マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第24主日(特定27) 聖餐式 『自分の人生・生活を神に献げる』

 本日は聖霊降臨後第24主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は列王記上 17:8-16とマルコによる福音書12:38-44 。説教では、律法学者とやもめを比較して語るイエス様の真意を知り、このやもめのように自分に固執せず神様に自分の人生・生活を献げ、日々主に仕えることができるよう祈り求めました。また、このやもめのように生きた聖人として「リジューのテレーズ」を紹介し、彼女の「空の手で」について言及しました。

   『自分の人生・生活を神に献げる』

 <説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日の福音書はマルコによる福音書の12章38節から44節です。
 今日の箇所について、解説を加えて振り返ってみましょう。
 前半の38―40節は、気をつけるべき律法学者に関するイエス様の言葉です。イエス様は、自分たち独特の衣装をまとい、目立つ場所に立ちたがり、やもめと呼ばれる夫を失った女性たちを食い物にし、その言い訳に長いお祈りをする、そのような律法学者に気を付けなさい、と警告しています。今日の箇所の律法学者に見られるこの偽善は、彼らのうちに神様への信仰がなくなっていることから生じていると考えます。もし、心から神様の思いに忠実なら、やもめに対する態度もまったく違ったことでしょう。彼らは、出エジプト記に記された律法「いかなる寡婦も孤児も苦しめてはならない。」(22:21)を知っていたはずだからです。

 後半の41―44節には、一人のやもめが登場します。やもめは、男性だけが働くことを許された時代の中で、働く場もなく、大変貧しい立場に置かれていました。そのやもめの一人が、祈るために神殿にやって来ました。神殿はたくさんの人が祈るために集まる場所です。この人の前にも金持ちが来て、たくさんの献金を献げていました。それに対してこのやもめが献げたのは、レプトン銅貨2枚、つまり1クァドランスだけでした。レプトン銅貨はユダヤの最も小額の貨幣で、その価値は1デナリオンの128分の1でした。1デナリオンは1日の日当であり、その128分の1ですから、今でいえば、せいぜい50円玉ぐらいの価値と考えられます。なお、クァドランスはローマの青銅貨で、1デナリオンの64分の1(1レプトンの倍)にあたります。マルコによる福音書は異邦人の改宗者を対象に書かれており、一説ではマルコはローマで執筆したとされていますので、ローマの貨幣に換算したと考えられます。やもめが献げた金額は今の価値では100円くらいと考えられます。額が少ないため、おそらくほかの誰も目をとめなかったこのやもめに、イエス様の注意が向けられます。
 43・44節にこうあります。
『イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」』
 このやもめが献金箱に入れたものは「生活費を全部」と言われますが、「生活費」と訳されたギリシア語は「ビオス」で、それには「人生」とか「生活」の意味もあります。英語の聖書(欽定訳)ではこの部分は「all her living」(彼女の人生のすべて・生活のすべて)とありました。このやもめはただ単に生活費を献げたというのでなく「彼女の人生・生活のすべてを神様に差し出した」と受け取ることができるのです。
 そして、「この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。」と、この行動をイエス様は大変賞賛されたのでした。
 これが今日の福音書の内容です。

 ところで、先ほど読んでいただきました旧約聖書、列王記上17章もこの福音書の箇所と似ています。干ばつの中で預言者エリヤからパン一切れを差し出すように求められたサレプタのやもめは、最後の一握りの小麦粉でパンを作り、それを差し出します。すると「主がこの地に雨を降らせる日まで、かめの小麦粉は尽きず、瓶の油がなくなることはない。」(14節)という神の言葉が実現した、という話です。すべてを差し出したところに神の救いの力が働いたのです。
 エリヤとやもめの行動を通して描かれているのは、神様への絶対的な信頼です。このやもめもまた、残されているものを失えば死を待つばかりの状況の中で、そのかけがえのないものを献げた一人です。繰り返すことのできない献げ物によって、神様への信頼が表されています。

 今日の福音書では、やもめを「食い物にする」律法学者(38―40節)と「生活全部」を神様に献げるやもめ(41―44節)を描くことによって、2つの生き方を対比しています。イエス様が献金箱の向かいに座って群衆の様子を見ていたのは、献金額を知るためではなく、神様に全幅の信頼を置き、生活全体を神様に捧げる人を探すためでした。人間的な力に頼ることのできないやもめが、イエス様の目に叶ったのです。それはなぜでしょうか?
 主イエス様が心に留められたのは銅貨ではなくやもめの信仰でした。貧しいやもめは、主を信頼し、主を助けとし、ただ主の恵みによって満たされることに希望をかけ、自分の持てるものすべてを主に献げたのです。そのような生き方を神様は「よし」とされるであります。
 
 神様は、私たちの献金の額面を御覧になっているのではありません。額面の大きさではなく、犠牲の大きさを御覧になっているのです。どれだけ神様のために自分を献げているかということです。不思議なことですが、手放したときに喜び・恵みが与えられます。神様のために、この世の生活の多くを犠牲にした人は、天の祝福を多く受け取るのであります。
  私たちは人生・生活の中でどれだけ神様のために自分を献げているでしょうか?

 最後に、このやもめのように自分の持っているものを手から離し、すべてを神様に献げた一人の聖人を紹介します。それは19世紀の後半に修道女として24年の短い人生を送った、リジューのテレーズです。彼女は「空の手で、神に空っぽの自分を差し出す」ということを言っています。ここにリジュの聖テレーズのメッセージ「空の手で」(聖母文庫)があります。

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 テレーズはこう言います。「命の夕べに、私は空の手で神の御前に立つでしょう。もし両手に何かをぎゅっと握りしめていれば、私たちは誰かの贈り物を受け取ることができません。何かを受け取るためには握りしめているものを手放し両手を開く必要があります。それと同じで、もし心に何かを握りしめていれば、私たちは神が与えてくださる愛を受け取ることができないのです。神の愛を両手でしっかりと受け止めるためには、まず握りしめているものを手放し空っぽにする必要があります。地上的な喜びや栄光や権力などの執着はもちろん、神から愛されたい、聖人になりたい、そのような憧れさえ手放し、神にすべてをゆだねた空っぽの手で天国に召されたい」と。
 そして、リジューのテレーズは結核に冒され24歳でカルメル会の小さなベッドから何も持たずに神様の元に召されていったのでした。テレーズは、このやもめのように、あらゆる執着を手放し自分を空っぽにして、すべてを神様に献げたのです。
 やもめやテレーズがこのようにできたのはなぜでしょうか?
 それはこの2人に「神様への全幅の信頼」があったこと、そして神の御子イエス・キリストご自身が先に私たちを愛し、空の手で自分を手放し、十字架の犠牲まで私たちのためにすべてを献げてくださったという「確かな信仰」があったからだと思います。 

 今日はこの後、幼児児童祝福式があります。幼子は神様へ全幅の信頼を寄せ、あらゆる執着を空の手で手放し、神様の御前で自分を空っぽにしています。それゆえに、イエス様は子供たちを特に愛しておられるのです。

 皆さん、私たちも、今日の福音書のやもめやサレプタのやもめ、そしてリジューのテレーズや幼子のように、神様に全幅の信頼を置き、自分に固執せず、イエス様の愛に応えましょう。そして、空の手で自分を手放し、神様に自分の人生・生活を献げ、日々主に仕えることができるよう祈り求めたいと思います。