マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『公文和子さんと「シロアムの園」に思う』

 先主日の説教で「神の戒め」を実践している人として公文和子さんを紹介しました。公文さんについては、この夏読んだ今年7月に刊行された『グッド・モーニング・トゥ・ユー! ケニアで障がいのある子どもたちと生きる』(いのちのことば社)に詳しく記されています。

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 この本には、ケニアで障がい児支援事業「シロアムの園」を運営する公文さんが園を立ち上げるまでのエピソードや、同園で出会った子どもたちや家族の物語が描かれています。
 今回は障がい児と共に生きる公文和子さんと「シロアムの園」について思い巡らしたいと思います。
 なお、公文和子さんと「シロアムの園」については、最近、キリスト教テレビ番組「ライフ・ライン」でも2週にわたり取り上げられました。その番組は下のyoutubeで見ることができます。ぜひご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=jZtRRRBhONo
https://www.youtube.com/watch?v=VOowI7O-psw

   聖書には多くの障がい者が登場しますが、イエス様が生まれつき目の見えない人を癒やしたのが、「シロアムの園」の名前の由来にもなったシロアムの池でした。その記事は、ヨハネによる福音書9章1~3節及び6~7節にあります。
『さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』
『こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、見えるようになって、帰って来た。』
 イエス様は、障がいの理由を因果応報でなく「神の業が現れるため」と断言され、目の見えない人を「シロアムの池」で癒やされたのです。
 公文さんはこの本の中でこう述べています。
『「シロアムの池」でなく「園」としたのは、単なる体の癒やしが行われる場所ではなく、コミュニティの中で心も体も、そして霊的にも癒やされる場所であってほしい、という気持ちからです。イエス様が目を開きたかったのは、この目が見えなかった人のみならず、この人を見放した地域の人たちや家族に対してでもあったのではないか、と思うと、コミュニティ全体がみんなと他者を大切にし、大切にされるような共同体になってほしいという思いが込められています。』(P.29)
 「シロアムの園」はこの施設で癒やされるだけでなく、すべての人が大切にされるコミュニティ(共同体)を目指しているというのです。
 さらに公文さんは「これからのビジョン」についてこう述べています。
『世の中は弱さを抱えた人たちが寄り集まって生きているのです。弱さと弱さが共に生き、共に悲しみ、共に喜び、お互いに感謝し合えたら、どんなに素晴らしいでしょう。このシロアムというコミュニティにおいて、一人一人の心にその平和が実現することにより、私たちがビジョンとする社会が達成されることを心から願っています。』(P.184)
 これは、私がこれまで親しみ目指してきた「ラルシュ共同体」とも共通する精神であるように思いました。

 この本には「相模原障がい者施設殺傷事件から思うこと」について一章が与えられ、公文さんのこの事件等から思うことが記されています。この中にこうあります。
『神様は、その人の価値観の中で「役に立っていること」よりも、その人がその人らしくいるだけで、何かを見て美しいと思い、楽しいと思い、笑うだけで、喜んでくださる方であり、存在そのものを愛してくださる方ではないでしょうか。』
 私はこの言葉から次の聖句を思い浮かべました。
『神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。』(創世記 1章 31節)
 すべてのものは神様によって造られました。そして「それは極めて良い」のです。「役に立つ」とか生産性で価値が決まるものではありません。
 現在、東京パラリンピックが行われ、目が見えない・両手がないなどの障がいのある方が持てる力を発揮され、素晴らしいと思いますが、ややもするとメダルや順位にこだわり、メディアもそれを賞賛する傾向があります。「障がい者は人一倍努力する人」という先入観を持たせることにはならないでしょうか?

  「相模原障がい者施設殺傷事件から思うこと」の章の最後に公文さんはこう記しています。
『私たちの社会の中で、本当に目が見えない人、すなわち心を失っている人は一体誰なのでしょうか? 言語で挨拶をすることができない障がいのある人たちなのか、それとも、その人たちが発信している心のメッセージを受け取ることができない私たちなのか。これは、社会全体への問いなのではないでしょうか。」(P.172)
  この言葉を心に刻み、「シロアムの園」の理念を実現できるよう、私たち一人一人が今置かれている場で、自分のできることは何か思い巡らしていきたいと思います。