マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第9主日(特定12) 聖餐式 「人生の大海原を主と共に進む」

 本日は聖霊降臨後第9主日です。午前は前橋、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所はエフェソの信徒への手紙4:1-7、11-16とマルコによる福音書6:45-52。説教では、主イエス様の「湖の上を歩く」という奇跡の出来事が示していることを心にとめ、人生という大海原の旅路を、神様に全幅の信頼を寄せて主と共に進むことができるよう祈り求めました。また、本日のテーマと関係する礼拝の入堂や退堂で歌った聖歌448の歌詞にも言及しました。

    「人生の大海原を主と共に進む」

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第9主日です。先ほどお読みしました本日の福音書はマルコによる福音書6:45-52で、湖の上を逆風のために漕ぎ悩む舟の中の弟子たち、その弟子たちのもとに、神の子であるイエス様が、湖の上を歩いておいでになったという箇所です。

 今日の福音書を振り返ってみましょう。この箇所は先週の「五千人の給食」の奇跡の続きです。イエス様は弟子たちを強いて舟に乗せ、ガリラヤ湖の向こう岸のベトサイダに先に行かせます。群衆を解散させ、ご自分は祈るために山に行かれます。聖書では、山は神と出会う場所です。一方、湖はこの世を象徴する場所です。弟子たちの乗った舟は、湖の真ん中にあります。湖は「海」とも訳せます。イエス様は山にいます。逆風が弟子たちを悩ませます。イエス様は弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見ながら、夜明け頃、湖の上を歩いて弟子たちのところを通り過ぎようとされます。原文では「通り過ぎることを望んでいた」です。困っている弟子たちを通り過ぎたいと思うのは不思議に思いますが、これはモーセの前を主の栄光が通り過ぎたように(出エジプト33:22)、神の顕現を表す表現であります。弟子たちは、荒れた湖の上を平然と歩かれるイエス様を見て幽霊だと思い、大声で叫びます。イエス様は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われます。「安心しなさい。」は直訳では「勇気を出しなさい」です。「わたしだ」は原文では「エゴー・エイミ」で、「わたしはある」という「ご自分が神である」との宣言であり、私たちに困難の中で神様が共におられることを告げています。イエス様が漕ぎ悩む舟に乗り込まれると風は静まります。弟子たちは非常に驚きます。イエス様のなさった奇跡の意味が分かっていなかったからです。
 このような話でした。
 この写真をご覧ください。

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これは早朝のガリラヤ湖の写真です。今日の箇所の最後はこのような穏やかな光景だったように思います。

 この箇所を通して、神様が私たちに伝えたいと思っておられるのはどのようなことでしょうか?
 まず冒頭の45節に注目します。
「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。」
 パンの奇跡によって男だけで五千人、女性や子供も入れればおそらく1万人以上に食べ物を与えたという出来事の直後に、イエス様は弟子たちを有無を言わせず、舟に乗せて、「さあ、向こう岸へ行きなさい」とお命じになられたのです。弟子たちの側からすれば、よく理由もわからないまま、「自分たちだけで行くように」と言われたのです。
 この弟子たちの置かれた状況は、私たちの置かれた状況とも言えるのではないでしょうか? 少し飛躍するかもしれませんが、それは、私たちがこの世に生まれてきたということです。
 私たちは、有無を言わせず、この世に送り出されています。何の心づもりもなく、この世に送り出されたのです。
 この世界のことを、この世の大海原という言い方をすることがあります。私たちも、この世の大海原に、送り出されています。そして、向こう岸へ進んでいます。日本語でも、彼岸と言います。向うの岸です。こっちの岸(此岸)から向こうの岸(彼岸)へ、送り出されているのです。
 私たちは、この世の大海原に送り出され、向こう岸へ行くように強いられています。向こう岸とは「死」です。すべての人は必ず最後にそこにたどり着きます。

 あの日、弟子たちを乗せた舟が、気が付けば、湖の真ん中にいたように、私たちも、今、この世の大海原の真ん中にいるのです。その、大海原の真ん中にいる私たちは、孤独なのでしょうか? 見捨てられているのでしょうか?
 あの時の弟子たちも、舟の上で、たいへんな孤独、また不安に襲われました。逆風のために、漕ぎ悩んでいました。私たちは、そんな時、見捨てられた、と思うかもしれません。
 しかし、大海原の上にいる私たちを見ていてくださる方がおります。漕ぎ悩む弟子たち、湖上で苦しむ弟子たち、その弟子たちのことを、イエス様は見ておられたのです。「無理やり行かせ、後は知らない」ではありません。送り出したお方は、きちんと見ておられたのです。そして、山を下りて、湖の上を歩いて、漕ぎ悩む弟子たちのそばへおいでになられました。それはまるで、イエス様が天から私たちのもとへ降りて来られたことを象徴しているかのようです。そして、それは、2,000年前の話ではなく、今も、私たちのもとへ、おいでになられるという、主の姿なのであります。
 大海原を進む旅路(海路)を私たちもしております。向こう岸へ進む旅、人生という旅です。逆風が襲い、漕ぎ悩んでいる私たちのそばにもイエス様は来て下さいます。そして「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言って下さるのです。私たちのすぐそばに主はおられます。
 イエス様が弟子たちの舟に乗り込まれたように、私たちの舟にも、主は乗って下さいます。そうすると風は静まります。主が共にいて下さいます。私たちは、孤独でも見捨てられてもいないのです。

 今日の礼拝の退堂で歌う(入堂で歌った)聖歌448の1節にこうあります。
『み父よ 世のなみ さかまく海路 渡り行くわれを 守らせたまえ
 恵みのもとなる み父のほかに たより求むべき 助けはあらじ』
 この大いなる恵みを下さる父なる神様に全幅の信頼を寄せ、この世の大海原を航海していきたいと願うものであります。

 皆さん、本日の福音書では、この世での困難な時に主なる神様が共にいて下さるということ、そして、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と呼びかけていて下さる、ということを教えています。私たちは、この奇跡の出来事が記していることを心にとめ、人生という大海原を航海する旅路を、神様に全幅の信頼を寄せて、向こう岸に向かって主イエス様と共に進むことができるよう祈り求めたいと思います。