マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降誕後第2主日 聖餐式 『主を礼拝し主に献げる』

 本日は降誕後第2主日です。昨日に続いて前橋の教会で今年最初の最初の主日礼拝の聖餐式を捧げました。聖書日課エレミヤ書31:7-14・エフェソの信徒への手紙1:3-6 、15-19・マタイによる福音書2:1-12。
 説教では、3人の博士たちがイエス様を礼拝した意味やイエス様がすべての人々に救いをもたらすためにこの世に生まれたことを理解し、主を礼拝し主が必要とされるものを献げるよう祈り求めました。特に、「拝む」と訳されたギリシア語「プロスキュネオー」について思い巡らしました。また、デューラーの絵「東方三博士の礼拝」を使い、神様の福音の対象について言及しました。

   『主を礼拝し主に献げる』

 <説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 明けましておめでとうございます。
 今年、最初の主日礼拝を守っています。新しい年も、皆さんに主にある平安と祝福が豊かにありますようお祈りいたします。
 本日は降誕後第2主日です。そして、今週の木曜が顕現日(エピファニー)です。この日には聖餐式がありませんので、今日は顕現日のインテンション(意図・意向)で礼拝を行うこととします。
 顕現日(カトリック日本キリスト教団では公現日)は1月6日で、その日までがクリスマスシーズンで、その日まではクリスマスの飾りを飾ります。
 顕現日とは、ユダヤ人ではなく、異邦人である博士たちがイエス様と出会ったことから、救い主がユダヤ人だけでなく、異邦人にも現れて下さったことを記念する日です。「顕現」という言葉は、神様がはっきりとした形をとって現れることを意味します。ユダヤ教では救いの対象はユダヤ人だけであると信じられていました。しかし救い主であり、神の独り子であるイエス・キリストは、公に異邦人にも現れたのです。このことを感謝し、記念するのが顕現日・公現日です。

 本日の福音書は、マタイによる福音書2:1~12で、東方の博士たちが生まれたばかりのイエス様のもとを訪れ、礼拝する箇所です。
 聖書日課(聖書協会共同訳)では「博士」とありますが、新共同訳聖書では「占星術の学者」でした。しかし、その前の口語訳では「博士」でしたので、以前の訳に戻った形です。原文のギリシャ語はマゴス、英語ではMagi、これはMagic(魔術)の語源になった言葉です。博士、占星術の学者、どちらにも訳せる言葉です。聖書に博士たちの人数は記されていませんが、イエス様への贈り物が3つだったので一般に「東方の三博士」と呼ばれています。

 東方の三博士たちは何のためにユダヤの国までやって来たのでしょうか?  彼らの国(おそらくペルシア)からユダヤまでは数百キロも離れています。彼らはその遠路を、駱駝に乗ったり歩いたりしてやって来たのです。ものすごい長旅です。何のためにそんなことをしたのでしょうか? 将来、交易関係を結んで利益を得るために顔を出しておいた方がよいと思ったのでしょうか? そうではありません。彼らは預言の成就として神に立てられた「ユダヤ人の王」「メシア」を「拝む」ただそのためにはるばるやって来たのです。そして、彼らは幼子イエス様にひれ伏し、自分たちが持っている大切な財産である黄金、乳香、没薬を献げて帰っていきました。ここに礼拝の原型があります。礼拝のことを英語でworship service と言われる由縁です。
 なお、ここで「拝む」(2・8・11節)と訳されているギリシア語は「プロスキュネオー」です。この動詞は前置詞プロス<~の前に>と動詞キュネオー<接吻する>からなる合成動詞です。元来は文字どおりに、誰かの前にひれ伏して、その足、その衣のふち、地面などに接吻する習慣を表す言葉です。「ひれ伏す」ことは、特に、王や神聖なものの前で、その人物に対する敬意や崇拝を表すためになされる動作であることから、しばしば「拝む、礼拝する」の意味で用いられます。ちなみに、髙橋主教様は12月5日のマッテア教会で行われた感謝礼拝で式の冒頭で聖卓に接吻していました。先日、28日の東京教区との合同の教役者会の聖餐式でもそうされていました。それはこの「プロスキュネオー」という(~の前に接吻する)行為だと思います。そこで、私も昨日の礼拝から髙橋主教様に倣って式の冒頭で聖卓に接吻するようにしました。神様への敬意や崇拝を表すためです。

 話を福音書に戻しますと、博士たちは自分たちを導いてきた星が、イエス様のおられる所で止まった時に、「喜びに溢れた」とあります(10節)。ここを原文から直訳すると「ものすごく大きな喜びを喜んだ」となります。この「大きな喜び」という言葉は、天使が羊飼いにイエス様の誕生を知らせる時にも出てくる言葉です。降誕日に朗読された聖書箇所ですが、こうあります。ルカによる福音書2:10〜11です。
「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
 羊飼いたちも、三博士同様に喜びに溢れてイエス様を礼拝しました。家畜が餌を食べる飼い葉桶に寝かされているイエス様を、「救い主」「主メシア」として礼拝したのです。東方の三博士たちが異邦人の代表であるとするなら、羊飼いたちはユダヤ人の中の罪人の代表です。神様はそういう人々にまずクリスマスの大きな喜びをお与えになったのです。

