マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第19主日(特定22) 聖餐式 『イエス様は人生のパートナー』

 本日は聖霊降臨後第19主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は創世記2:18-24とマルコによる福音書10:2-9。説教では、キリスト教の結婚観について知り、結婚と信仰は類似しており、共に暮らす人をパートナーとして助けると共に、人生のパートナーであるイエス様に信頼して日々過ごすよう祈りました。また、テーマとの関連で、今読んでいる「LGBTと聖書の福音」について言及しました。

    『イエス様は人生のパートナー』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第19主日です。今日の福音書箇所はマルコによる福音書の10章2節から9節で、この箇所を含む部分は聖書協会共同訳聖書の小見出しでは「離縁について教える」とありますが、キリスト教の結婚観についてよく分かる箇所と言えると思います。

 今日の福音書の箇所を振り返ってみましょう。
 ファリサイ派の人々が、イエス様を試そうとして、イエス様に近づいて来ました。ファリサイ派は、「律法を忠実に厳守する」と自負しています。彼らはこう尋ねました。
「夫が妻を離縁することは許されているでしょうか」(2節)と。  
 ファリサイ派の人々はイエス様の「神が結び合わせたものを、人が離してはならない。」という教えが、律法とは違うことを群衆の前で暴露しようとしたと考えられます。
 これに対して、イエス様は、「モーセはあなたがたに何と命じたか」(3節)と問い返されました。
 彼らは、「わが意を得たり」とばかりに言いました。
モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」(4節)と。
 モーセが書いたとされた旧約聖書の最初の5つの書の最後の書、申命記の24章1節にはこうありました。「ある人が妻をめとり、夫になったものの、彼女に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、彼女に離縁状を書いて渡し、家を去らせることができる。」
 イエス様の教えと、モーセの律法で「離縁状を書いて渡し、家を去らせることができる」ということとは違うではないかと、議論をしてきたのです。
 これに対して、イエス様は言われました。
「あなたがたの心がかたくななので、モーセはこのような戒めを書いたのだ」(5節)と。
 イエス様は次のように考えていたと思います。「モーセがこのような戒めを書いたのは、神様の本来のご意志、結婚の根本的な意味に立ち帰るようにいさめたのだ」と。さらに、「離婚を認めているというが、それは妻の側に明らかな落ち度があったときに離縁状を書いて離縁することを許したのであり、正式な手続きを踏みなさい、ということであり、このように面倒な手続きをするのは、実は夫が妻を簡単に離縁することができなくするためなのだ」と。
 そして、イエス様は創世記の創造の箇所を用いて、こう説きました。7~9節です。「こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、もはや二人ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」。
 なお、ここの「結び合わせる」と訳されたギリシャ語の本来の意味は「くびきに一緒に付ける」でした。それは2頭の牛が共同作業をするために共につながれることであり、そのように二人の人が共同生活のために結ばれることを意図しており、そこに神様の思いがあると考えます。
 イエス様は律法を形として厳守するのでなく、その奥にある神様の思いを大切にするよう示されたのでした。このような箇所でした。

 キリスト教の教える結婚とはどのようなものでしょうか?
 それは本日の旧約聖書、創世記2章18節に端的に示されています。こうあります。
『また、神である主は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」』
 ここの「ふさわしい」と訳されているヘブライ語は、二人の間に対等のつり合う関係があることを意味しているそうです。
 「彼にふさわしい助け手を造ろう」は英語の聖書(NRSV)では、「I will make him a helper as his partner.」。直訳すれば「私は彼に彼のパートナーとしてヘルパー(助け手)を造ろう」でした。神様が与えて下さった「パートナーとしてのヘルパー」とは「助け合って生きる対等の相手」であり、ある注解書には「人を孤独から助けるのに最もふさわしいパートナーという意味」とありました。これこそキリスト教の考える結婚観であります。
 結婚とは、他人同士が、ある時に出会って、夫婦になろうとお互いに約束し合ってなる関係です。その関係をつなぐのは、約束であり、契約です。
 どの結婚式でも、「私はあなたを夫とします」、「私はあなたを妻とします」と誓約して、結婚が成り立ちます。
 結婚は、私たちと神様の関係に似ています。
 私たちは、人生のある時、神様との出会いがあり、「私は、あなたを信じます」と約束・契約して、神様を信仰する関係になりました。洗礼式は、その契約を目に見えるかたちで表す儀式です。私たちの方から信仰告白をし、誓約をし、神様の方からは「救い」が約束されます。堅信式は、その契約を確認する儀式です。
 結婚ではお互いをパートナーとして助け、信仰では神様を、そして救い主であるイエス様を人生のパートナーとしているのであります。

 男性同士、女性同士が惹かれ合うということも、今の世界にあって表面化しています。私は今、「LGBTと聖書の福音」という本を読んでいます。

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 この本には、アメリカの福音派の牧師がLGBTといわれる性的マイノリティーの人々と出会い、そのコミュニティの中で聖書の福音を理解し、共に生きる様子が描かれています。
 そのことで思い浮かぶ聖句が創世記1章31節です。そこに「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。」とあるように、神様は様々なものを造り、すべてのものをご覧になり、「極めて良かった。it was very good.」と評価されています。すべての人は、神様から「極めて良いもの」として造られ、祝福されていることを、忘れてはならないと思います。

 皆さん、私たちは、律法を形として厳守するのではなく、その奥にある神様の思いを大切にするよう思い巡らしたいと願います。
 そして今思うのは「イエス様こそ、真の人生のパートナーである」ということです。共に暮らす人をパートナーとして助けると共に、真の助け手で救い主であり、私たちの人生のパートナーであるイエス様にまったく信頼して、日々過ごすことができるよう、祈り求めたいと思います。