マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第22主日(特定25) 聖餐式 『盲人バルティマイの信仰に倣う』

 本日は聖霊降臨後第22主日です。午前は前橋の教会、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所はヘブライ人への手紙5:12-6:2、9-12とマルコによる福音書10:46-52。説教では、盲人バルティマイの信仰に倣い、イエス様を信頼しそれぞれの願いを必死に訴え、主イエス様に従い続けることができるよう祈り求めました。また、奇跡が祈りの中でこれまでも起きたことの一つの例として、「ルルドの奇跡」について言及しました。
 なお、次回の新町の礼拝(11月14日)の中で洗礼式が予定されています。

    『盲人バルティマイの信仰に倣う』

<説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日の福音書箇所は、マルコによる福音書10:46-52 で、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「盲人バルティマイを癒す」です。
 今日の箇所を、解説を加えて振り返ってみましょう。
 イエス様と弟子たちが、エリコというエルサレムから北東へ約28キロほどの町に着き、そこからエルサレムに向かって、通りを歩いておられた時のことでした。その道端に、バルティマイという盲人が、物乞いをしていました。そこに、「ナザレのイエスが来たぞー」という声が聞こえ、通りかかる人々が、叫びながら走って行きました。バルティマイは、その声と足音を聞いて、叫び続けました。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と。  
 当時のユダヤ人は、千年前に実在したダビデ王の再来として、「救い主」が現れると、伝えられていました。従って、「ダビデの子」というのは、「救い主」、「キリスト」を意味する呼び名でした。バルティマイが、「ダビデの子、イエスよ」と叫んだ、この言葉は、「救い主、キリストであるイエス様」という信仰告白の言葉でもあったのです。
 バルティマイは、たぶん、「ナザレのイエス」という方について、多くの病人を癒やしておられるという噂を聞いて知っていたのでしょう。人のざわめき、声を聞いて、バルティマイは、イエス様が近づいて来られるのを知って、思わず叫びました。
 「私の目をいやしてくれる方は、この方しかいない、私を救って下さる方は、この方しかいない。今、この機会を失うと二度とお会いできない」、そういう切羽詰まった思いがあったに違いありません。
 ところが、まわりにいた多くの人々は、彼を叱りつけて、黙らせようとしました。それにもかかわらずバルティマイは、ますます、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。」言い換えれば「キリステ・エレイソン(キリストよ、憐れみをお与えください)」と叫び続けたのでした。人が止めようと叱ろうと、必死になって叫び続け、命がけでイエス様を求める姿を想像します。
 イエス様は、バルティマイの悲壮な声を聞いて立ち止まり、「あの人を呼んで来なさい」と言われました。
 そこで人々は、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と言って伝えました。すると、バルティマイは、上着を脱ぎ捨て(原文では「投げ捨て」)、躍り上がって、イエス様のところに来ました。この上着は古い生き方の象徴で、それを投げ捨てたのは、新しい生き方への転換を表すと考えられます。
 イエス様は、「何をしてほしいのか」とお尋ねになりました。すると、盲人は、「先生、また見えるようになることです」と言いました。そこで、イエス様は言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と。
 盲人は、すぐ見えるようになり、なお、エルサレムに向かって進まれるイエス様に、従って行きました。
 このような内容でした。

 バルティマイという盲人が癒やされ見えるようになったという、奇蹟の出来事を通して、神が私たちに伝えたいことはどんなことでしょうか? 
 バルティマイの行動や思いに注目してみたいと思います。
  イエス様が近くに来たことを知ったバルティマイは、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び続けました。多くの人々が叱りつけても黙らず大声で「キリストよ、憐れみをお与えください」と叫び続けました。イエス様から呼ばれると即座に応答して、躍り上がってイエス様の所に行きました。そして、「何をしてほしいのか」と問われると、彼の望んでいた一つのこと「また見えるようになること」とはっきり求めました。その言葉には、必死の思いと「イエス様ならそれを与えてくださる」という信頼がありました。
 このバルティマイの行動や思い、これこそが信仰を持つ者の姿勢であり振る舞いであるといえます。   
 叫び続け、求め続け、そして信頼して招きに応えるこの盲人バルティマイの信仰をイエス様が受け止め、癒やされたのです。ちなみに「信仰」と訳されているギリシャ語原文(ピスティス)は「信頼」とか「忠実」という意味を持つ言葉です。
 バルティマイの真摯な思い、イエス様への信頼に基づき必死に一つのことを願う思いが、イエス様の「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」という言葉と癒やしを導きました。バルティマイは救われたから信じたのでなく、信じたから救われたのでした。この順番はとても重要であるように思います。そして、イエス様は救われた者に「行きなさい。」と命じ、バルティマイはエルサレムに向かうイエス様に従ったのです。ここで「従った」と訳された原文のギリシャ語は未完了形でした。これは継続・反復を表します。バルティマイは十字架という受難に向かうイエス様に、ずっと従い続けたのです。
 人が真剣に信頼を持って神に叫ぶとき、神は受け入れその信仰を認め、救いを与えてくださる、神が私たちに伝えたいことはこのことではないでしょうか?

  今日の福音では、盲人の目が見えるようになるという奇跡が起きましたが、いくら必死に祈り求めても奇跡は起きないという思いを、私を含めて多くの人がお持ちのことと思います。
 しかし、人間の経験や常識をこえた、まさに神のわざともいうべき奇跡が、祈りの中でこれまで起きてきたことも事実です。そのことの一つの例として「ルルドの奇跡」があると思います。
  ルルドは皆さんご存知ですか? 今回久しぶりにこの本「奇跡の聖地ルルド」を読みました。

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 ルルドはフランスのスペインとの国境近くのピレネー山脈の麓にあります。160年以上前に14才の少女ベルナデッタに無原罪の聖母が現れこの地の洞窟の下の土を掘るように命じ、その通りにするとそこから泉が湧き、麻痺のある女性が麻痺の手をその泉に浸すと麻痺が治ったり、目の見えない青年がその泉で目を洗うと目が見えるようになったりと、奇跡が続き、カトリック公認の巡礼地となりました。
 私は2009年、今から12年前にルルドを訪ねました。ルルドの水をお土産屋で売られていたこのペットボトルに汲んで、今も持っています。

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 マリア様が出現した洞窟には、この泉により癒され不要になった人が置いていった多くの松葉杖が洞窟の上に掛けられていました。
 ルルドには多くのボランティアの若い人や看護師さんが病気の人や障害のある方と一緒にいて、車いすを押したり一緒に歩いたり話をしたりしていました。この地でこの人たちが真剣に信頼を持って神に叫ぶとき、神は受け入れその信仰を認め、奇跡という救いを与えてくださったのだと思います。

 皆さん、今日の福音に登場した盲人のバルティマイはイエス様を信頼して、叫び続け、求め続け、そして招きに応えました。イエス様はその信仰に応え、バルティマイを癒しました。彼は救われたから信じたのでなく、信じたから救われたのであります。さらに、イエス様は救われた者に「行きなさい。」と命じ、バルティマイはエルサレムに向かうイエス様に従って行きました。私たちも霊的に貧しく盲目であるとも言えます。バルティマイの信仰に倣い、イエス様を信頼しそれぞれが願う一つのことを必死に訴えて参りましょう。そして、心の目を開けていただき、受難を経て復活された主イエス様にずっと従い続けることができるよう祈り求めたいと思います。