マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

三位一体主日・聖霊降臨後第1主日 聖餐式 「三位一体の神を信じ共に歩む」

 今日は三位一体主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所はローマの信徒への手紙8:12-17とヨハネによる福音書3:1-16。説教では、神の愛は未だ信徒でない者にまで及んでいることを知り、父と子と聖霊である三位一体の神を生涯信じ、日々、主と共に歩むことができるよう祈りを捧げました。「三位一体のイコン」や「十字を切る」意味についても言及しました。

   「三位一体の神を信じ共に歩む」

<説教>
  父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 今日は三位一体主日、そして聖霊降臨後第一主日です。三位一体主日は教会の5大祝日の一つです。先主日聖霊降臨日で3大祝日の一つ(他の二つは復活日と降誕日)でしたが、5大祝日になるとそれに昇天日と三位一体主日が加わります。今日はそれ程、重要な主日なのです。今日の三位一体主日のテーマは、神様はどのようなお方かということです。何とかその神秘を表現したいという初代教会のキリスト者たちの中で、この三位一体の教理が生み出されました。三位一体の定義は、「神は、父と子と聖霊であることにおいては三つのペルソナ(位格)をもつが、神であること(本質)においては一つ〈ホモウシオス(同質)〉である」ということで、簡単に言えば「父と子と聖霊の神が一体である」ということです。
 
 本日の福音書箇所はヨハネによる福音書3:1-16、イエス様とニコデモとの対話です。この箇所が本日選ばれたのは、ここに父と子と聖霊の神が語られているからだと言えます。独り子であるイエス様、人を新たに生まれさせ神の国を見させる霊、御子を与えるほど世を愛する神様、が語られています。
 細かい内容についてはZoomで行っている「聖書に聴く会」に譲ることとして、本日は、今日の聖書箇所の最後の御言葉にスポットを当てたいと思います。3章16節です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 大変有名な言葉です。キリスト教の真髄、キリスト教そのものの本質がここに示されています。この言葉は、「聖書の中の聖書」と言われ、聖書全体を一文で要約するとこの文になるという意味で「ミニバイブル」と呼ぶ人たちもいます。マルチン・ルターは「これは聖書の縮図、また、小さな福音書である。」と言ったそうです。
 神様はこの世を愛し、人々を救うために独り子イエス様をこの世に派遣されました。それは御子を信じる者が永遠の命を得るためです。神の御子イエス様を信じるとは、言い換えれば、イエス様によって示された神の愛を信じることです。神の愛を信じて生きる者は「永遠の命」に生きています。永遠の命とは、死ぬことなく地上で永久に生きることではありません。「信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47)というように、キリストを信じるとき、この世で享受することのできる命です。それは「神の国」と言い換えてもいいものです。そして、霊によって私たちは新たに生まれ、神の国に入ることができるのです。ですから、「永遠の命に生きる」とは、神様が共にいる国で生きるということであり、「永遠の命を得る」とは、神様から愛され、神の子としての命が与えられるということなのです。

 さて、この「聖書の中の聖書」「ミニバイブル」と言われるキリスト教の真髄を、今日の福音書箇所では誰に示されたでしょうか? 
 ニコデモです。彼は12使徒でもイエス様の弟子でも、キリスト者でもありませんでした。ファリサイ派で、ユダヤ人の指導者でした。その人に神様の愛、御自分の独り子をこの世に派遣するほど世を愛する神様の思いを示されたのです。それは、すべての人を救いたいという父なる神の溢れる愛によるものであり、すべての人が神様に招かれているということです。

 今日は一つイコンを持ってきました。

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 「三位一体のイコン」と言われる14世紀ロシアの修道士アンドレイ・ルブリョフによって描かれたものです。修道士ルブリョフは三位一体の神の食卓、神秘を描きました。不思議な絵です。食卓の四隅のうち、三つの隅は、それぞれ父なる神、子なる神、聖霊なる神によって占められています。しかし、残る一つが空席になっています。それはなぜでしょうか?
 それは三位一体の神の交わりのうちの、その食卓に誰かを招くためではないでしょうか? その誰かとは? 
 それは私たちであり、また、ニコデモで代表される未だキリスト者でない人たちも含むすべての人ではないでしょうか? 
 神様はその人たちを三位一体の神の食卓に招いておられるのです。三位一体の神の食卓とは、具体的には、今行っている聖餐式と言えるかもしれません。私たちは毎主日、その三位一体の神の食卓、三位一体の神秘に預かっているのです。感謝なことであります。

 「三位一体の神秘」ということでは、私たちがしている、ある所作でも表されています。それが「十字を切る」ということです。私たちは祈るとき、「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」と言いながら十字を切ります。右手を出し、「父と」で額を、「子と」で胸を、「聖霊の」で左肩を、「み名によって」で右肩に触れ、「アーメン」で胸の前で手を合わせます。それは三位一体の神の中に自分がいることを確認しているのです。さらに言えば、額は私たちの知性と考えの場、胸は心と情緒の場、そして両肩は日々の十字架を担い行動する場です。私たちの思いと言葉と行いのすべてが、主キリストの死と復活にあずかるものとなるように祈る、一つの象徴の動作です。「十字を切る」ということは、言葉だけでなく動作による一つの祈りの方法なのです。榛名の教会にいるとき、病床訪問で施設のお部屋を御聖体を持って訪ねましたが、体力が弱り言葉もはっきりしゃべることのできないご高齢の方も、十字を切って聖体拝領をされていました。それは、父と子と聖霊なる神がなさる業であり、まさに「三位一体の神秘」であると考えます。

 皆さん、今日は三位一体主日、そして聖霊降臨後第一主日です。聖霊降臨の1週間後に、父と子と聖霊なる三位一体の神を信じる信仰を「確認」する日です。 父なる神様は、すべての人を永遠の命に招くため御自分の独り子であるイエス様をこの世に派遣されました。そのように大きく広い神様の愛は、ニコデモのように未だ信徒でない者にまで及んでいるのです。神の愛を信じて生きる者は「永遠の命」に生きています。私たちも「永遠の命」を得て、この世で既に「神の国」を生きています。この恵みを忘れず、父と子と聖霊である三位一体の神を生涯信じ、日々、主と共に歩むことができるよう祈りを捧げたいと思います。