マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『マザー・テレサ「空っぽ」に思う』

 先主日の説教の中でリジューのテレーズ「空の手で」を紹介し、あらゆる執着を手放し自分を「空っぽ」にすることで神の愛を受け取ることができると記しました。言い換えれば「空っぽ」であることが神様に祝福されているということです。そのことがよく分かる文章があります。それはマザー・テレサの『愛する子どもたちへ』(写真・編訳 片柳弘史)という本の中で紹介されている、彼女の晩年の手紙に記されていた「空っぽ」という文章です。

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 ちなみに、マザー・テレサの「テレサ」という修道名はテレーズの名からとられていますが、それはアビラのテレサではなくリジューのテレーズからだと本人が言うほど、マザーは彼女を愛していました。 

  「空っぽ」
 神はいっぱいのものを満たすことができません。
 神は空っぽのものだけを満たすことができるのです。
 本当の貧しさを、神は満たすことができるのです。
 イエスの呼びかけに「はい」と答えることは空っぽであること、あるいは空っぽになることの始まりです。
 与えるためにどれだけ持っているかでなく、どれだけ空っぽかが問題なのです。
 そうすることで、私たちは人生において十分に受け取るができ、私たちの中でイエスが ご自分の人生を生きられるようになるのです。
 今日イエスは、あなたを通して御父への完全な従順をもう一度生きたいのです。そうさせてあげてください。
 あなたがどう感じるかでなく、あなたの中でイエスがどう感じているかが問題なのです。自我から目を離し、あなたが何も持っていないことをを喜びなさい。あなたが何者でもないことを、そして何もできない事を喜びなさい。

 英語原文はこうです。
 God cannot fill what is full, he can fill only emptiness — deep poverty, and your ‘Yes’is the beginning of being or becoming empty. It is not how much we really ‘have’ to give, but how empty we are — so that we can receive fully in our life and let him live his life in us. In you, today, he wants to relive his complete submission to his Father. Allow him to do so. It does not matter what you feel, but what he feels in you. Take away your eyes from yourself and rejoice that you have nothing, that you are nothing, that you can do nothing. 

 人生において、私たち一人一人にはそれぞれに杯が与えられ、そこに神が注がれるものを、私たちは受け取らなくてはならないのだと思います。
 どれだけ持っているかが問題なのではなく、私たちがどれだけ「空っぽ」であるかということが重要なのです。「空っぽ」であればあるほど十分にいただくことができるのです。
 杯の中のものが少ないことは必ずしも嘆くには及ばない、量が多ければもうそれ以上、神は注ぐことができなくなってしまいます。少なければ少ないだけ注いでいただけるのです。
 そのようにとらえて、一人一人に与えられた杯を受け取って、多く注いでいただけるよう祈り求めたいと思います。