マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第5主日(特定8) 聖餐式 「ヤイロの信仰に倣う」

 今日は聖霊降臨後第5主日です。午前は前橋、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は申命記15:7-11とマルコによる福音書5:22-24、35b-43。説教では、ヤイロの娘の奇蹟を通して、私たちの痛みや苦しみに触れて癒やしてくださるイエス様の愛を知り、ヤイロのようにすべてを主に委ね信頼して信仰生活を送ることができるよう祈り求めました。また、今日のテーマから思い浮かべたカトリック教会の「日々の祈り」の中にある「目覚めた時の祈り」と「床につく時の祈り」についても言及しました。

    「ヤイロの信仰に倣う」

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 今日は聖霊降臨後第5主日です。本日の福音書は、マルコによる福音書5章22節~24節、そして、35節b~43節です。ここには、会堂長ヤイロの娘が、病気になり、死んだ後、イエス様によってよみがえったという「奇跡」が記されています。 
 今回は、主にイエス様とヤイロの会話に注目して、この箇所を振り返り、神様の御心を探りたいと思います。

 ヤイロは会堂長でした。会堂長は、礼拝を監督し、会堂の管理、運営を司る人でした。そのようなユダヤ教の重要な職のヤイロがイエス様の足下にひれ伏し、しきりに願って「私の幼い娘が死にそうです。どうか、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と言ったのでした。
  イエス様は、ヤイロの願いを聞いて一緒に出かけられました。大勢の群衆も後について行きました。
 イエス様の一行は、ヤイロの家の近くにまで来ました。その時、会堂長の家から人々がやって来て、ヤイロに言いました。
「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と。 イエス様は、その話を近くで聞いておられました。
 その知らせを聞いて、取り乱し、悲しんだであろう会堂長ヤイロに、イエス様はこう言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。ここで「信じなさい」と訳されているギリシャ語は「ピステウオー(信じる)」の二人称・単数・命令形です。この名詞形がギリシア語では「ピスティス」で「信仰」です。「信頼」と訳すこともできます。イエス様は取り乱し悲しんでいるヤイロに「ただ信じなさい」「私を信頼しなさい」と言われたのです。癒しや救いを受け取るにはこの「ピスティス(信仰・信頼)」が重要な役割を果たしています。
 イエス様がヤイロに言われたこの「恐れることはない。ただ信じなさい」という言葉は、先主日、湖の嵐を静めたイエス様が弟子たちに言われた「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか。」という言葉を思い起こします。弟子たちに対しては非難の言葉として厳しく、ヤイロに対しては励ましの言葉として優しく語られていますが、意味は同じだと考えます。「恐れないで私を信頼しなさい、信仰を持ちなさい」ということです。イエス様はこの言葉を私たちに向けても語っておられます。私たちは様々なことに恐れを抱いて生きています。苦しみ、悲しみ、痛み、病気、そして死。私たちがその一つ一つに出会い叫び声をあげる時、「恐れることはない。ただ信じなさい」とイエス様は言われるのです。 
 その後、イエス様は、弟子たちの中から、ペトロ、ヤコブヨハネだけを連れて、会堂長の家に向かわれました。会堂長の家に着くと、家族や近所の人たちが、大声で泣きわめいて騒いでいました。
 イエス様は、その様子を見て家の中に入り、人々に「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ。」と言いました。その言葉を聞いて人々は、イエス様をあざ笑いました。
 イエス様は、そこにいる人たちを外に出し、この娘の両親と3人の弟子だけを連れて、子どもが寝かされている部屋に入って行きました。
 そして、子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われました。これは、アラム語で、イエス様が日常の生活で使っておられる言葉でした。「タリタ」は「娘よ」、「クム」は「起きなさい」という意味です。アラム語のまま伝えられたのは、イエス様の声の響きが聞いている人に強い印象を残したからと考えられます。
 すると、ヤイロの娘は、すぐに起き上がって歩き出しました。奇跡が起こったのです。この少女はもう12歳になっていたからと、わざわざマルコは記しています。それは12歳の少女が12歳の能力を発揮し始めた、ということです。キリストに救われたとき、彼女は起き上がり、本来の12歳の少女になったのです。人は救い主に出会って、癒され、本来のあるべき自分を生き始めるのです。
 本日の箇所の最後では、イエス様は、この奇跡の出来事を「だれにも知らせてはならない」と厳しくお命じになり、「この娘に何か食べ物を与えなさい」と言われました。これは生命を維持するための食べ物であるとともに、私たちに真に生きるための霊的な食べ物(神様の御言葉)が必要なことを示しているようにも思います。
 
 さて、神様がこの箇所を通して私たちに伝えようとしているのはどんなことでしょうか? 私たちに求めておられるのはどのようなことでしょうか? 
 私は、それは、今にも死にそうだったヤイロの12歳の娘を癒したものが何だったかということと関連していると考えます。ヤイロは会堂長という立場を脇に置いて、娘を助けたい一心でイエス様にひれ伏して癒しを願いました。家に着く前に「娘はもう亡くなった」と告げられましたが、イエス様の「恐れることはない。ただ信じなさい」という言葉に従い、イエス様にすべてを委ねました。イエス様が娘の手を取り「タリタ・クム(娘よ、起きなさい)」と言葉をかけると娘は癒されたのでした。ヤイロのイエス様への全幅の「信頼・信仰(ピスティス)」がイエス様の行動を促し、ヤイロの娘を癒したのだと思います。
 私たちに対しても、神様は、このヤイロのようにイエス様の「恐れることはない。ただ信じなさい」という言葉に従い、イエス様にすべてを委ね信じることを求めておられるように思います。
 
 その基にあるのは、私たちの祈りに応えて、私たちの痛みや苦しみに触れて寄り添ってくださるイエス様の慈しみあふれる愛です。  
 今日も、主の慈しみは絶えることなく、私たち一人一人に注がれているのです。そして、私たちがなすべきことはすべてを主に委ねることです。そのことで思い浮かべる「祈り」があります。それはカトリック教会の「日々の祈り」の中にある「目覚めた時の祈り」と「床につく時の祈り」です。

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 私は、毎日目覚めた時、そして床につく時、この祈りを捧げています。受付に置いて取っていただいたプリントをご覧ください。こうあります。
「目覚めた時の祈り」 
『天の父よ、一日の初めにあなたをたたえ、きょうのすべてをささげます。あなたのいつくしみのうちに生きることができますように アーメン』
「床につく時の祈り」
『今わたしは眠りにつき、神はまた目覚めさせてくださる。
(ここでその日の出来事を思い巡らします。最後にこう言います)
 父よ、わたしの魂をみ手にゆだねます。
 父と子と聖霊のみ名によって。アーメン』
 皆さんも、ぜひこの祈りを捧げていただければと思います。
 
 皆さん、今日、イエス様は私たちにも言われています。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。イエス様は私たち一人一人の痛みや苦しみに触って癒やしてくださいます。私たちも、本日の箇所のヤイロの信仰にならい、天地万物を治めておられる神様のみ心に従い、すべてを主に委ねて、イエス様を心から信頼して信仰生活を送ることができるよう、祈り求めたいと思います。