マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第18主日(特定21) 聖餐式 『自負心を捨て、命(神の国)に入る』

 本日は聖霊降臨後第18主日です。午前は前橋、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所はヤコブの手紙4:7-12とマルコによる福音書9:38-43、45、47-48。説教では、イエス様は寛容の精神を持ち小さな人々を大切にすることを求めておられることを知り、自分の中の優生思想や自負心を切り捨てて、命(神の国)に入ることができるよう、共に祈りを捧げました。また、テーマとの関連で思い浮かべた「相模原障がい者施設殺傷事件」や優生思想等について言及しました。

    『自負心を捨て、命(神の国)に入る』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第18主日です。本日の福音書はマルコの9:38以下で、大きく2つに分かれています。前半は38節から41節、後半は42節以降です。   

    今日の福音書には、2つのことが描かれています。一つは、すべての人に仕えるべき弟子たちには、開かれた姿勢、寛容の精神が求められるということ、もう一つは、小さな者をつまずかせる者は、命(神の国)に入るために、その「つまずき」を捨てなさいという教えです。

 今日の箇所を振り返ってみましょう。
 冒頭の38節はこうです。 
ヨハネがイエスに言った。「先生、あなたのお名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせました。」』
 イエス様や弟子たちに従わずに、イエス様の名を使って、悪霊を追い出していた人物がいたようです。弟子のヨハネは「とんでもないやつだ」と憤慨し、これをやめさせたと言いました。
 すると、イエス様は、それに対して、「やめさせてはならない。私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい。私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである。」(39・40節)と言われました。
 ここでは、イエス様の名を使って悪霊を追い出している人たちに対して、イエス様は逆らわない者は味方であると、寛容に受けとめておられます。
 その例として、「よく言っておく。あなたがたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(41節)とイエス様はおっしゃっています。弟子が弟子であるのは、キリストに属するからであり、その弟子に水一杯を飲ませてくれる人は必ず報酬を受けると言われるのです。
 ここでは、イエス様の言葉の、その寛容さの中に、弟子たちの特権意識や閉鎖性を、問題にしておられることが分かります。イエス様に従っているのは自分たちだけなのだ、という自負心(プライド)を、イエス様は問題にしておられるのであります。
 さらに、42節でイエス様はこう言われます。
『また、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい。」』
  イエス様を信じる小さな者を「つまずかせる」者は、大きな石臼のような重りを首に掛けられて死んでしまったほうがよいと言われるのです。
 その後の43節から47節では、「手」「足」「目」が小さな者を「つまずかせる」ならば、それを切って捨てよ、との教えが繰り返されます。ここで、「手」「足」「目」は、つまずかせるものを象徴的に表しており、文字通りに「手や足を切り離せ」というのではなく、「自分をつまずかせるものはすべて捨て去るように」と教えていると考えられます。さらに、「命(神の国)に入ることは、ゲヘナの中へ投げられるより良い」と教えておられます。「ゲヘナ」はこれまでの聖書では「地獄」と訳されていましたが、今回はギリシャ語原文の発音通り「ゲヘナ」と表記されました。ゲヘナ(ゲー・ヒンノーム)とは「ヒンノムの谷」の意味で、エルサレムの南にあり、町の汚物、動物や罪人の死体をそこで焼却していました。そのため、死後、悪人が罰せられる場所、つまり地獄の同義語となったようです。
 ちなみに、この箇所を見ると、44、46節は省かれていて、そこに短剣のような記号「†」が付けられています。これは今回の訳がもとにしたギリシア語聖書(底本)で省かれている箇所の印です。写本によってはこの2箇所に「ゲヘナでは蛆(うじ)が尽きることも、火が消えることもない」という48節と同じ言葉があるのですが、現代の学者は本来のマルコ福音書になかったと考えています。そこで今回の訳では省かれています。
 43節以降では、手や足や目がつまずきになるなら、大きな苦痛が伴ってもその片方を捨て、神の国という命の世界に入るほうが良い、ということが述べられています。
  このような箇所でした。

 イエス様は、弟子たちの狭い心、排他的な考え方、特権意識や自負心について、きびしく戒められました。そして、「私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである。」と、はっきりと宣言されました。
 また、「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は」とありますが、小さな者の一人をつまずかせないようにすることこそ、最も大事なことだとイエス様はおっしゃっているのではないでしょうか?
  「小さな者の一人をつまずかせ」たら重大なことだ、そのことに「私たちは心を配りなさい」ということをイエス様はおっしゃっています。このイエス様の言葉を心に刻みたいと思います。

 このことで思う出来事、事件があります。それは「相模原障がい者施設殺傷事件」です。
 5年程前に神奈川県相模原市障がい者施設「津久井やまゆり園」で、重度の障がい者が襲われて、19人が殺害され職員を含む26人が重軽傷を負いました。事件が起きたのは2016年の7月でしたが、私はその2ヶ月後にこの施設に行って献花と祈りを捧げてきました。

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 犯行に及んだ植松聖元職員は死刑が確定しましたが、彼の考えは、しゃべることのできない重い障がい者は切り捨てた方が社会全体の益になるという、優生思想です。立派な人とか能力のある人だけが価値があり、劣った人、弱い人は社会にいない方がいいという考えです。恐ろしい発想ですが、私たちにもそのような考えが全くないと言い切れるでしょうか?
 私たちは、心の在り方を振り返る必要があると考えます。私たちは、何を大切にして生きているかということです。
「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨てなさい。両手がそろったままゲヘナの消えない火の中に落ちるよりは、片手になって命に入るほうがよい。」(43節)とイエス様はおっしゃっています。これは「弱い人や小さい人をつまずかせるなら自分の一部を切り捨てなさい」ということではないでしょうか? そうすれば命(神の国)に入ることができるのです。優生思想は「小さな人々を切り捨てる」と言いますが、イエス様の教えは「私たちの方を切り捨てなければならない」ということです。本当に切り捨てなければならないのは、私たちの心の中にある、自分優先の考え方、そして自負心ではないでしょうか?
私たちは「自分の一部を切り捨てても、命(神の国)に入る方がよい」と言われたイエス様の思いを受け止めたいと思います。

 皆さん、イエス様は、私たちが開かれた姿勢、寛容の精神を持つことを求めておられます。そして「小さな人々を大切にしなさい」とおっしゃっておられます。私たちが、自分の中の優生思想や自負心を切り捨てて、命(神の国)に入ることができるよう、そのような生き方を実践していけるように、共に祈りを捧げたいと思います。