マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第14主日(特定17) 聖餐式 『「神の戒め」を守り実行する』

 本日は聖霊降臨後第14主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は申命記4:1-9とマルコによる福音書7:1-8、14-15、21-23。説教では、「昔の人の言い伝え」に固執するのでなく、「神の戒め」は私たちを生かし支えるものものであることを知り、少しでもそれを守り実行することができるよう祈り求めました。また、その「神の戒め」を実践している人として、ケニアで障がい児と共に生きている公文和子さんという小児科医を紹介しました。

    『「神の戒め」を守り実行する』

<説教>
  父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第14主日です。先週まで4週にわたりヨハネによる福音書を続けて読んできましたが、今週からマルコによる福音書に戻ります。
 本日の福音書箇所は、ただいまお読みしましたマルコによる福音書第7章1節以下です。この箇所の直前(6章の後半)では5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与え、湖の上を歩いて舟をこぎ悩んでいた弟子たちに近づき、さらに、ガリラヤ湖を渡り、その北西部であるゲネサレトの地で多くの病人を癒やしたイエス様の姿を伝えています。そして、今日の箇所になります。

 この箇所は、昔の人の、すなわちユダヤ教の「言い伝え」に対するイエス様の批判(1-8節)と旧約聖書の食物規定に対するイエス様による廃棄(14-23節)から成っています。今回は主に前半について考えたいと思います。
 ここでは、ユダヤ教の一派ファリサイ派の人々や律法学者たちが、はるばるエルサレムからイエス様のところにやってきて(1節)、イエス様の弟子たちの中の何人かが、汚れた手で、つまり手を洗わないで食事をしているのを見つけ(2節)、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(5節)と尋ねます。
 現在、私たちは、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、これまで以上に丁寧に手洗いをしています。そうでなくても食事前に手を洗うということは、子どもの頃から教えられていて、私たちの常識になっています。しかし、ここで、ファリサイ派や律法学者が問題にした「弟子たちが手を洗わないと言って非難した理由」は、そのような衛生的な考えや知識からではありません。
 当時のユダヤ人が、食事前に手を洗わない人を非難する理由は、「宗教的な理由」から来たものでした。それは、異教徒や罪人たちは「汚れている」という差別的な考えが強く、異教徒や罪人が触ったもの・彼らが神に供えたもの・使ったものなどに、どこかで触れているかも知れない、それが手から口に入ると自分たち自身も汚れてしまうと、言い伝えられ、不浄を洗い落とすため、ということが理由でした。このような「言い伝え」が、「しきたり」となり、宗教的な汚れや儀式的な汚れを恐れ、「念入りに手を洗ってからでないと食事をしない。また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、水差し、銅の器や寝台を洗うことなど」(3・4節)と、どんどんとエスカレートしていき、このような「言い伝え」を熱心に守っている人が正しい人・信仰深い人なのだと考えられていました。それだけではなく、手を洗わない人を非難し、彼らを排斥しようとしたのでした。
 これに対して、イエス様は、彼らに言われました。(6・7節)
「イザヤは、あなたがた偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は唇で私を敬うが その心は私から遠く離れている。空しく私を崇め 人間の戒めを教えとして教えている。』
 これは、イザヤ書29章13節から引用された言葉です。
 少し解説しますと、ユダヤ人たちが守っている「昔の人の言い伝え」は旧約聖書に書かれた律法のことではありません。紀元前5世紀の中頃に初期ユダヤ教が誕生し、律法遵守が強調されるようになり、遵守のための細則が作られるようになりましたが、これらの細則の集積が「昔の人の言い伝え」と呼ばれています。神は、預言者イザヤを通してこの細かな規則である「昔の人の言い伝え」を「人間の戒め」として批判しています。それを大事にするばかりに、神の心から遠く離れているからです。
 そして、イエス様はファリサイ派の人々や律法学者たちにこう言いました。(8節)
「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
 ここで、イエス様は「昔の人の言い伝え」を「人間の言い伝え」と呼び、それが神の戒めを捨てさせる原因を作り出していると批判しています。細かな規則に固執するばかりに「神の戒め」に示された神の心を忘れ去っているからです。

 これは、当時のファリサイ派の人々や律法学者たちだけではなく、現代の私たちにも向けての言葉ではないでしょうか? 
「昔の人の言い伝え」は大切ですが、その細かな規則(マニュアル)ばかりに目を奪われ、それを守りさえすればいいと考え、それができた本来の意味を忘れてはならないと思います。守り実行すべきものは「神の戒め」であります。では「神の戒め」とは何でしょうか? 
 イエス様は、その意味することを集約して教えておられます。それは、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」そして「隣人を自分のように愛しなさい。」ということです。つまり、「神を愛し、人を愛する」ということです。

 今日は、その「神の戒め」を実践している一人の人を紹介します。その人は公文和子さんという小児科医です。受付に置きました「クリスチャン新聞福音版」7月号の4ページに公文和子さんの紹介とその思いが記されています。

f:id:markoji:20210829192740j:plain

 小児科医の公文和子さんは2015年、ケニアで障がい児支援施設「シロアムの園」を創設し、一人一人の子どものニーズに応じたリハビリ、食、医療、教育等を提供しています。その出発点は、公文さんが教会学校で聞いた御言葉「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12・13)にあったとのことです。そして、「誰かのために生きる人生を送ってみたい」と願うようになったそうです。その原点に神の愛がありました。私は、公文さんを生かし支えているのは「神を愛し、人を愛する」という「神の戒め」であり、その願いは「神の戒め」を守り実行することだと思います。

 皆さん、私たちも神の心を忘れず「神の戒め」を守り実行したいと願います。公文和子さんのように遠い外国で施設を作り運営することでなくても、目の前のできることで「神を愛し、人を愛する」ことを実践して参りたいと思います。「神の戒め」は私たちを縛るものではなく、私たちを生かし支えるものであることを知り、少しでもそれを守り実行することができるよう祈り求めたいと思います。