マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第11主日(特定14) 聖餐式 「命のパンであるイエス様をいただく」

 本日は聖霊降臨後第11主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました(前橋は「み言葉の礼拝)」。聖書箇所はエフェソの信徒への手紙4:30-5:2とヨハネによる福音書6:37-51。説教では、イエス様は永遠の命のパンであることを知り、これをいただき、神様の愛の内にあって主と共に歩むことができるよう祈り求めました。また、本日の中心聖句に関係する退堂聖歌の歌詞についても言及しました。

    「命のパンであるイエス様をいただく」

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第11主日です。本日の福音書ヨハネによる福音書の6章の中心部で、「命のパン」をめぐってユダヤ人たちとやりとりする箇所です。この「ユダヤ人」は民族名ではなく、イエス様に敵対する者を表しています。
 
 今日の福音書では、主に2つの節について考えたいと思います。47節の「よくよく言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」と51節の「私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である。」です。
  47節に至るまでの箇所では、38節から40節で、イエス様が天からこの世に来た意味を、つまり父なる神の御心を行うため、そしてそれはイエス様を見て信じるもの者が永遠の命を得るためと言っています。そして続く41節から46節では、ユダヤ人たちが「私は天から降ってきたパンである」と言うイエス様の言葉に、つぶやきました。聖書の中では「つぶやく」という語は「自分の予想や期待を裏切られて、不平や不満を口にする」といった意味です。ユダヤ人たちはイエス様の父も母も知っており、どこに住んでいたかも知っていたので、自分たちの思いから抜け出すことができなかったのです。
 イエス様は彼らに反論し、ご自分を知り、理解するには父なる神からの恵みが必要であると語ります。父なる神が「引き寄せて」くれるのでなければ、だれもイエス様の所へ行くことができないのです。
   47節でイエス様はこう言います。「よくよく言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」と。
 この「信じる者は永遠の命を得ている」は現在形です。英語の聖書(NRSV)を見ると、「whoever believes has eternal life.」でした。直訳すれば、「信じる者はだれでも永遠の命を持っている」です。「イエス様を信じる=永遠の命を既に得ている」ということで、これは死後の命について語っているのではなく、今、神様とつながって生きるとき、そこにもう永遠の命が始まっているということを意味しています。この「永遠の命」は身体的な命とは区別される「キリスト・イエスにある新しい命」(ロマ6:4)であり「神の命」のことです。神様の招きに応えてイエス様を信じる者は、すでに永遠の命を得ているのであります。
 さらに、イエス様は48節で「私は命のパンである。」50節で「これを食べる者は死なない。」と言われました。この「死なない」という言葉も、この世の命のレベルで死なない、という意味ではなく、「神様とつながっている命は決して滅びない」ことを表しています。なぜなら神様の中に存在しているからです。

  そして51節です。「私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である。」
  「パン」は人の命を生かすもののシンボルです。「天から降って来た」というのは、人を真に生かすものは神様から来るということを表しています。
「命のパンであるイエス様を食べる」とはどういうことでしょうか? それはイエス様のもとに来て、イエス様を信じることだと言えます(35節)。さらに、今日の箇所の最後に「私が与えるパン」という表現が現れ、それは「私の肉である」と言われています。これは御聖体のことを表していると考えられます。
 「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」は原文では断定の未来形でした。英語(NRSV)では、「Whoever eats of this bread will live forever.」でした。直訳すれば、「このパンを食べる人はだれでも永遠に生きるでしょう」となります。
 イエス様がここで強調されているのは、「だれでも」ということだと思います。イエス様を信じる者、御聖体をいただく者は、だれでも永遠の命を得るのであります。
 イエス様はこうして、信じる者が永遠の命を得ることを示されました。そして、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」のです。物質のパンを食べても一時的にしか生きられません、しかし、霊のパンを食べれば、だれでも神様とつながり永遠に生きることができるのです。

 このことを表しているのが、この礼拝の退堂聖歌の聖歌261です。ご覧ください。
『1 神の み子なる 救いの主 主イエス キリストは 世に降りて
   罪に死にたる 人を生かし 命の糧と なりたまいぬ
 2 み子の与(あと)うる 体と血に あずかりしものは 罪赦され
   永遠(とわ)の命に 結ばれつつ 聖(きよ)き喜び つねにぞあらん』
 神様の御子であるイエス様は、天から世に降って命の糧、生けるパンになられたのです。その御聖体をいただく者は、神の命である永遠の命に結ばれ、限りない喜びを得るのであります。

 では、神様は私たちがどうすることをお望みでしょうか? それは今日の使徒書の中に示されていると考えます。エフェソ書5章1節と2節にこうあります。
「神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい。キリストも私たちを愛して、ご自分を宥めの香りの供え物、また、いけにえとして、私たちのために神に献げてくださったのです。」と。
 永遠の命のパンである主イエス様をお与えくださるほど私たちを愛してくださる神様に倣う者となること。ご自分をいけにえとして神様に献げられたように、私たちも自分を献げ、その愛の内に歩むことを神様はお望みなのだと思います。

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パテンの上のホースト(司祭用のパン)

 皆さん、イエス様を信じ、イエス様をいただく私たちには、永遠の命はもう既に始まっています。
 永遠の命に結ばれ、命の糧、生けるパンであるイエス様をいただけることに心から感謝し、私たちも自らを献げ、神様の愛の内にあって、主と共に歩むことができるよう祈り求めたいと思います。