マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第25主日(特定28) 聖餐式・洗礼式 『山に逃げるということ』

 本日は聖霊降臨後第25主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました(前橋は「み言葉の礼拝」)。F姉の洗礼式もありました。聖書箇所はダニエル書12:1-4a、5-13とマルコによる福音書13:14-23 。説教では、イエス様が私たちに望むことは「山に逃げること」であり、それは「常に神に信頼し神を見つめて生きること」であり、神様に思いを向け、そうできるよう導きを祈りました。また、洗礼の意味についても言及しました。

   『山に逃げるということ』

<説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 今日の福音書はマルコによる福音書13章14節以下ですが、この箇所を理解するには当時のユダヤの状況を知る必要があります。マルコによる福音書が執筆されたと考えられる西暦60年代は、終末思想が強く、当時の政治の乱れや、ユダヤ人がローマ軍に反逆して起こしたユダヤ戦争の勃発などによって生活が苦しく、その時はいつ来るのか、どのようにしてくるのか、その時にはどうすればよいのかということが絶えず議論されていたようです。ユダヤ人は、不安と恐れの中に、非常に差し迫った「時」が想定され、緊張が続いていました。
 このような状況の中で、イエス様は弟子たちに説教を行い、エルサレムの神殿が崩壊されることを予告し、終末のしるしが表れる、その時には、大きな苦難が来ると予告されたのです。
 それは「主の日」が来るということであり、それは、救い主が現れることであり、神が裁きをもたらす「時」でもありました。
 そして、その日は近いと預言され、緊張が続いていながら、なかなかその日が来ないので、終末到来が遅れているという思いが、人々の心を混乱させ、良い指導者が現れると押しかけたり、偽キリストが横行したりする出来事が絶えなかったようです。

 イエス様は、このような背景の中で、弟子たちに忠告されたのが、今日の福音書箇所です。冒頭の14節にこうあります。
 『「荒廃をもたらす憎むべきものが、立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。』
 ここの「荒廃をもたらす憎むべきもの」とは神殿の聖所に、神の代わりに偶像を立てて礼拝させるもののことで、本日の旧約聖書のダニエル書12章11節の「荒廃をもたらす憎むべきもの」のことでもあります。ダニエル書の出来事は、歴史的には、紀元前168年にシリア王アンティオコス四世エピファネスがエルサレム神殿の祭壇を取り除いて、異教の祭壇を作ったことを示しています。その後、ヘロデ大王によって神殿は改築、再建されます。「荒廃をもたらす憎むべきものが立ってはならない所」とは神殿のことです。つまり異教徒であり偶像を礼拝するものが神殿に立つのを見たら、その時は、「ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」と、イエス様は、そうお教えになられたのです。
 ここで、イエス様は「山に逃げなさい」と命じられています。「人の集まる町に、堅固な城壁の中で籠城しなさい」というのではありません。山、これは日本でも同様かも知れませんが、神の顕現の場、神様との出会いの場です。イエス様は、そこに「逃げなさい」と言っているのです。なお、この「逃げる」はギリシャ語では「フェウゴー」で、「危険や災いとなるものから逃れる」ことを表します。また、「倫理的に好ましくない事柄を避ける」ことをも表します。「危険や災いとなるものから逃れて、倫理的に好ましくない偶像崇拝などを避け、唯一の神様のいる安全な場所に行きなさい」とイエス様は私たちに命じておられるのです。
 イエス様は続けてこのように語られました。
「屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を取り出そうとして中に入ってはならない。」(15節)
「畑にいる者は、上着を取りに戻ってはならない。」(16節)
「『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。」(21節)と。
 これらは終わりの時が近づいているときに「何を大事にすべきか、何を心がけるべきか」などが示されていると考えます。
 
 今日の箇所で、イエス様が私たちに望んでおられることは何でしょうか?
 それは私たちが「山に逃げること」であると考えられます。イエス様は私たちが、神様と出会い、神様のいる山に場所を定めることを望んでいるのではないでしょうか? 人間の作った城壁を頼りにしてはいけない。神殿がいかに壮麗であっても、その中心にあるものが間違っていたらとんでもないことになります。私たちが依拠すべきところはどこなのでしょうか?
 さらに言えば、イエス様は私たちにこうあることを求めていると思います。「常に神に信頼し、神を見つめよ。戻ってはならない。人間に依拠してはいけない」と。

 さて、本日はこれから洗礼式です。一体、洗礼とは何でしょうか? 祈祷書の中の教会問答(P.262)にはこうあります。
『16.問 洗礼とは何ですか
 答 聖霊の働きによって、わたしたちがキリストの死と復活にあずかり、新しく生まれるための聖奠です』
 これだけでは分かりにくいかもしれませんが、本日の入堂の時に歌った聖歌第274番の1節や5節にありますように、洗礼とは「古い行いを改め新たな人を身にまとい、私たちが父と子と聖霊なる1つの神様に結ばれる」ということです。洗礼によって、新しく生まれ、神様と結ばれ神様のものになるのであります。
 そして、洗礼は罪の赦しのためというよりも、私たちがこの神の恵みを深く悟り、神様に思いを向けるための、神様との約束のしるしです。ペトロの手紙一 3章 21節にこうあります。
「この水は、洗礼を象徴するものであって、イエス・キリストの復活によって今やあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなく、正しい良心が神に対して行う誓約です。」
 洗礼は、神様と結ばれ新しく生まれる恵みであり、生涯神様に思いを向けることを誓う約束なのであります。
 ちなみに、洗礼盤が八角形なのはなぜかご存知ですか? この聖堂の洗礼盤も八角形です。

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 それは、神の創造の7日目を越える第8の日、即ち復活、新しい創造を象徴するからです。そして、イエス様が復活後8日目にトマスに現れたことから、数字の8は「復活の象徴」として聖なる数となっています。
 私たちは、本日のこの洗礼式において自分が洗礼を受けた時のことも思い起こし、新たな人生をスタートさせ神様に結ばれたことに感謝したいと思います。 

 皆さん、私たちは、主イエス様が命じられた「山に逃げなさい」との御言葉を受け止め、それに従いたいと思います。そこで神様に出会い、神様の御業に預かることができます。主の恵みは深く、私たちを待っていてくださいます。主の許に参りましょう。そして、神様に思いを向け、常に神様に信頼して見つめ、主の御心を行うことができるよう導きを祈りたいと思います。