マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第8主日 聖餐式 『神のために豊かにされる』

 本日は聖霊降臨後第8主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、コヘレトの言葉1:12-14、2:18-23とルカによる福音書12:13-21。「愚かな金持ちのたとえ」の概略を知り、自分の富だけを求めることなく、それを他者と分かち合うことによって生きることの質が高まり、神のために豊かにされるよう祈り求めました。日野原重明医師の「生きることの質」から文章を引用しました。

   神のために豊かにされる

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第8主日、聖書日課は特定13です。福音書ルカによる福音書12:13-21の「愚かな金持ちのたとえ」です。「貪欲」(15節)と「神のために豊かになる」(21節)とに囲まれたこのたとえは、旧約聖書日課のコヘレトというイスラエルの王の言葉に対応しています。
 福音書を中心に考えます。この箇所は2つの部分からなっています。①命と財産(13-15節)、②命を支えるもの(16-21節)です。
 今日の箇所を振り返ります。

 群衆の一人がイエス様のところに来て、「先生、私に遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」と言いました。相続のこと、お金のことで頭がいっぱいになっている人がイエス様にそう言いました。イエス様はその人に言われました。
「誰が私を、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と。
 イエス様はこう言いたかったのではないでしょうか?
「私は裁判や調停のためにこの世に派遣されたのではなく、すべての人に神の国の福音を伝えるため、永遠の命をもたらすために神から派遣されたのだ」と。
 さらに、こう言われました。
「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」
「貪欲」とは、欲望をどこまでも追求し、満足することを知らない人の心です。そのことに気をつけ用心せよ、とイエス様はおっしゃいました。また、ここで言う「命」は単に生物学的な意味での命ではなく、クオリティ(質)としての命であり、霊的な命、つまり、「永遠の命」のことです。
 イエス様は「有り余るほど物を持ってい」るということが、「永遠の命」を保証することにはならない、と言うのであります。

 次に、イエス様は一つのたとえを語られました。このような内容です。
「あるところに金持ちがいました。その年、天候もよくその金持ちの畑は豊作でした。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしました。やがて言いました。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建てよう。そして、そこに穀物や収穫物や財産をみんなしまい込んで、「さあ、これから先、何年もの蓄えができたぞ。安心して、食べたり飲んだりして楽しめ』」と。
 この金持ちが言う言葉をギリシャ語から直訳しますと、私の作物、私の倉、私の穀物、私の財産というふうに、皆「私の」という一人称の所有代名詞が何度も出てきます。この金持ちの関心は自分のことだけと言えます。彼は自分のための蓄えができれば安心して楽しめると考えているのです。
 しかし、神様は、『愚かな者よ、今夜、お前の魂(つまり「命」)は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか』と言われました。
 この「愚かな者」は、ギリシャ語で「アフローン」という言葉で、「神を忘れた者」「神を知らない者」を意味します。「この世の秩序は、神様によって成り立っていることを知らない者」という意味です。
 このようなたとえ話をした後で、イエス様は、言われました。「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」 

 このたとえ話は「自分のために自分の財産の蓄えをしても、それは死んでしまったら自分の物にはならない」という話です。だから、一生懸命自分のために蓄えることは意味がない、「空しい」とも取れます。
 そういう意味では、本日の旧約聖書日課のコヘレトの言葉と響き合うものを感じます。今日の箇所には、知恵の探求や労苦の空しさが記されていました。特に21節の「知恵と知識と才を尽くして労苦した人が、労苦しなかった人にその受ける分を譲らなければならない。これもまた空であり、大いにつらいことである。」
これは「先生、私に遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」と始まる今日の福音書の解答の一つになっているとも考えます。
 それは、イエス様の言う「人の命は財産ではどうにもならない」ということであります。言い換えれば、財産をいくら自分の中に貯め込んでも、命の質(クオリティ・オブ・ライフ)を高めることにはならない、ということです。
 では、神様が私たちに求めておられるのはどういうことでしょうか?

 命の質(クオリティ・オブ・ライフ)という言葉で思い浮かべる本があります。それは2017年に105歳で逝去された医師、日野原重明先生の「生きることの質」という本です。

 この本の中にこういう文章があります。
『エーリッヒ・フロムという精神分析学者は次のようなことを言っています。「たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのである。何かを失うのではないかと心配して思い煩っている貯蓄型の人は、心理学的にいえば、どんなにたくさんのものを持っていようと貧乏人、貧しくされた人なのである」と。たくさん与える人が豊かなのであって、何かを失うのではないかと心配し思い煩っている人は貧乏人だというわけです。ですから与える人にならなければなりません。』(P.83-84)
 イエス様は「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない」とおっしゃいました。これは、言い換えれば、私たちが自らの富を他者と分かち合うことによって、私たちの生きることの質(クオリティ・オブ・ライフ)が高まり、神様のために豊かにされる、ということだと思います。
  
 私たちは自分のためだけに財産を蓄えても、「永遠の命」を得ることにはなリません。神様が私たちに求めておられることは、自分の富を神様のために他者と分かち合うことだと言えます。そうすれば本当に豊かになって、「永遠の命」を得ることができると言っているように思います。
 私たちの「思い」や「言葉」や「お金」や「時間」を、他者の中におられる神様のために使うこと、それが「神様のために豊かにされる」ということだと考えます。そしてそれが、永遠の命を得るということなのだと思います。
 私たちが、「愚かな者よ」と呼ばれることのないように、自分の富だけを求めることなく、それを他者と分かち合うことによって生きることの質が高まり、神のために豊かにされるよう祈り求めたいと思います。