マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

C・T・K姉逝去者記念の式教話 『主の御手に身を委ねる』

 本日は前橋の教会聖堂で、T・K姉帰天2年の逝去者記念の式をT姉のお子さんはじめ8名の参列を得てお捧げでき、感謝な時でした。教話では、T姉との思い出や式の冒頭に交唱した詩篇23編について思い巡らしました。神やイエス様とともに歩んだ姉妹の信仰生活を思い、遠藤周作の対談集「人生の同伴者」にも言及しました。

   『主の御手に身を委ねる』

<教話>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 私たちはC・T・K姉妹の逝去2年の記念日に集められ、姉妹の逝去者記念の式に参列しています。この式を皆さんとお捧げできることを感謝いたします。
 私がマッテア教会に通い始めたのは1980年アドベントの頃、今から41年前ですが、その時からずっとTさんとは共にこの教会で信仰生活を送りました。今も、小柄で優しくにこやかな笑みを浮かべておられるTさんを思い浮かべます。私は日曜学校の教師をしていましたが、日曜学校の礼拝をしていたサイドチャペルは当時エアコンもなく、Tさんは「寒いだろうから」とホットカーペットを寄贈してください。また、私は定年退職してから神学校に行ったのですが、その1年生の夏の実習で榛名の新生会に行きましたら、Tさんが春光園にいらっしゃり、デイサービスで憩いの園に来られたときに再会し、私の行う音楽療法の一種であるミュージック・ケアにも参加してくださり、楽しい一時を過ごしました。今から6年位前のことです。Tさんが2年前に帰天された時は私には連絡がなく、葬儀に参列することはできませんでした。しかし、今日、皆様と、逝去者記念の式をお捧げできることを嬉しく思います。

 本日は、この式の冒頭に交互に唱えました詩篇23篇について思い巡らしたいと思います。詩篇23篇は、ダビデの晩年の歌と言われています。ちなみに、詩編の150ある詩の中で、半数近く、73はダビデの作と言われています。詩篇23編では、ダビデは、自らを一頭の「羊」、そして神を「牧者(羊飼い)」としています。ダビデは元々羊飼いでしたので、羊のことも羊飼いの仕事についてもよく分かっていました。
 羊は、弱い動物です。足が遅く、獣に襲われ易く、また目が悪く、自分で牧草を見つけるができません。羊飼いは、その羊の先に立って導き、また命がけで羊を獣から守りました。羊飼いあっての羊でした。この詩では、羊飼である神に導かれていく歩みを「わたしは乏しいことがない」と歌い、その豊かさを具体的に述べています。羊飼いが、緑の牧場に羊を導き、牧草を食べさせ、また、水場に伴われ、水を飲ませるように、神は、厳しい日々の私たちの歩みを支え導き、必要を備えて下さると歌っております。
 3節に「神はわたしの魂を生き返らせ み名のゆえにわたしを正しい道に導かれる」とあります。ここでは、悩みや罪に伏せる魂を生き返らせ、「み名のゆえ」と、自らの立派さや力の故ではなく、ただ主の憐みの故に、神の御心の道へ、祝福の道へと導かれると歌っております。
 ちなみに、「神はわたしの魂を生き返らせ」の「生き返らせ」に使われている原語のヘブライ語は「シューヴ」と言います。シューヴの本来の意味は、「神に立ち返る」「悔い改める」ですが、この詩では、「生き返らせ」になっています。英語の聖書(NIV,NRSV)では、“He restores my soul.”でした。“restore”には「回復する、元気を取り戻す、生き返る」といった意味があり、ここはやはり「生き返らせる」が訳としてしっくりきます。ここでは、自分の力で魂が生き返るのではなく、「神が生き返らせてくださる」という受動形がポイントです。私たちは受動的にすべてを受け入れて、主の御手に身を委ねることで、身も心も、安心することができるのです。
 ダビデは、このような神であることを賛美しつつ、さらに告白しています。4節です。
「たとえ死の陰の谷を歩んでも、わたしは災いを恐れない あなたがわたしとともにおられ、あなたの鞭と杖はわたしを導く。」
「死の陰の谷」とは、全ての支えと望みを失った状態と言えます。しかし、その倒れ果てそうな中で、なお、神は共にいて下さるのです。今日は遠藤周作の対談集「人生の同伴者」を持ってきました。

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 この本の中に『「愛の同伴者」としてのイエスがわれわれのなかに生きる』(P.183)、『「人生の同伴者」イエスについて描き続けて来た遠藤文学』(P.252)とありました。遠藤周作のいう「人生の同伴者」こそ神であり、イエス様であります。神は、私たちの苦しみの中で同伴され、「あなたの鞭と杖」が私たちの保護と訓練をなされるのであります。Tさんも、神を、そしてイエス様を人生の同伴者として信仰生活を送られたことを思います。
 さらに、ダビデは、敵の前、その苦しみの前で、神は守り、力づけ、勝利を与えて下さると述べています。
 なお、「死の陰の谷を歩んでも」「敵の見ている前で」という所では、「主」や「神」ではなく「あなた」と呼び、より親しく呼びかけています。苦しみと緊張の中にこそ、主が最も近く共におられるのです。そして、それはずっと続き、死後も主イエス様は私たちと共におられるのであります。
 ダビデは、最後に、神への信頼に堅く立つ言葉を歌っています。6節です。
「神の恵みと慈しみは、生きている限り、わたしに伴い わたしは永遠に主の家に住む。」                                          
 私たちは、死後は主の家に帰り(帰天)、そこにずっと留まるのであります。そして、私たちの敬愛するT・K姉妹も今、主の家におられ、私たちもいづれその場所に行き、Tさんとまみえることができるのであります。そのことに感謝し、その希望をいだき、この式を続け、さらに、私たちがこの思いを持ち続け、日々、過ごすことができるよう、祈り求めたいと思います。