マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第8主日(特定11) 聖餐式 「主にある平和を生きる」

 今日は聖霊降臨後第8主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所はエフェソの信徒への手紙2:11-22とマルコによる福音書6:30-44。説教では、5000人の給食に至る状況と奇跡の出来事から、神様との交りの時を大切にし、イエス様の深い憐れみによって平安・平和が与えられたことについて思い巡らしました。また、先日の幼稚園の誕生会で取り上げた絵本「バベルの塔」やテーマに関連する本日の使徒書の箇所にも言及しました。

    「主にある平和を生きる」

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第8主日です。先ほどお読みしました本日の福音書では、「弟子たちの宣教の結果を報告されたイエス様が、彼らに「休むように」勧め、駆けつけた「飼い主がいないような大勢の群衆を、深く憐れまれ、五千人を養われた」ことが記されています。

 これをご覧ください。

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  これは本日の聖書箇所の舞台であるガリラヤ湖畔の北西の「パンと魚の奇跡教会」と呼ばれる教会の内部の祭壇です。祭壇前には有名なモザイクがあり、祭壇下には岩の一部が残され、5世紀から信徒たちはイエス様が会食した際のテーブルだと信じてきました。

 本日の福音書箇所はマルコによる福音書6:30-44で、内容的にはイエス様が12人の弟子を派遣した先週の福音書の箇所から続いていると考えられます。この箇所は大きく2つの部分からなります。前半の詳しい状況設定(30-34節)と後半の奇跡の出来事(35-44節)です。今回は主に前半の部分にスポットを当てて思い巡らしたいと思います。

 今日の福音書箇所の冒頭にこうあります。「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」
 使徒たちの「自分たちが行ったことや教えたこと」とは何だったでしょうか?  それは、悪霊を追い出し病人を癒やしたことや神の国の福音を宣べ伝えたことだと言えます。そしてそれは、師であるイエス様がなさったことで、弟子たちはイエス様からそうできる権能を授かったからできたのでした。「残らず報告した。」という表現から、成果が上がり意気揚々としている弟子たちの様子がうかがえます。
 さて、自分たちの成果を喜んで報告した弟子たちに、31節でイエス様は、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行き、しばらく休むがよい」と言って、寂しい所へ行かせようとしました。それはなぜでしょうか? 
 「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったから」とあります。騒がしくて忙しいからというのですが、私はイエス様はこのままでは弟子たちが大事なものを見失ってしまうように感じたからではないか、と考えます。弟子たちはいろいろな出来事や緊張で疲れている、とイエス様は感じられ、また宣教の成功で自分の力を過信し、自分でも気がつかないうちに、霊性の貧困という事態に陥ってしまうとイエス様は思われたのではないでしょうか? 「寂しい所」、以前の新共同訳では「人里離れた所」、つまり日常の活動や仕事から引き離された所で、弟子たちに心も体も休息させ、神様との交わりの時、祈りの時を持たせようとしたのだと思います。聖書の中では「休む」とは「祈る」ことでもあるのです。

 先日、マーガレット幼稚園の誕生会でこの「バベルの塔」の絵本を読み、「どこが良かったですか?」と子供たちに尋ねると、最初に「塔が崩れるところ」という答えがありました。この箇所です。

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  自分が神様のようになろうという思い上がり、傲慢を戒めたところと考えられます。今日の福音書で弟子たちの過信を心配したイエス様と基は同じと思うのであります。

 ところが、「寂しい所」のはずが、そこはすでに、方々の町から一斉に駆けつけて来た群衆で大騒ぎでした。イエス様はその「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれました。彼らには、自分たちを養い、守り、導いてくれる飼い主、主人がいないのです。イエス様の深い憐れみ、それはただ「可哀想に思う」というのではありません。この「深く憐れみ」はギリシャ語聖書を読むと「スプランクニゾマイ」という動詞の受動態が使われていました。「スプランクナ」は内臓を指し、この動詞はそこから派生しており「はらわたが痛くなる」「はらわたをつき動かされる」というような意味があります。気の毒に思ったという程度の言葉ではなくて、共感の思いを全身で受け止め、激しい感情が湧き上がり、イエス様御自身がそれに耐えられないような激しい苦痛にも似た憐れみの情に襲われたということです。ここにイエス様の心の原点があります。イエス様は、集まっている群衆に「はらわたをつき動かされる」ように激しい感情が湧き上がり、いろいろと教え始められたのです。私は今回初めて、この箇所で、イエス様自身がまずされたのは、御自分がこの大勢の群衆たちの羊飼いであるという自覚であり、御自分の思いを伝えることであったと気づきました。
 今日の福音書箇所の前半で、イエス様は使徒たちの話をじっくりお聴きになり、寂しい所で休むように指図されるお方、また、主人のいない群衆に共感し深く憐れまれるお方であり、私たちがイエス様の思いを受け止めることを望まれておられることを示されたのであります。

 その後、男だけでも5千人、女性や子供を入れれば恐らく1万人以上の食料を奇跡によってまかなったことが語られます。今回はこの部分は深く触れませんが、41節でイエス様が「天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡し」たことに注目したいと思います。これはパンを聖別したことを意味します。そしてそのパンを「人々は皆、食べて満腹した。」(42節)のであります。ここは英語の聖書(NIV)では、「They were satisfied.」となっていました。人々は、聖別された御聖体をいただき、お腹がいっぱいになるだけでなく、精神的にも満足し満たされたのです。

 この満足・平安はどこから来るものでしょうか? それは主イエス・キリストに全幅の信頼を寄せるところから来る平安・平和、言い換えれば「キリストによる平和」であると考えます。本日の使徒書であるエフェソの信徒への手紙2章13-14節にこうあります。「しかし、以前はそのように遠く離れていたあなたがたは、今、キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。 キリストは、私たちの平和であり・・・」と。これは2000年前の信徒にだけ語られた言葉ではなく、現代の私たちにも語られているのです。私たちはキリストの十字架と血によってイエス様に近い者とされ、平和を与えられたのです。ここで言う平和(ギリシャ語で「エイレーネー」)は、単なる争いがない状態ではなく、平安や幸福という心の状態や神の国での救いの内容も表しています。イエス様は、このことを私たちに伝えたのであります。17節にこうあるとおりです。「キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。」
 
 皆さん、主イエス・キリストは、私たちにも日常の場から離れた所で心も体も休息させ、祈りの時、神様との交わりの時を持たせたいと思っておられます。また、イエス様は私たちの置かれて状況を共感し受け止め、「はらわたをつき動かされる」ような深い憐れみによって私たちに平安・平和を与えて下さるのです。
 
 私を含めてここにお集まりの皆さんは、自分の力ではどうにもならないと自覚した人生のある時にイエス様に出会い、全幅の信頼により祈りの時を持った時、主イエス様の深い憐れみによって平安が与えられたという経験をお持ちのことと推察します。私たちはその慈しみと恵みに感謝し、主が約束された救いを求めて日々歩み、神の国の住人として、師である主イエス様に倣い、神様との交わりの時を大切にし、主の御心にかなう生き方ができるよう祈り求めたいと思います。