マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第4主日(特定7) 聖餐式 「イエス様と共に向こう岸に渡る」

 今日は聖霊降臨後第4主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇
所はヨブ記38:1-11、16-18とマルコによる福音書4:35-41。説教では、ガリラヤ湖における奇跡を通して、危機や苦難を乗り越えるには神様へ全幅の信頼を寄せる必要があることを知り、すべてを主に委ねて、日々の信仰生活を送ることができるよう祈り求めました。今日の福音書箇所と関係する、以前日曜学校で読んだ絵本の一場面や八木重吉の詩集「神を呼ぼう」の中の詩についても言及しました。

    「イエス様と共に向こう岸に渡る」

<説教>
  父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は聖霊降臨後第4主日です。
 聖書日課は、福音書はマルコによる福音書4:35-41です。本日の箇所は先主日の箇所の続きで、イエス様がガリラヤ湖で突風を静める奇跡が記されています。先主日は「成長するする種のたとえ」や「からし種のたとえ」のように神の国のたとえが語られました。今日の奇跡も、神の国のことを語っているように思われます。つまり、先主日はたとえを通して、本主日は奇跡を通して「神の国はこのようなものですよ」と神様が私たちに教えておられると思うのです。
 
 今日の箇所はこんな話です。イエス様を乗せた舟が沖に出た頃、突然激しい突風が起こりました。嵐は、いよいよ激しくなり、舟の中にまで浸水し始め、舟は沈没しそうになりました。弟子たちは狼狽して忙しく働いたと思われますが、イエス様は艫の方で枕して寝ていました。その時弟子たちはイエス様を起こそうとして「先生、私たちが溺れ死んでもかまわないのですか」と言いました。狼狽する弟子たちに動じることなく、イエス様は起き上がって、風を叱り湖に「黙れ、静まれ」と言いますと、風は止み、嵐はすっかり凪になりました。
 その後、イエス様は、弟子たちにこう言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか。」と。この言葉はイエス様と弟子たちの違いが何に由来するのかを明らかにしています。弟子たちの狼狽は神様に委ねきれない臆病さから生じ、イエス様の静けさと権威は神様に信頼する信仰に根ざしています。神様への信頼の有無が両者の違いを生み出しています。荒れ狂う波を静めたのは、イエス様自身であるというよりもイエス様の信頼に応えて働く神様です。
 イエス様は神様に信頼する全幅の信仰を持っておられました。そして、弟子たちに「まだ信仰がないのか。」と言っておられます。そして、私たちも、そのように呼びかけられています。「まだ信仰がないのか。」と。
 弟子たちは、イエス様を通して働く神様の力を目の当たりにして「怖れ」を覚えます。この怖れを抱きながら「一体この方はどなたなのだろう」と問い始めます。これはイエス様の本質に関わる重大な問いです。弟子たちはこの時点でイエス様がキリスト(救い主)であることを理解していなかったのです。

 本日の福音書箇所を通して、神様が私たちに伝えようとしているのはどのようなことでしょうか?
 それには、以前日曜学校で読んだ絵本「あらしをしずめたイエスさま」が参考になると考えます。この絵本では、弟子たちの「先生、私たちが溺れ死んでもかまわないのですか」の言葉の後に、子供たちに分かりやすいように、原文にはない「きみたちは どうしてそんなにさわぐのか」という言葉が加えられています。

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    そして、この箇所の絵では、イエス様は弟子たちを見つめ、弟子たちはイエス様を見つめています。それは、先日のブログでも述べましたが「祈り」であるように思いました。「祈り」とは「神様の前に自分を置き、神様に見つめてもらうこと」です。今日の箇所で言えば、弟子たちは舟にイエス様と同乗し、イエス様の前に自分たちを置き、イエス様に見つめられたのです。実は、それが弟子たちの「祈り」だったのだと私は思うのであります。  

 そのことで思い浮かぶ詩があります。それは、八木重吉の詩「キリスト」です。八木重吉結核のため29歳で天に召されたクリスチャン詩人です。この詩は詩集「神を呼ぼう」の中にあります。

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  「キリスト」
『病気して
 いろいろ自分の体が不安でたまらなくなると
 どうしても怖ろしくて寝つかれない
 しかし、しまいに
 キリストが枕元にたって
 じっと私をみていてくださるとおもうたので
 やっと落ちついて眠りについた』
 人生には病気や事故など予期せぬことが起き、不安でたまらなくなることがあります。しかしそのような時、主イエス・キリストが自分の前に立ち、見つめていてくださることにより平静が与えられると、この詩は述べています。

 さらに本日の福音書箇所に即して言えば、私はこう思います。人生という大海原では時として危機や苦難などの嵐が起きます。その折には共にいて見つめて下さる神様に信頼し「主よ助けてください」と切なる叫びをあげればよい。そうすれば神様は応えて、凪を、平静を与えてくださる。そして、そこが神の国なのだ。今日の箇所を通して、神様はこのようなことを私たちに伝ようとしているのではないでしょうか?

 皆さん、危機や苦難が訪れたとき、私たちはつい「どうして私に?」と嘆いたりその原因を追及したりしがちです。しかし、神様はそうすることよりも、主イエス様が自分の前に立ち見つめてくださることをおぼえ、祈り、神様に信頼し、み言葉に聞き従うことをお望みであると考えます。 
 危機や苦難に際して私たちが持つべきものは「神様への信頼」です。信仰とは、神様への信頼であります。
 私たちは湖や海に浮かぶ舟のようであり、私たちの人生には、時には危機や苦難などの嵐が突然起きることがあります。しかし、私たちの舟にはイエス様が一緒に乗って私たちを見つめ、祈りに応えてくださるのです。
 「向こう岸に渡る」、つまり危機や苦難を乗り越えるには、神様へ全幅の信頼を寄せる必要があると、今日のガリラヤ湖での奇跡は教えています。この舟に、イエス様が共に乗っておられることを、しっかりと受け止め、すべてを主に委ねて、心から信頼して日々の信仰生活を送ることができるよう、祈り求めたいと思います。