マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第6主日(特定9) 聖餐式 「真のイエス様を見つめ信頼する」

 今日は聖霊降臨後第6主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇
徒書はコリントの信徒への手紙二12:2-10とマルコによる福音書 6:1-6。説教では、イエス様の故郷の人々のように生まれや外見にとらわれす、預言者であり救い主であるイエス様の真の姿を見つめ、すべて主に信頼し委ねて、御心にかなう生き方ができるよう祈り求めました。また、本日の使徒書にも目を向け、パウロに与えられた棘に注目し、「弱さを誇る」信仰についても言及しました。

    「真のイエス様を見つめ信頼する」

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 突然ですが、皆さんは「ハロー効果」という言葉を御存じでしょうか? ハローとは、「後光が差す」と言う時の後光、聖像の光背や光輪のことで、後光効果、光背効果とも呼ばれます。
 私は県の知能検査の調査員をしていたことがあります。いろいろな子ども、就学前の幼児や小学生や中学生等に会って知能検査をしました。その時、事前に基本データをもらいます。もう30年以上も前で、住所や在籍校園の他、親の職業なども記載されていました。その時、国立附属の学校にいるとか親が医者をしているとかという情報があると、ついその子をそういう目で見て、実際よりも高く評価してしまうことがあるかもしれない。そうしないように気をつけなさい、ということで「ハロー効果に注意」ということが言われました。
 これは人を外見で判断してはいけない、先入観で人を見てはいけないということの戒めとも理解できます。
 今日の福音書でも、イエス様を生まれや先入観で判断している故郷の人々のことが描かれています。
 本日の福音書はマルコによる福音書の6章からで、安息日に故郷の会堂で教えたイエス様に対して人々がつまずいた箇所です。聖書協会共同訳聖書の小見出しは「ナザレで受け入れられない」とあります。

 先週の福音書は、会堂長ヤイロの娘がイエス様によって生き返るという奇跡の箇所でした。そこでは「恐れることはない。ただ信じなさい」(5:36)というように、「信じること」が大きなテーマでした。今日の箇所は先週の続きの箇所ですが、ここでも「信じる」ということが同様に重要であると思います。

    今日の箇所についてです。イエス様は故郷であるガリラヤのナザレに弟子たちとともにお帰りになりました。私は3年前に聖地旅行をしましたが、その折り訪れたナザレはこんな所でした。

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    マリアが利用したと言われる井戸が街の中心にあるのんびりとした田舎町でした。また、イエス様とその家族が暮らしていたとされる場所には現在、聖ヨセフ教会が立っていて、この写真はその中にある聖家族が生活していた部屋とされていました。

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 さて、イエス様が安息日に会堂で教えられると、故郷の人々は驚いて言いました。2節の後半からです。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡は一体何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで私たちと一緒に住んでいるではないか。」と。
 イエス様の故郷の人びとは、イエス様とその身内のことをよく知っていました。ですから、イエス様が会堂で教えられ、それを聞いた人びとは、イエス様の口から出る言葉に驚いたのです。
 そして「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。……」との外見的なこだわりから、故郷の人びとはイエス様につまずいたのです。
 「この人は、大工ではないか。」の「大工」とは家を建てる人というよりも、家の内装や家具を作る職人だったようです。ちなみに、この「マリアの息子で」という表現には、すでにヨセフが他界していたことを暗示するとともに、父親がいないという軽蔑の響きがあります。さらに、ここで「つまずく」と訳されたギリシャ語「スカンダリゾー」は名詞スカンダロン〈罠〉から派生した動詞形で、英語のスキャンダルの基になった言葉です。この箇所では人が常識に凝り固まっていると、人々は罠にはまりイエス様自身が「つまずきの石」に変わってしまうこと示しています。

 ナザレの人々は、イエス様を表面的によく知っていたので、その見方を超えることができず、イエス様が、預言者として神様との特別なつながりの中で活動していることを理解できませんでした。だから「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけ」(4節)だと言われるのです。
 そして、わずかの病人を癒しただけで、その他の奇跡を行うことができず、イエス様は、故郷の人びとの不信仰に驚かれ、この地を去り、近くの村々を教えて回られました。

 この箇所から、私たちがどうすることを、イエス様は、そして神様は求めておられるでしょうか?
 驚くという出来事には「ひどいことに驚く」と「素晴らしいことに驚く」の二つの側面があります。それらの驚きがつまずきに変わるのは、「その出来事をなさった方は自分と同じ人間ではないか」というような自分のレベルに落として見ていることによるのではないでしょうか?
 人々の驚き、それをイエス様の生い立ちなどで見るのではなく、イエス様の背後で働いておられる神様に目を向けられたら、人びとの驚きはつまずきではなく、別の動きになったことでしょう。 
 イエス様を外見で判断するのでなく、預言者、つまり神様の言葉を預かる方であり、私たちの救い主であるという真の姿を見つめ、すべて神様に信頼して委ねることを、イエス様は、そして神様は求めておられるのではないでしょうか? 

 そうはいってもなかなか難しいと思われるかもしれません。そのことの関連で、先ほど読んでいただいた使徒書、「コリントの信徒への手紙二」にも目を向けたいと思います。そこでは、パウロ自身の弱さが記されています。パウロは自分に「一つの棘(とげ)が与えられた」(12:7)と言っています。この棘が何かは明記されていませんが、一説には、パウロは目が悪かったとか、てんかんの持病があったとか言われるので、肉体的なことではないかと思われます。また一説には、パウロが負った心の傷ではないか、あるいは「うつ病」だったのではとも言われています。この棘は、「思い上がらないように、私を打つために、サタンから送られた」と言われる試練とも考えられます。そして、パウロは、その棘がなくなるように三度神様に願いますが、神様からそれが必要だと言われます。9節前半にこうあります。『ところが主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。』と。それは、その棘があることによって、自分の限界、弱さを実感でき、福音宣教者として必要なものだからと言うのです。パウロというと、とても厳しく強いというイメージがありますが、それは言葉や行いという外見的なものであって、心の中は、普通の人と変わらない弱さを持っていました。そして、パウロは、9節後半以下で「キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」「私は弱い時にこそ強いからです」と言っています。それはパウロがまったく主を信頼するという信仰を持っていたからこそ確信できたものと思います。そして、その棘があったから、求められても、あるいは必要があっても思うように動くことができず、そのために各教会の信徒宛に手紙を書いたとも考えられます。しかし、そのおかげで、新約聖書の多くの部分を占めるパウロの手紙が残り、今、私たちもそれを読むことができるのです。このことは、「驚くべき素晴らしい恵み(Amazing Grace)」と言えるのではないでしょうか?

 私たちにも試練や「棘」が与えられることがあります。しかし、それには必ず何か神様の意図があるのです。試練の時も、いや試練の時こそ、神様と強い絆を保ち、まったく主を信頼することが重要です。そして、預言者であり、私たちの救い主であるイエス様の真の姿を見つめ、主に信頼しすべて委ねて、御心にかなう生き方ができるよう日々祈り求めて参りたいと思います。