マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第17主日(特定20) 聖餐式 『信仰により小さき者を受け入れる』

 本日は聖霊降臨後第17主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇
所はヤコブの手紙3:16-4:6とマルコによる福音書9:30-37。説教では、イエス様は私たちを含む、弱く、助けを必要としている人を受け入れてくださることを知り、このイエス様への信仰ゆえに、小さき者を受け入れて歩むことができるよう、共に祈りを捧げました。また、弱い立場の人を受け入れるということで、思い浮かべる施設「あかつきの村」について言及しました。

    『信仰により小さき者を受け入れる』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第17主日です。本日の福音書はマルコの9:30-37です。この箇所は3つの部分から構成されています。第一はイエス様がされた二度目の受難予告の部分(30-32節)、第二はそれに対する弟子たちの無理解を記した部分(33-34節)、第三はイエス様が弟子のあるべき姿を述べた部分(35-37節)です。

 今日の箇所を振り返ります。イエス様は、御自分が「十字架につく」という受難予告を三回されるのですが、今回は二回目です。ただ受難だけではなくて、復活をするということを伝えています。弟子たちはこれから起こることについて怖くて尋ねられなかったのでした。その後に弟子たちとイエス様との話が出てきますが、これはイエス様が十字架にかかり、そして弟子たちはどう生きるかということを説明するような議論になっています。
 33節にこうあります。
『一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「道で何を論じ合っていたのか」とお尋ねになった。』
 イエス様が「何を論じ合っていたのか」と言うと弟子たちは答えられませんでした。何を論じ合っていたかというと、「誰がいちばん偉いか」ということを論じ合っていました。これは弟子たちが何回か論じ合っていたことですが、このような議論をしていたということは、弟子たちの中に世俗的な価値観というものがあったというのがはっきり分かります。それは、今の社会にもある、能力のある者や金持ち、あるいは地位が高いとかで評価されるような、この世的な価値観を表してるように思います。
 しかし、イエス様は私たちを、それとは違う価値観で生きるように求めておられます。それはどのような価値観と言いますと「すべての人の後になり、すべての人に仕える者に」(35節)なること。そしてさらに「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れる」(37節))ということです。
 「すべての人の後」とは末席に座ること、つまり最も地位が低いことを意味します。また、「仕える者」のギリシャ語原文は「ディアコノス」であり、それは本来「食卓で給仕する者」を意味しますが、他人に対するあらゆる奉仕を指すために使われるようになりました。イエス様は、最も地位を低くしすべての人に奉仕をする者になるよう求めておられるのです。
 次に、イエス様は弟子の取るべき態度を「受け入れる」ということを用いて教えました。子どもを彼らの間に立たせて抱き、このような子どもを受け入れる者がイエス様を受け入れる、とおっしゃいました。当時の社会では、子どもは価値のない、無力な者の代表と見なされていました。その子どもを受け入れるということは、無力な者、弱く小さい者、助けを必要としている者の一人を受け入れるということを象徴的に教えています。マルコ福音書ではこの後10章14節にも子どもが登場し、イエス様はこう言われます。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」さらに16節「そして、子どもたちを抱き寄せ、手を置いて祝福された。」イエス様は子どもたちを、小さき者を受け入れ祝福されるのです。
 そして、本日の箇所でイエス様は「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」(37節)とおっしゃっています。「私の名のために」とは、「イエス様への信仰のゆえに」ということです。イエス様への信仰のゆえに、イエス様の教えを受け入れ、それに従って生きていこうとするがゆえに、私たちは小さき者を受け入れるのであります。
 私たちが、最も地位を低くしすべての人に奉仕をする者になる、そして、子ども・女性・障害者や生活困窮者・難民等の弱い立場の人、小さくされた人々を受け入れる、そのような価値観で生きることをイエス様は求めておられます。イエス様の示された価値観を生きるように呼ばれているということを、私たちは改めて思い起こしたいと思います。

 弱い立場の人を受け入れるということで、思い浮かべる施設があります。それは前橋市西大室町にある「あかつきの村」です。そこでは、「精神障害のあるベトナム難民」が、職員や日本人入居者とともに毎日寝食を共にしながら暮らしています。私は今年の1月にここを訪れましたが、入口にあるベトナムの民族衣装、アオザイを来たマリア様の聖母子像が優しく迎えてくれました。

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 やっとここにたどり着いたベトナム難民の方々がこの像を見た思いはいかがだったでしょうか?
 「あかつきの村」は、1979(昭和54)年にカトリックの石川能也神父の呼びかけで「社会に居場所のない人を受け入れる共同体」として始まりました。しかし、その後すぐにインドシナからの難民が日本にも数多く訪れたため、それに合わせて、村では特に「精神障害のある難民」の受け入れを行うようになりました。ベトナム人の難民が今もこの場所で暮らしている所以(ゆえん)です。
 「あかつきの村」の中央には、この施設の魂の支柱である聖堂があります。

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 1月に訪問した時に、このお聖堂でしばらく佇み黙想しましたが、難民の方々の喜びや悲しみがこもった空間で、その方々を受け入れておられるイエス様の愛を感じました。
 
 皆さん、イエス様の弟子である私たちは、イエス様の価値観を少しでも実践できるように祈り求めていきたいと思います。弱い立場にある人々を大切にし、進んで受け入れることは、それらの人たちの内におられるイエス様を受け入れることなのです。
 私たちがそうするのは、神様が私たちに恵みを与え、イエス様が私たちをも受け入れてくださるからです。本日の使徒書、ヤコブの手紙の最後、4章6節に「神は、高ぶる者を退け へりくだる者に恵みをお与えになる。」とある通りです。
 イエス様は私たちを含む、弱く、無力な、助けを必要としている人を受け入れ祝福してくださるのです。このイエス様の生き方を心に刻み、イエス様への信仰ゆえに、小さき者を受け入れて歩むことができるよう、共に祈りを捧げたいと思います。