マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第15主日(特定18) 聖餐式 『「エッファタ」と呻き執りなすイエス様』

 本日は聖霊降臨後第15主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇
所はイザヤ書35:4-7aとマルコによる福音書7:31-37。説教では、イエス様が奇跡を起こすために天を仰ぎ呻いて言われた「エッファタ」という言葉の意味を知り、私たちのために呻き神様に執りなしてくださる主イエス様を一層信じて、日々歩み続けることができるよう祈り求めました。また、「エッファタ(開け)」という言葉から思い浮かべる「朝の祈り」の冒頭の言葉「主よ、わたしたちの口を開いてください」や小さな十字を切る所作を紹介しました。

    『「エッファタ」と呻き執りなすイエス様』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第15日です。
 本日の福音書箇所は、ただいまお読みしましたマルコによる福音書第7章31-37節です。先週の福音書では、イエス様はファリサイ派や律法学者たちと「昔の人の言い伝え」や「神の戒め」について論じ合いました。本日は省略されていますが、その後、イエス様は「ティルス」という異邦人の地に行き、そこで異邦人であるギリシャ人の女性と出会い、彼女の娘を癒やしました。

 そして、本日の福音書箇所です。ここではイエス様が、「耳が聞こえず口の利けない人」を癒された奇跡が述べられています。この箇所を振り返ります。
 最初にこうあります。31節です。
『それからまた、イエスティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に来られた。』
 受付で取っていただいたB5版の地図(新約時代のパレスチナ)をご覧ください。ここでは、今回、イエス様が進まれたであろう行程を矢印で示しました。

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 「ティルス」はガリラヤ地方より北の地中海に面した町で、「シドン」も地中海沿岸でさらに北にあります。そして「デカポリス地方」はガリラヤの南東に位置していますから、ガリラヤ湖を目的地にするのであれば、イエス様の行程には無理があるように思います。シドンやデカポリス地方でもイエス様を求める声があり、それに応えたのかもしれません。ここに挙げられている地名はいずれも異邦人の土地です。イエス様はデカポリス地方のゲラサで悪霊に取り憑かれた人を癒やしたこともあります。イエス様は異邦人の地を歩み、おそらくデカポリス地方のガリラヤ湖畔に来られたと考えられます。
 そこに「耳が聞こえず口の利けない人」が連れて来られました。おそらくこの人は異邦人であったと思われます。デカポリス地方には多くのギリシャ人が入植していました(「デカポリス」とはギリシャ語で「10の都市」の意味)。そして、人々は「その人の上に手を置いてくださるように」とお願いしました。
 すると、イエス様は、この人だけを群衆の中から誰もいない所に連れ出して、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。次にイエス様はこうされました。34節です。
『そして、天を仰いで呻き、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。』
 この「エッファタ」というのは イエス様の話されていたアラム語の発音です。聖書では他にも「タリタ・クム(少女よ、起きなさい)」や「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」等で、アラム語の音が伝えられています。きっと、イエス様の言われた言葉そのものに大きな力を感じた人々が、その音やイエス様の息づかいも伝えようとして、アラム語の発音をそのまま伝えたのだと思います。アラム語は当時のユダヤ人が日常会話で使っていた言語で、イエス様は弟子たちや群衆たちとアラム語で話していました。なお、当時の世界共通語であるギリシャ語に言い換えた、ここの「開け」という言葉は二人称・単数・命令形・受動態で、「あなたは開かれよ」という意味です。英語の聖書を見ると「Be opened」でした。自分の力、人間の力で「開け」というのでなく、イエス様の力、神様の力によって「開かれなさい」というのであります。
 さらに今回この箇所で「あれ?」と思ったのが、イエス様の「天を仰いで呻き」という所作でした。特に「呻き」という言葉についてです。このギリシャ語は 「ステナゾー(呻く)」の三人称・単数・過去形で、以前の新共同訳では「深く息をつき」、口語訳では「ため息をつき」と訳されていました。元々、「ステナゾー」は「息を吐く・呻く」を意味します。今日の福音書のこの語によって、自分ではどうすることもできない人間のために、「呻き」をもって執りなすイエス様の姿が表されたと見ることができます。
 イエス様が天を仰いで呻き、その人に向かって「エッファタ」と言うと、耳が聞こえず口の利けない、この人の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになったのです。イエス様は人々に、このことを誰にも話してはいけないと口止めをされましたが、反対に人々は、かえってますます言い広めました。そして、その結果を見た人々は、すっかり驚いてこう言いました。37節です。
「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
 今日の福音書はこのような箇所でした。

 イエス様のところに連れて来られた「耳が聞こえず口の利けない人」とは、救いを求めて「呻く」人の姿でもあります。この「呻き」に合わせてイエス様も呻いて、その苦悩を自分のこととして共に担ったのです。その姿は十字架に上るイエス様を暗示しているようです。イエス様の「呻き」は苦しみを神様に執りなす祈りであり、この「呻き」が奇跡を引き起こしました。イエス様が告げる「エッファタ」は、「呻き」からの救いを待ち望む人への励ましであり、「閉ざされていたこと」からの解放を告げ知らせる力強い宣言と言えます。

 さらに、ここの「エッファタ(開け)」という言葉が「あなたは開かれよ」という意味であることから思い浮かべることがあります。それは、私が聖務日課として行っている「朝の祈り」の冒頭の言葉です。そこでは最初にこう言います(祈祷書P.56)。
「主よ、わたしたちの口を開いてください 
 わたしたちは、主の誉れを現します(詩51:15)」
 これを持って礼拝が始まります。ちなみに私は「主よ、わたしたちの口を開いてください」と言いながら唇に親指で小さな十字を切っています。それは神様に口を開いていただくように祈ると共に、自分の言葉を聖なるものとしていただくためです。
 私は以前、学校や教育委員会に勤めていた時、大きな会議で挨拶する前などにも唇に十字を切っていました。それは、自分の思いを話すのでなく、主の誉れ、主の栄光を表すために自分の口を使って神様が話してくださるようにと祈っていたのであります。

 皆さん、イエス様は異邦人である「耳が聞こえず口の利けない人」を癒されました。私たちも異邦人であり、ある意味「閉ざされている人」でもあります。イエス様が奇跡を起こすために天を仰ぎ呻いて言われた「エッファタ(開かれよ、Be opened)」という言葉は、今日、私たちにも向かって発せられているのです。その時、私たちは「どうぞ、私の耳を、心を、開いてください」と答えることができるよう、そして、私たち一人一人が、私たちのために呻き神様に執りなしてくださる主イエス様に感謝し、なお一層イエス様を信じて、日々歩み続けることができるよう、祈り求めたいと思います。