マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第19主日 聖餐式 『叫び求める人に応える神』

 本日は聖霊降臨後第19主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、創世記 32:4-9、23-31 とルカによる福音書18 :1-8a。「やもめと裁判官のたとえ」やヤコブの信仰から、神は必ず叫び求める人たちの祈りに応えることを知り、絶えず祈り続けるように勧めました。草津での人権セミナーで礼拝を重要視したことにも言及しました。

   叫び求める人に応える神

<説教>  
父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第19主日、聖書日課は特定24です。
 本日の福音書は、ルカ18章の、絶えず祈ることの必要性を説く「やもめと裁判官のたとえ」です。旧約日課は、創世記32章でヤコブが神様と格闘し「イスラエル」と呼ばれるようになった箇所が選択されています。神様に向かって「祝福してくださるまでは放しません。」(創世記32:27)と言って祝福されたヤコブは、福音書におけるやもめ、うるさいほど「ひっきりなしにやって来」て(ルカ18:5)、ついに裁判をさせるやもめの態度に対応しています。

 福音書中心に旧約聖書にも言及して考えます。
 まず、この「やもめと裁判官のたとえ」を解説を入れて振り返ってみます。この「たとえ」はエルサレム途上の弟子たちに語ったものです。
『ある町に、神を畏れず、人を人とも思わない裁判官がいました。その町に一人のやもめ、夫に先立たれた人がいて、裁判官の所に来ては、「相手を裁いて、私を守ってください」と言っていました。
 裁判官は、しばらくの間は、やもめのことなど、相手にしないで、取り合おうとしませんでした。しかし、このやもめが、しつこくやって来て訴えるので、それがたび重なると、このように考えました。
「自分は神など畏れないし、人を人とも思わないが、あのやもめは、面倒で仕方ない。もう限界だ。さっさと裁判を開いて、彼女のために、裁判をしてやろう。そうでないと、これからもひっきりなしにやって来て、うるさくてしかたがない。」
 イエス様は、「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい」と言われます。この裁判官は、自分の利益のために動く「不正な裁判官」であります。「不正な」と訳されたこの形容詞は「(邪悪な)この世に属している」とも訳すことのできる言葉です。
 この裁判官は、「この世に属し」神を畏れない、人を人とも思わないような人でした。不信仰で傲慢な人です。しかし、こんな人でも、しつこく、しつこく迫られたら、心が動く、心が動かされるものだというのです。
 イエス様は、「不正な裁判官でも、心を動かすではないか。ましてや、神様は、昼も夜も叫び求める「選ばれた人たち」のために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。いや、神様は、速やかに裁いてくださる」と言われます。ここで「裁く」と訳されたギリシャ語は「弁護する」とも訳せる言葉です。
 「昼も夜も叫び求める選ばれた人たち」とはどのような人たちでしょうか? 「選ばれた人たち」という言葉は、アブラハムの子孫であるユダヤ人、やもめを代表とするような弱い立場の人、貧しい人、病気に苦しむ人、大きな悩みを持つ人、誰からも顧みられない人、また、洗礼を受けてイエス様の弟子になった私たち、いろいろな意味にとることができる「神様によって選ばれた人たち」です。また、「昼も夜も叫び求める」は1 節の「絶えず祈るべき」と同じ意味だと言えます。「昼も夜も」は「絶えず」の言い換えであり、神様に向けた「叫び」は祈りだからです。さらに言えば、彼らが「叫び求める」のは、神様が応えてくださると信じるからです。』
 このように絶えず祈る人は神様から「選ばれた人」であり、神様は彼らの弁護を必ず、素早く行う、というのであります。

 では、神様とはどのようなお方でしょうか?
 先ほど交唱した今日の詩編121にこうあります。3節・5節・7節・8節です。
3 神はあなたの足を堅く立て∥ まどろむことなく守られる
5 主はあなたを守り、近くにいまして∥ その影はあなたを覆う
7 主はすべての災いからあなたを守り∥ 命を支えられる
8 主はあなたの出ると入るとを守られる∥ 今より、とこしえに至るまで
 主なる神様は、私たちの足をしっかりと支え、行く道を守られ、私たちの近くにおられます。そして、私たちをすべての災いから、今から永遠に守り命を支えられるのです。それが神様というお方です。

 イエス様は言われます。主は、このような神様であり、まことの裁き主である神様なのだから、「あのやもめのように、熱心に絶えることなく願い求めなさい」、しつこく、しつこく、昼も夜も、「私が有利になるように裁いてください、弁護してください」と願い続けなさいと言われるのです。
 これに対して、神様は、神様が応えてくださることを信じて昼も夜も叫び求める人たちのために、裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれるでしょうか? いいえ、神様は速やかに裁き、弁護してくださる、というのです。
 私たちが、神様に祈る時、お願いを申し立てる時、あのなりふりかまわず、すさまじい迫力で、裁判官に迫っている女性、このやもめの姿を思い出したいと思います。私たちは、祈る時、このやもめのように真剣に神様に迫っているでしょうか? 神様が必ず応えてくださると信じ祈っているでしょうか?

