マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第2主日 聖餐式 「神の家族として御心を行う」

 今日は聖霊降臨後第2主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇
所はコリントの信徒への手紙二4:13-18とマルコによる福音書3:20-35。説教では、イエス様は私たちを神の家族の一員として招いておられることを知り、神の家の中に入り神の家族として御心を行うことができるよう、共に祈りを捧げました。映画「パウロ~愛と赦しの物語~」や「主の祈り」の中の文言についても言及しました。

   「神の家族として御心を行う」

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第2主日です。聖霊降臨後の節は降臨節アドベント)に入るまで約5ヶ月間ありますが、この期節は、聖霊降臨後の今を生きる私たちが、キリスト者の指針である様々なイエス様の教えを学び、深めていく時と言えます。
 
 本日の福音書箇所は、マルコによる福音書の3:20以下から取られています。
 この箇所は3つの部分に分けられます。最初の部分は、20節・21節のイエス様が身内の人に気が変になったと思われた記事、次が、22節から30節までの、律法学者たちとのベルゼブル論争、そして、最後が31節~35節までで、イエス様が語る真の家族についての話、です。今回は3番目の箇所を中心に思い巡らしたいと思います。

 その箇所は31節「イエスの母ときょうだいたちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」と始まります。 
 この箇所で、私は「外に立ち」という言葉に注目しました。イエス様の家族は、イエス様が神の言葉を語っている「家の中」に入って、他の人々と一緒に御言葉を聴こうとはしなかったのです。
 続く32節から35節はこのようです。
 群衆がイエス様の周りに座っていると、ある人が「御覧なさい。お母様と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と告げました。すると、イエス様は「私の母、私のきょうだいとは誰か」とお答えになり、さらに周りに座っている人々をご覧になって、「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われたというのです。
 「私の母、私のきょうだいとは誰か」とは随分冷たい言葉のようです。しかし、イエス様が御自分と一緒にいる人々を示し「神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」というのは、肉親の拒否ではなく、「神の国に入ってほしい」という神の家族への招きの言葉なのだと思います。ちなみに、今回の聖書協会共同訳では男兄弟だけでなく姉妹も含んでいるときに「きょうだい」とひらがな表記にしています。
 「神の御心を行う人」とはどういう人でしょうか? 「御心」はギリシャ語聖書では「セレマ」でした。英語の聖書では「the will」でした。「セレマ」をギリシャ語辞典でひくと「望み・喜び・意志」とありました。であれば「神の御心を行う人」とは、神様の望まれること・喜ばれること・意志を行う人であり、その人こそイエス様の「兄弟、姉妹、また母」、つまり「真の家族」であるというのです。
 では、神様の望まれること・喜ばれること、神様の意志を行う人とは、どのような人でしょうか? それは、イエス様の家族のように「外に立つ」人ではなく、イエス様の周りに集まった群衆のように「家の中」に入って、イエス様の近くに座り、イエス様の言葉、御言葉を聴く人ではないでしょうか?
 それは、別の言葉で言えば、先ほど読んでいただいた本日の使徒書、コリントの信徒への手紙二の4:16にある、「内なる人」のことであると考えます。そしてその人は、「見えるものではなく、見えないものに目を注」ぐのであります。

 「神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」という教えは、イエス様が運ぶ「神の国(支配)」が、血脈を中心とする「外なる人」という人間関係ではなく、神様に呼ばれた「内なる人」としての人間関係であると言えます。そして、「内なる人」とは、イエス様の近くに座り御言葉を聴き、「見えないものに目を注」ぐ人と言えます。具体的な人物例としては、本日の使徒書、「コリントの信徒への手紙二」の著者であるパウロが挙げられると考えます。
 パウロについては、この映画「パウロ~愛と赦しの物語~」に表されています。

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 この映画は、使徒パウロについて、パウロの言葉を書き記し続けた医者ルカの目を通して描いた歴史ドラマです。この映画には、復活したイエス様がキリスト教徒を迫害するパウロに「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と呼びかけ、パウロを盲目にし、その三日後に目からうろこのようなものが落ち、元通り見えるようになったシーンもありました。パウロは復活したイエス様によって人生が180度転換し、イエス様を証し、宣教する者として大きな働きをして、最後は殉教しました。そうできたのは「内なる人」として、復活のイエス様の近くに座り御言葉を聴き、「見えないものに目を注」いだからと言えます。私たちもこのパウロのように、人生のあるときにイエス様が近づいてくださり交わり、恵みを与えられ、イエス様とつながりを持たせていただいた者です。神様が私たちに望まれておられるのは、イエス様の近くに座り御言葉を聴き、「見えないものに目を注」ぐことです。  

 皆さん、イエス様は神の御心を行う者をご自分の家族としてくださいます。私たちは神の家族の外にいてはいけないのです。私たちは「外なる人」でなく、イエス様の近くに座り御言葉を聴き、「見えないものに目を注」ぐ「内なる人」であるよう招かれています。それは、神様の前に自分を置き「神様の声に心の耳を澄ます」行為でもあります。それこそ「祈り」であります。そのことについては、先日のブログで書きましたので、よろしければそちらをご覧ください。
 さらに言えば、私たちは「日々の祈り」の中で、神の御心を祈っています。それは「主の祈り」です。「み国が来ますように。」の後に、「みこころが天に行われるとおり 地にも行われますように。」と祈っています。つまり「神の国(天の国)で行われている神様の意志がこの地上でもなされますように」と祈っているのであります。
 私たちは、私たちを真の神の家族の絆に結びつけてくださる主を信じ、主の御心を行うことができるよう、そして、主の栄光を表す神の家としての教会をここに築けるよう、共に祈って参りたいと思います。