 なぜ3人の博士はこの3つの贈り物をイエス様にお献げしたのでしょうか?
 いろいろに解釈されますが、その一つを紹介します。黄金は、イエス様が王様であるということを、乳香は神への祈りにささげられる香りでイエス様が神様であるということを、没薬は死体の防腐剤や痛み止めの薬として使われますが、これはイエス様が人々を救うために苦しまなければならないということを意味していると考えられます。彼らの商売道具だとも言われていますが、どれも高価で貴重なものでした。そして、イエス様はこの後、ヘロデ大王から逃れてエジプトに向かいます。そこにヘロデが死ぬまで滞在しますが、そのためには経済的に生きるため黄金や髙く売れる乳香は必要であったでしょうし、病気やけがをしたときに没薬も役に立ったと考えられます。神様は東方の三博士を通して、その時のイエス様とその家族に必要なものを与えになったのだと考えます。
 
 今日の聖書箇所で神様は私たちに何を伝えているのでしょうか?
 3人の博士たちは東の国の人で、ユダヤ人ではありませんでした。つまり異邦人、ユダヤ人にとっては外国の人です。ユダヤ人たちは「私たちは神から選ばれた神の民である」と考えて、他の民族を異邦人と呼び、下に見ていました。しかし、その人達が星に導かれてイエス様を礼拝し、高価なものを献げたのです。そして、イエス様に出会った3人は今度は別の道で帰りました。これはつまり、これまでのこの世の富を求める生き方を捨てて、イエス様が示す新たな方向に歩み始めることを示していると考えられます。

 この絵をご覧ください。ウフィツィ美術館所蔵のデューラー「東方三博士の礼拝」です。

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  まず最初の人が、幼子イエス様にひれ伏して礼拝しています。この3人の年齢層はどうでしょうか?・・・老年・壮年・青年ですね。どこの世界の人でしょうか?・・・アジア(中近東)・ヨーロッパ・アフリカの人です。つまりこの3人はそれぞれの年代や人種を代表していると考えられます。神様の福音はすべての人に向けられているのです。そして、恵みを受けた人たちは今度は神様にプレゼントを献げるのです。
 イエス様誕生の知らせは、まず羊飼いたちという貧しい人たちへ伝えられました。そして、外国人である3人の博士が星に導かれてイエス様を礼拝しました。神様の愛は、全世界のすべての人々へ向けられています。イエス様はユダヤの人のためだけでなく、すべての人々に救いをもたらすためにこの世にお生まれになったのです。そして、イエス様に出会った人達は生き方が変わり、イエス様が示す新たな道を歩むようになるのです。このようなことを神様は私たちに伝えたかったのではないでしょうか?
  私たちも真の神様である星に導かれて救い主を求めて旅するこの博士たちのようです。私たちは人生のあるとき、神様の独り子である救い主イエス・キリストに出会い、「神様に愛され生かされている」ということを知らされ、大きな喜びに満ち、主に従うものとなりました。私たちはこの博士たちのように、主キリストにひれ伏し礼拝し、自分の持てるものを主に献げたいと願います。私たちの目の前のイエス様とその家族にとって必要なものを。それはつまり、私たちの近くにいるイエス様である隣人に、その人たちにとって必要なもの、ニーズのあるものを献げるということです。

 これからの1年、クリスマスの本来の意味であるキリストを礼拝し、自分の持てるもので主が必要とされるものをお献げして、隣人に仕えて参りたいと願います。そして、このような生き方をさせていただけるよう主イエス・キリストによって祈り求めたいと思います。 

  最後にお祈りいたします。
 天の父なる神様、あなたのひとり子であるイエス様をこの世にお送りくださり、ありがとうございます。イエス様はユダヤ人だけでなく、私たちを含むすべての人々に救いをもたらすためにこの世にお生まれになったことを感謝します。
 遠い東の国からやってきた3人の博士たちは、救い主である幼子のイエス様を礼拝し、贈り物を献げました。そして、別の道で帰って行きました。私たちもこの博士のように、人生のあるとき、イエス様に出会い、新たな方向に歩み始めました。私たちはこの博士たちのように、主キリストにひれ伏し礼拝すると共に、自分の持てるものを主に献げたいと願います。私たちの近くにいるイエス様である隣人に、必要なものを献げることができるようにお導きください。
 この感謝と祈りを、私たちの主イエス・キリストによって御前にお捧げいたします。アーメン