マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『ルルドとベルナデッタに思う』

 先主日聖餐式の説教でルルドの奇跡について言及しました。限られた時間の中で語りきれなかったことがありましたので、ことにルルドとベルナデッタについてブログで取り上げることにしました。

 ルルドは、巡礼地として有名で、年間約600万人が訪れています。私は今から12年前、2009年の夏、家族とともにこの地に1泊しました。私事ですが、その年4月に、初めての肢体不自由特別支援学校に赴任し1時間以上の通勤で、校長も初めてだったせいもあるのか、6・7月に体調を崩し、特に帯状疱疹で頭が痛く悩まされましたが、ルルドでたくさんルルドの水を飲んだり頭につけたせいか、だいぶよくなって、帯状疱疹もほぼ完治したことを思い出しました。
  私はルルドで自分の学校の肢体不自由の子供たちや保護者、教職員たちの癒しと平安を祈りましたが、グロット(聖母が現れた洞窟)で祈っていると、心が平安に満たされ癒されていくのを感じました。これは自分のカメラで撮った写真です。

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 また、多くの車いすの人や病気の人と看護師さんやボランティアさんが祈っている姿を見て「神は本当に貧しい人・病気の人・弱い人・小さい人を愛しておられる」と思いました。この泉や祈りによって実際に病気や障害が治った人は確かにいますが、身体的に治らなくても魂が癒された人は私を含めて数え切れないと思いました。
 ルルドはディズニーランドのようなテーマ・パークのようでした。時間になると行列(4時に聖体行列・9時にろうそく行列)があり、同時進行でいろいろな教会や聖堂等でミサや集会がありました。巡礼者は自分に合った、あるいは自分が必要と思うミサや集会に参加します。そこで一体感や満足感や癒されていることを実感します。誰もがにこやかで親切です。ルルドは、病んでいても人は希望を持てるし幸福になれること、また、生きることも、人を生かすこともできることを教えていると感じました。人はルルドで、信仰と祈り、そして人に感謝することと人に奉仕することを体験すると思いました。
 あの時、私は、ぞれぞれの現場で、職場で・学校で・家庭で、自分の置かれた場で、ルルドの心を再現したい、と考えました。ルルドの心とは、信仰と祈り、感謝と奉仕であると思いました。そして、自分自身がルルドの心(信仰・祈り・感謝・奉仕)を持ち、日々の生活の中でそれを表現したい、と願いました。

 ルルドの泉を聖母のお告げによって世に知らしめたのはベルナデッタという、14歳の少女でした。今回久しぶりに、彼女の生涯を描いた映画「聖処女(原題The Song of Bernadette)」を見ました。

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 この映画は、1943年にアメリカで公開されましたが、当時の日本は対米戦の最中でしたので、若き日のジェニファー・ジョーンズ がベルナデッタ役を好演(アカデミー主演女優賞)した映画が『聖処女』という邦題で公開されたのは戦後のことでした。この映画はアカデミー賞を合計5つ受賞しています。
 このようなあらすじです。
ナポレオン3世が第2帝政を布いていた頃のフランス。スペインの国境に近いピレネー山中の寒村ルルドに、スビルーという貧しい夫婦がいた。ベルナデッタはその長女で健康に恵まれなかった。ある日、彼女は村はずれの洞窟で白衣の聖女の姿を見た。そして洞窟に湧いている泉の水は、「信仰篤い者の病を医するであろう」というお告げを聞いた。洞窟の霊泉が死にかけていた1人の赤児を救ったという噂さが飛ぶと、近郷近在の多くの人が伝え聞いて、ルルドに集まって来た。しかしこの奇跡を識者は信じなかった。ところが、当時の皇帝ナポレオン3世の息子が奇病にかかり、この話が伝わり、皇帝は霊泉を取りよせる。この児が癒され、ベルナデッタが偽りを言っているのではないことが証拠立てられた。ある日、スビルーの家をここの教区教会の神父が訪れた。彼はベルナデッタを祝福し、キリストの花嫁たるべき身であること、そのため修道院に入らねばならぬことを告げた。両親は愛する娘と別れることを悲しんだが、ベルナデッタは微笑んだ。ブルゴーニュ地方にあるヌヴェール愛徳修道会へ斡旋されたベルナデッタは修道女となり、看護の手伝いや雑用に従事したが右膝結核性関節腫瘍などに悩まされつつ、35歳で死去した。』
 19世紀のカトリック国、フランスでも最初はこの奇跡は信じられず、ルルドの市長や検察官や警察署長等に理解されず、嫌がらせを受けました。当初は教区教会の神父さえもでした。しかし、癒しを求める多くの病人がルルドに押しかけ、教皇庁が奇跡を認めるに及んで状況は変わりました。映画の最後の方で、病を得たベルナデッタをルルドに送ろうとした修道院長に、ベルナデッタは「私には効きません。あの方は私は後の世で幸せになると言っていましたから」と伝え、直後に天に召されました。

  癒しの奇跡は、私たちに知識や理論でなく、信仰と祈り、そして行動が大事だと教えているのではないかと思います。
 神様が私たちに求めておられることはどんなことでしょうか?
 それは、マルコによる福音書9:22における、てんかんの子の父親がイエス様に向かって「私どもを憐れんでお助けください」と望んでいることを率直に伝え、さらに24節で「信じます、信仰のない私をお助け下さい」と、たとえ信じ切れない自分であったとしても、そんな信仰の弱い自分をそのままイエス様の前に身を投げ、イエス様にすがってただ祈り求める、そのような信仰が求められているのではないでしょうか?
 自分の周りの状況が悪化し、自分の力の限界に嘆くとき、イエス様を神様と信じきれない私を、しかし、そのままイエス様の前に投げ出して、「信じます、信仰のない私をお助け下さい」と叫ぶ者を神様はほっておかれないと、そう信じるのであります。
  その神様に信頼し、信仰と祈りを持ち、日々感謝し奉仕を実践して参りたいと願います。神様はそれ求めており、私たちがそうするとき神様は喜ばれるのだと思います。そうできるよう神様に寄り頼み、御心が行われるよう導いてくださるよう祈り求めたいと思います。