マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『「祈り」は神様の前に自分を置くこと』

 先日の三位一体主日聖餐式の説教で「十字を切る」意味や方法について言及しました。十字を切る所作は、教派によって違いがあります。私たち聖公会カトリック教会では、開いた右手で額、胸とおろし、次に左肩にもってきますが、ギリシア正教では、親指・人差し指・中指を合わせ、その三本指で、額、胸とおろして、右肩、左肩と描きます。右を先にもってくるのは、キリストが昇天した後「神の右手に坐した」とされるところからだそうです(高橋保行『ギリシア正教講談社学術文庫から)。
  さて、前回のブログで、「十字を切る」ということは動作による一つの祈りの方法である、と記しましたが、祈りについて最近いろいろ思うことがありますので、その一つを今回紹介したいと思います。

 私たちキリスト者の模範は主イエス様です。イエス様は祈る人でありました。
マルコによる福音書1章35節にこうあります。
「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(聖書協会共同訳)
 ここの「祈っておられた」のギリシャ語原文は、「プロセウコマイ」προσεύχομαιの未完了形でした。未完了形は、過去の動作や習慣の継続、または反復を意味します。ですから、ここのニュアンスは「朝早くイエス様は、寂しい所へ出かけていき、そこで祈ることを習慣としていた。」ということになります。しかし、ここでは「何のためにどのように祈ったか」は記されていません。それが長い間疑問でした。そこで、「祈る」と訳された「プロセウコマイ」について調べてみました。この言葉は直訳すれば「プロス(前に)+エウコマイ(置く)」ですが、では「何の前に何を置くか」と言えば、「神様の前に自分自身を」ということではないかと思い当たりました。つまり、「祈る」ということは「神様の前に自分を置く」ことなのだと。イエス様も、宣教に出掛ける前に、「寂しい、静かな所」で父なる「神様の前に御自身を置いて」神様との時間を過ごされていたのです。
 一人になれる場所で、神様と過ごす時をイエス様は自分の生活において優先されていたのです。それによって「癒し」や「御言葉を伝える」ことなど、イエス様に与えられた使命を果たすことができたのだと納得しました。

 最近読んだ山浦玄嗣(はるつぐ)著『「なぜ」と問わない』の中の「Ⅱ災禍とキリスト教」の中にこのような指摘がありました。山浦玄嗣氏は医師で聖書を御自分の故郷の方言で訳した「ケセン語訳聖書」の翻訳者です。

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『新共同訳聖書で4福音書の中で「祈り」という文字を数えたら70個ありました。ギリシャ語原文にあたると、これらは4つの動詞、エルロゲオー(賛美する・祝福する)、エウカリステオー(感謝する)、デオマイ(願い)、プロセウコマイ(祈る)と、それらの派生名詞の訳でした。
「苦しい時の神頼み」という“お願い”にあたるデオマイは4個でした。ということは、キリスト教で「祈る」というのは、日本人が考える神様に自分のお願いを聞いてもらうことだけではない、むしろその方が少ないということです。…圧倒的に多いのは、プロセウコマイ(祈る)の51個です。…
 日本語の「祈り」は自分の都合のいいこと、自分本位の願望を神様にお願いすることです。そうなると「祈る」という訳で最もふさわしいのは「デオマイ」だということになります。「デオマイ」が使われている箇所は、大抵その願いの内容がはっきり書いてあります。しかし、一番多い「プロセウコマイ」は、願いの内容がほとんど書いていないのです。はっと思いついたのは、イエス様はユダヤ教徒だったことです。神様との対話をことのほか重んじるユダヤ教徒が一番大切にしているのは、申命記6章4節にある「聞け(シェマー)、イスラエルよ」という言葉で始まる語りかけです。「シェマー」とは「神様のおっしゃることを聞け」という意味です。神様は我々のご主人であり、我々は神様に何かを要求する立場にありません。我々の方が道具です。だから、この語りかけは「何をしたらいいでしょうか、何をしたら神様はお喜びになりますか」ということを神様に聞きなさいという呼びかけなのです。
 ですから、もっばら「祈る」と訳されてきたプロセウコマイは、「祈る=願う」ではなく、「神様の声に心の耳を澄ます」と訳すべきだというのが私の結論です。』
 
  このことを踏まえて、冒頭記した「マルコによる福音書1:35」を読み直しますと、まだ暗いうちに寂しい所で祈っ(神様の前に自分を置い)ておられたイエス様がしていたのは「神様の声に心の耳を澄ます」ことだったと思い当たりました。最近、前橋聖マッテア教会で始めた「聖書に聴く会」の目的も、このイエス様がなさっていた「神様の声に耳を澄ます」ことに他ありません。
 「祈り」は「神様の前に自分を置く」ことであり、そこで神様の声を聞くことです。「祈り」は自分の願望を神様にお願いすることではなく(最初はそうであったとしても)、神様の声(思い)に聞き従い、自分の思いを神様の思いに替えていただけるよう追い求めることなのだと、つくづく思います。