 旧約聖書箇所の中に語られている「祈り」に注目してみましょう。 
 本日の旧約聖書箇所は創世記のヤコブエサウの兄弟についてですが、 本日の箇所の前段も含めてお話しします。
ヤコブアブラハムの孫にあたります。このヤコブにはエサウという双子の兄がおりました。旧約の世界では長男の権利が非常に大きく、弟として生まれたヤコブは策略を巡らせ、何度もこの長男の権利を奪おうとします。そしてある時それに成功するのですが、兄エサウに恨まれたヤコブは命からがら逃げだすことになります。兄の脅威が及ばないほど遠くまで逃げたヤコブは、そこで長い年月を過ごすうちに成功をおさめ、故郷に帰りたいと思い始めます。
 しかし故郷には、ヤコブに騙されて長男の権利を失ったエサウがいます。長い年月が過ぎたとはいえ、エサウの気持ちが収まっているとは限りません。ヤコブは恐れの気持ちを抱きながら故郷への旅路に就きます。ヨルダン川のほとりに来てヤコブは本当に恐ろしくなりました。家族とたくさんの財産とともに川を渡りましたが、ヤコブ自身はその先に進むことができず、夜の闇の中で立ち尽くしていました。
 そのとき何者かがとびかかってきて、ヤコブは格闘に巻き込まれます。そのときヤコブはとびかかってきたのは兄エサウだと思っていたかもしれません。夜明けまで闘って相手が「放してくれ」と言ったときに、ヤコブは「いいえ、祝福してくださるまでは放しません。」(創32:27)と答えます。格闘の相手は神様でした。ヤコブは股関節を外されても手を離しませんでした。 天におられる神様が、地上に降りて来て人間と格闘するなど、聖書の他のところには出てきません。珍しい話です。しかし、これは、ヤコブが夜通し必死になって神様に祈っていた、ということを示しているのではないでしょうか?
 ヤコブは、自分の罪深い行為を神様とエサウに赦してほしい、兄との再会が神様に祝福された和解の時となるように、と真剣に祈っていたのでしょう。そしてその熱い祈りは、「神と闘った」という形で表現されているのかもしれません。ちなみにヤコブが与えられた新しい名前は「イスラエル」、意味は「神が闘う」です。ヤコブのその真剣な熱い祈りに応えて神様は、「その場で彼を祝福した」のです。このような話です。
 私たちはこのヤコブのように必死になって祈った、という経験があるでしょうか?
 
 ところで、ブログでも記しましたが、先週の12日(水)・13日(木)に草津で「管区人権セミナー」が開催されました。両日とも、プログラムの始まりと終わりに礼拝を捧げました。一日目はこの聖バルナバ教会で私が司式しました。

普通のセミナーと違うのは、このように礼拝があり、絶えず祈ったことでした。

 本日の旧約聖書で、兄エサウが自分も家族も殺すかもしれないとヤコブは恐れ、ただ神様に助けを祈りました。祝福を与えられるまで諦めることをしなかったヤコブも、裁判官に訴え続けるやもめも、「絶えず祈るべきであること」、そして「落胆してはならないこと」を教えています。
 そして、ただ願い求めるのではなく、神様が必ず応えてくださると信じて祈ることが肝要であると教えています。 
 「祈り」と「信仰」は切り離すことのできないものであります。
 キリスト者は地上にありながら、神様と関わって生きる者であり、その特徴は「落胆せずに、絶えず祈り続ける」ことです。「絶えず祈る」ことと「落胆しない」ことが組み合わされているように、神の裁き、弁護を待つ者に必要な祈りは、「ただ祈り続ける」だけではありません。それは、ヤコブややもめが諦めることなく願い続けたように、必ず神様からの応えが与えられることを望み続ける信仰に支えられた祈りであります。キリスト者の祈りは、神様の力を信じて求め続ける祈りです。

 皆さん、私たち一人一人は、多かれ少なかれ、このやもめのような弱い立場の者、貧しい者、あるいは病気に苦しむ者、大きな悩みを持つ者、誰からも顧みられない者、その他生きる上で困難の中にある者であると言えるでしょう。しかしその者たちは「神様によって選ばれた人たち」です。神様はそのような人たちに特別に目をかけ慈しんでおられます。自分が無力であることを知る私たちは神様に祈るのであります。
 しかし、祈れば、何でもそのとおりに実現する、というわけではありません。大切なのは、このやもめやヤコブがしたような、必ず神様からの応えが与えられることを望み続ける信仰に支えられた祈りです。神様は、熱心に祈る一人一人を顧みておられ、私たちに生きる力を与え、希望を与えてくださいます。神様は「昼も夜も叫び求める人たちを放っておかれない」と約束しておられます。ですから、私たちは神様にすべてをゆだね、どんなときも「落胆し」ないで、絶えず神様に祈り続けて参りたいと思います。