マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第10主日(特定13) 聖餐式 「イエス様は永遠の命のパン」

 本日は聖霊降臨後第10主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は出エジプト記16:2-4、9-15とヨハネによる福音書6:24-35。説教では、イエス様は永遠の命のパンであり、私たちがイエス様のもとに来て、イエス様を信じ続けることを望んでおられることを理解し、そのことに感謝し、祈りを捧げました。また、本日のテーマとの関連で聖体訪問について言及し、それを勧めました。

    「イエス様は永遠の命のパン」

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第10主日です。福音書箇所はヨハネによる福音書の6章24-35節で、聖書協会共同訳聖書で「イエスは命のパン」と表題のある前半部分です。この箇所を通して神様が私たちに伝えたいと思っていることはどのようなことでしょうか?

 本日の福音書箇所を振り返ってみましょう。
 群衆はイエス様を探しに、ガリラヤ湖北部にある町カファルナウムにやってきました。そして湖の向こう岸にいるイエス様を見つけ声をかけます。それに対して、イエス様は群衆に「あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(26節)と言います。これは男だけで5千人、女性や子供も入れれば1万人を超すであろう人々にパンを与え、彼らは満腹されたことを示しています。このことをイエス様は神様がすべての人々を救う方であることを示す「しるし」として行いました。しかし、群衆はこの出来事を神様の救いの「しるし」としてではなく、単に空腹を満たすためであったと理解していました。そこで、イエス様は群衆に「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(27節)と言われました。その後、群衆はイエス様に、「神の業(わざ)を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(28節)と聞きます。それに対して、イエス様は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(29節)と言われます。
 ちなみに、群衆がイエス様に尋ねた「業」はギリシャ語「エルゴン(働き)」の複数形「エルガ」、英語ではthe worksで、イエス様が答えた「業」は「エルゴン(働き)」(単数形)、英語ではthe workでした。群衆は神の業を、諸々の指示とか掟を守ることと理解しているのに対して、イエス様は神の業をただ一つのこと、つまり神様がお遣わしになった方、すなわちイエス様を信じることであると答えているのです。ちなみに、この「信じる」という言葉は、原文では動作の継続を意味する表現が用いられています。つまり、「信じ続ける」ということです。しかし、群衆はイエス様の言っていることが理解できません。さらに彼らは、本日の旧約聖書出エジプト記にある、神様がモーセを通して、イスラエルの民に荒れ野でマナを与えた話を持ち出します。それに対して、イエス様は彼らに、「イスラエルの民が荒れ野でマナを与えられた出来事は、モーセが与えたのではなく、父、すなわち神様が与えた」ことを伝えます。さらにイエス様は「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(33節)と告げます。
 それに対して、群衆は「主よ、そのパンをいつも私たちにください」(34節)とイエス様に言います。イエス様は彼らに、「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」(35節)と告げました。ここで「命のパン」と訳されている「命」はギリシャ語聖書を読むと「ゾーエー」でした。命には「プシュケー」というギリシャ語もあります。「プシュケー」は肉体的な命、生物学的な命を表します。それに対して、「ゾーエー」は、「命のパン」のほか「永遠の命」とか「命の水」というときに使われ、生物学的な命が終わっても、決して消え去ることなく輝き続ける命を指しています。「命のパン」とは人々を永遠の命に導くイエス様自身を表しているのです。このような話でした。

 群衆はイエス様を捜し求めて、しかもイエス様がパンを割(さ)かれたところに集まりましたが、イエス様がそこで割かれたパンは、実はイエス様御自身であったということがここで示されたのだと考えます。「私が命のパンである」と。イエス様は神様からのパンを与える人であると同時に、自分自身がパンであると言われるのであります。

 カトリック教会や私たち聖公会聖餐式や聖体拝領、または御聖体(聖別されたイエス様の体であるパン)に対する信仰を重視しています。それは御聖体が命のパンであり、私たちに永遠の命を得させるためのイエス様御自身であるからです。

 ところで、皆さんは「聖体訪問」はご存知ですか? 聖体訪問とは、聖堂に安置されている御聖体を訪問して礼拝する信心行のことです。私は、このマッテア教会で、また、出張や旅行等で出掛けた折りに訪問した国内でも海外の教会でも、赤い聖体ランプの下にある聖櫃(せいひつ・タバナクル)に安置された御聖体の前で心静かに祈る聖体訪問を行ってきました。マッテア教会では、十字架に付けられたイエス様の下にある木製の箱が聖櫃で、その中に御聖体が保存されています。

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  私は以前、県の教育委員会に勤めていた頃、マッテア教会や前橋市役所近くのカトリック教会で聖体訪問をよくしました。県教育委員会は県庁の中にあるのですが、そこではお昼の12時から1時からはお昼休みで、基本的に業務はありません。私は昼休みになると、お弁当を持って近くの前橋公園等で食べ、その帰りにマッテア教会で聖体訪問したことを思い出します。県の教育行政を進める上で、あるいは個人的なことで、心の思いや願い、悩みなどがあり、それらを聖別されたパン、つまりイエス様御自身である御聖体の前に置き、語りかけ、祈りの時を持ったのです。イエス様は、ずっと話を聞いてくださり、その時点で考え得る最善の道へと私を導いてくださったように思います。

 イエス様は、お聖堂の聖櫃の中で、皆さんを静かに待っておられ、交わりの時を求めておられます。
 マッテア教会のお聖堂は、私がいる間はいつも扉を開けています。すると、時には散歩途中の方などが中に入り、祈りの時を持っておられます。
 皆さんも、このマッテア教会やカトリック前橋教会で、また旅先の教会などで、ぜひ御聖体を訪問しその前に身を置き、そこにおられるイエス様に語りかけ、祈りの時を持つことをお勧めします。

 イエス様は「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」とおっしゃいました。それは言い換えれば「私は永遠の命をあなたがたに与える。私のもとに来なさい。私を信じ続けなさい。そして、私を食べなさい」と言われているのではないでしょうか?

 私たちは、この後、主の聖餐にあずかります。イエス様が「私が命のパンである。」と言われたことを思い起こしながら、御聖体、イエス様の御体にあずかりましょう。その恵みに感謝し、共に心を合わせて祈りを捧げたいと思います。