの日になります。
 私たちは降臨節第1主日、新しい教会暦の始まりの日に、自身の信仰の在り方を問い直したいと思います。私たちは日々、神を見上げ、イエス様を信じ主に従って生きているでしょうか? それは本日の特祷の言葉でいえば「闇の業を捨て光のよろいを着ているか」ということであり、それはつまり「キリストを着ているか」ということであります。私たちは、主イエス様を信じ主に従いキリストを着たいと願います。しかしそれは、自分の力でできることではありません。神の助けによってなされるのです。イエス様がお出でになる日(来臨する日)を喜びを持って迎えることができるよう、そして、日々、神を見上げ、イエス様を信じ主に従って生きることができるよう導きを祈りたいと思います。