マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『詩「あしあと」に思う』

 先主日の説教の最後に詩「あしあと」を読みましたが、時間の関係もあり、この詩について触れることができませんでした。そこで、今回のブログはこの詩の背景やこの詩から思い巡らしたことを記したいと思います。
 この詩のカード(絵葉書大)を作り受付に30枚ほど置きましたが、「友達にもあげたい」とお持ちくださる方もおられてほとんどなくなってしまいました。先主日の礼拝後、午後2時から新町の教会の信徒の埋葬式があり、その中でもこの詩及びこの詩のカードを使い「故人の信じたイエス様はどのようなお方か」について短くお話ししました。未信徒の方もおられましたが、この詩によって理解しやすかったようです。
 「あしあと」の詩の背景等については、この本に詳しく書かれています。

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 マーガレット・F・パワーズ(松代恵美 訳)、『あしあと<Footprints>-多くの人々を感動させた詩の背後にある物語-』、(財)太平洋放送協会<PBA>1996年です。
 この詩は、かつて、作者不詳とされて、英語、日本語ともにいろいろなバージョンが出ていたそうですが、現在は、作者はマーガレット・F・パワーズという人で、この本によりこの詩が作られた背景が知られ、原作、日本語翻訳ともに著作権が認められているようです。
 
 この本にまず、原詩がありました。

   FOOTPRINTS
 
One night I dreamed a dream.
 I was walking along the beach with my Lord.
 Across the dark sky flashed scenes from my life.
 For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
 one belonging to me
 and one to my Lord.

When the last scene of my life shot before me
 I looked back at the footprints in the sand.
 There was only one set of footprints.
 I realized that this was at the lowest and saddest times in my life.

This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
 "Lord, you told me when I decided to follow You,
 You would walk and talk with me all the way.
 But I'm aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints.
 I just don't understand why, when I needed You most,
 You leave me."

He whispered, "My precious child,
 I love you and will never leave you
 never, ever, during your trials and testings.
 When you saw only one set of footprints
 it was then that I carried you."
 
copyright(C)1964 by Margaret Fishback Powers
 
 訳詞はこうです。
 
   あしあと

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
  あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
  わたしと語り合ってくださると約束されました。
  それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
  ひとりのあしあとしかなかったのです。
  いちばんあなたを必要としたときに、
  あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
  わたしにはわかりません。」
 
主は、ささやかれた。
 「わたしの大切な子よ。
  わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
  ましてや、苦しみや試みの時に。
  あしあとがひとつだったとき、
  わたしはあなたを背負って歩いていた。」
  
