マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第6主日聖餐式  「イエス様が示した愛の本質」

 本日は復活節第6主日。午前は、新町の教会で聖餐式を献げました(前橋は「み言葉の礼拝」)。聖書箇所はヨハネの手紙一4:7-21とヨハネによる福音書15:9-17。説教では、最後の晩餐の席上で弟子たちに行った告別説教の中から、イエス様が示した「愛の本質」について思い巡らしました。母の日でもあり、母の愛は神の愛に近いと考えられることから思い浮かぶ映画「汚れなき悪戯」にも言及しました。
 午後は、前橋の教会墓地(嶺公園)で「逝去者記念の式」を行い、その後、各信徒のお墓を回り、祈りを捧げました。

   「イエス様が示した愛の本質」

 <説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は復活節第6主日です。復活節も終わりに近づきました。今週の木曜、13日は昇天日、復活日(イースター)から40日後にあたります。そして、当教会で次の礼拝のある、2週間後、5月23日はいよいよ聖霊降臨日です。

 本日の福音書箇所はヨハネによる福音書15章9節から17節です。
 イエス様が十字架にかけられ、弟子たちは怖くなってイエス様を見捨ててしまう、そのほんの数時間前に話されたイエス様のお言葉です。このお言葉はイエス様が最後の晩餐の席上で弟子たちに行った長い告別説教の一部であります。
 この箇所には3つの内容があると考えられます。「愛の本質」についてと「友」について、そして「神の選び」についてです。今回はイエス様が示した「愛の本質」について、思い巡らしたいと思います。

 11節・12節に「これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。」とあります。
「私があなたがたを愛したように」とイエス様は、まず御自分が先に弟子たちを愛してきたことをお示しになり、そのように「互いに愛し合いなさい」と命じておられます。
 この「愛する」の原語(ギリシャ語)は「アガパオー」です。神の愛を表す「アガペー」の動詞形です。原文は命令形ではなく、直訳は「[あなたたちは]愛するようになる」であり、現在形で表されていますから継続を意味しています。つまり私があなた方をまず愛したから、あなたがたは「続けて愛し合うことになる」というニュアンスです。そのように生き続けていく中で、イエス様の喜びが私の喜びとなっていくということと考えられます。
  大阪の釜が崎で日雇い労働をしながら聖書の翻訳について新たな提案をしている本田哲郎神父の訳では12節はこうなっています。
 「わたしがあなたたちを大切にしたようにあなたたちが互いに大切にしあうこと、これこそ、わたしの掟である」と。
 本田神父はこれまで「愛する」と訳されていた部分を「大切にする」と訳し変えているのです。
 これは、日本の戦国時代のキリシタンたちが「神の愛」を「デウスの御大切」と訳していたのと似ています。当時は、仏教では、「愛」=「愛欲」であり、浄化すべきものと捉えられていたので、キリスト教の教義の中心となる「神の愛」という概念を正しく伝えるために、「愛」でなく「御大切」という言葉を使ったようです。
 キリスト教における「愛」とは、その人のことが好きということとイコールではありません。それは相手のことを思いやり、共感し、受け入れ、理解し、ゆるそうと努力することです。たとえ、その人が憎らしくても、その人のことを大切にしていこうとするのが、キリスト教における「愛する」ということであります。
「この私を愛してくださった」というイエス様の愛を深く受け取ったからこそ、弟子たちは愛することができるし、愛さずにはいられなくなります。これは義務や命令ではなく、「恵み」なのであります。
 
 ところで、今日はちょうど母の日ですが、母の愛は神の愛に近いと考えられます。母の愛、神の愛で思い浮かべる映画があります。それは「汚れなき悪戯」という映画です。

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 1955年製作で日本では1957年に公開されたスペイン映画です。こんなあらすじです。
『戦争で廃墟になった貴族の邸宅を修道院として建て直した 12人の修道士がいました。ある日、修道院の前に赤ん坊が捨てられました。実の親も里親も見つからず、修道院で育てることになり、見つけられた日が聖マルセリーノの祝日だったのでマルセリーノと名付けられました。5年後、腕白少年に成長した彼の悪戯は日増しにひどくなります。その上、実際は存在しない友だちといつも遊んでいます。やがてマルセリーノは立入を禁止されていた屋根裏部屋でイエス様に出会い、パンとぶどう酒をその所へ持っていくことになります。十字架にかかったイエス様があまりに痛々しそうで、お腹を空かしているように感じたのでパンとぶどう酒を持っていって、イエス様にあげました。するとイエス様が十字架から降りてきて、マルセリーノの持ってきたパンを手に取りぶどう酒を飲みました。ある時、お互いの身の上話をして、マルセリーノは「僕にはお母さんはいなくて・・・」と言いました。「お母さんってどんなの?」と聞いたらイエス様が「お母さんとは与え続ける人だ」と答えました。「子どものために生命と目の輝きを与える、自分の持っているものを全て与える人だ。」とおっしゃいました。何度かそのようなことがあって、イエス様がマルセリーノに「おまえは本当に良い子だ」と言いました。「願いは何かあるか。適えてあげよう」とイエス様が言い、「あのブラザーみたいになりたいか」とか「あの神父みたいになりたいか」とか聞いたら、マルセリーノは「お母さんに会いたい。そしてあなたのお母さんにも」と言いました。「今、すぐにか?」というイエス様の問いに、マルセリーノはうなずきました。そこでイエス様は、そのまま彼を天国へ連れていったのでした。』

 このようなお話です。涙なくしては見ることのできないラストシーンですが、この映画からお話ししたいのは、「自分の持っているものを全て与えられる人こそ、本当の喜びに生きることのできる人ではないか」ということです。私たちは今、関わっている家族や友だちなどを大切にし、それらの人に自分のものを与え続けることができるかを問われていると思います。それは母が子を愛するようにです。
 その基になるのは今日の使徒書、ヨハネの手紙一4:19にもありますように、神様であるイエス様がまず私たちを愛し、私たちを大切にしてくださったということがあります。「大切」という字は「大きく切る」と書きます、イエス様は私たちの罪をあがなうために御自分を大きく切ってお献げになった、それほど私たちを心にかけ愛されたのであります。

 マルセリーノが、亡くなったお母さんに会いたいと強く願ったように、私たちも、自分の命を投げ出してまで私たちを救ってくださったイエス様に会いたいと強く願うとき、イエス様が愛したように互いに愛し合う者へと、次第に変えられていくのかもしれません。
 私たちは今、関わっている家族や友だちなど、すべての人を大切に、できる限り自分の全てを捧げて、愛を生きることができるように、そして喜びを分かち合っていけるように、そのようにイエス様の心を生きることができるように、祈り求めて参りたいと思います。