マーガレット・F・パワーズ
translation copyright(C)1996 by Pacific Broadcasting Association 

 この本の中に、この詩の生まれた背景が紹介されていました。短くまとめるとこのようです。

『 カナダ人のポール・パワーズは、7歳のとき母親を亡くすと、父親から「男は泣くもんじゃない」と殴る蹴るの虐待を受け、入院した。「二度と泣かない」と誓ったポールは、母だけでなく、幼年時代も失ってしまう。彼は8歳で警察沙汰を起こすようになり、近所の子供たちと万引きし、集団強盗となり、ついには殺人事件にまで関わってしまう。真の神を知らない彼は、人間らしさを失っていた。それから少年院、刑務所を転々とするが、十代の後半で釈放に向けて働くプログラムに従事したとき、老年のクリスチャン夫妻のところに下宿する。この期間にポールは、「青年をキリストへ」の集会に参加し、憎しみに支配されていた自分がイエス様によって赦されるという経験をした。そのことを通して、赦す心も与えられ、父なる神様から愛されていることを知る。彼の人生は修復されたのだ。
 一方、1963年5月、小学校教師だったマーガレットは、落雷事故に遭い、体調不良が増して、仕事を辞めざるを得なくなった。翌年の1964年、マーガレットはポールと出会い、結婚を決めた時に、二人で海辺を歩いているとあることに気づく。砂の上の自分たちの足跡が、帰り道には波に洗い流され、一人の足跡しか残っていなかったのだ。それを見たポールが言った。「二人の上に最も困難な時がやってきたら、その時こそ、イエス様が僕たち二人を背負い、抱いてくださる時なんだよ。僕たちが、主に対する信仰と信頼を持ち続ける限りはね」と。ポールはマーガレットを抱きかかえ、くるくると回った。このとき、マーガレットはある詩を書きあげる。それが、「あしあと」(英語の原題「Footprints」)であった。
 翌年の1965年、結婚してからもマーガレットは詩を書き続けるが、1980年、バンクーバーに引越す際、運送屋が依頼した荷物をなくしたまま倒産してしまう。その荷物の中に、マーガレットが書きためた詩が全部入っていた。以降、二人の知らないところで、詩「あしあと」が、作者不詳とされながら、多くの人々に流布し、感動を与え続ける。自称作者までが現れるが、ある時、偶然に二人はこの詩と出会う。1989年、二人は娘のポーラと教会学校の子供たちとピクニックに出かけるが、娘のポーラが誤って高さ20mの滝を落ちてしまう。そのとき、父・ポールも持病の心臓発作を起こす。二人とも一命は取り留めるが、入院中のポールに、一人の看護師が来て祈ったあと、こう話しかけた。「このカードに書かれた詩をお読みすれば、励ましになるかと思うのですが……」と。そしてカードを取り出して読み出したのが「あしあと」だった。看護師は、読み終えると「私はこの詩の作者を知りません。作者不明なのです」と。ポールは弱々しく手を上げて言った。「私は知っています。作者をとてもよく知っています。……私の妻です」と。  
 それからのマーガレットは、自分が原作者であることを主張するが、証拠物件がなくて信用してもらえず、いら立っていた。しかし、彼女がその苦々しい思いを捨て去り、「すべてを主なる神さまにゆだねよう」と決心すると、心と生活に平安が帰ってきた。すると間もなく、結婚アルバムにその詩のオリジナルをはさんでいたのを思い出した。そして、彼女こそが「あしあと」の真の作者であると認められることになった。人生の最も弱い時に、イエス様は私たちを抱きかかえて歩いてくださる。そして、人々に愛と希望とを分け与えられるように、人生を修復してくださるのだ。・・・』
 この「あしあと」の詩には、このようなドラマが隠されていたのです。

 ところで、私のこの本を開くとこのような聖句とサインがありました。

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 これは、2003年10月18日に群馬県公社総合ビルのホールで行われた「ライフラインの集い」で聖書のお話をされた榊原寛牧師が、集い後に展示・即売で購入した本に書いて下さったものです。榊原牧師は昨年末、クリスマスイブに天に召されたそうです。79歳でした。キリスト教テレビ番組「ライフライン」で分かりやすくにこやかな語り口が印象的でした。
 榊原牧師はこの日の「ライフラインの集い」のメッセージの中で、10代後半に約5年間引きこもりの生活をする中で教会が家の隣に引っ越してきてキリストに出会ったことや、6歳の息子を交通事故で亡くしたことなどを話され、様々な苦難の中でキリストが共にいて歩んで下さったと、この「あしあと」の詩を紹介されました。そして、「希望は失望に終わることはない」というロマ書5章5節の聖句を、この本に書いて下さったのです。
 
 多くの方がこの詩から慰めと希望をもいらいました。私もこの詩から神様・イエス様の深い献身的な愛情に気づかされ、生きる希望を得ました。
 この詩の源泉には、イザヤ書 46章 4節があるように思いました。聖書協会共同訳聖書ではこうです。
『あなたがたが年老いるまで、私は神。あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。私が造った。私が担おう。私が背負って、救い出そう。』
 私たちは神様の作品で、生涯、神様は私を背負って苦難から救い出してくださるのです。その神様に感謝し、生涯、その御跡に従いたいと願うものであります。