本日は復活節第5主日。前橋の教会で聖餐式を献げました。聖書箇所はヨハネの手紙一3:18-24とヨハネによる福音書14:15-21。説教では、イエス様の告別説教の中の箇所から、「弁護者(パラクレートス)」という言葉にスポットを当てて考えて思い巡らし、聖霊に支えられイエス様と共に生きる恵みが与えられていることについて語りました。私の県教育委員会時代の経験や詩「あしあと」にも言及しました。
「人生を支える真の恵み」
<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は復活節第5主日です。復活節も後半に入りました。今行われている北関東教区内の教会の礼拝では、本日の信施を当教会の会館・牧師館建築のためにお献げくださいます。感謝であります。
復活節の後半の福音書は、イエス様の告別説教の中から朗読され、聖霊降臨に向けての心構えを整えるようにと、私たちに呼びかけています。
本日の福音書の箇所は、ヨハネ福音書の14章15節から21節です。聖書協会共同訳聖書の小見出しは「聖霊を与える約束」となっています。
この箇所は、イエス様が十字架にかかる前日の夜、最後の晩餐の席でのことです。16節・17節にこうあります。
「私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」
これは聖霊の働きです。復活の恵みの大事なことは、私たち一人一人に聖霊が与えられているということです。この聖霊の恵みを私たちはいただいているということ、それを心に刻みたいと思います。
この箇所で、聖霊は「もうひとりの弁護者」と呼ばれています。第一の弁護者はイエス様と考えられます。「弁護者」はギリシア語で「パラクレートス」です。「そばに(パラ)」「呼ばれた者」(呼ぶ=カレオー)から派生した言葉です。パラリンピックのパラ(そばに、平行の)は、このパラに由来します。かつての口語訳では「助け主」と訳されていました。英語の聖書を見ますと、このパラクレートスという言葉は、「Councelor」(NIV)や「Helper」(TEV)とも訳されていました。この言葉は、裁判の席では「そばにいて助けてくれる人」という意味で「弁護者」の意味になります。もっと一般的には、「一緒にいて支えとなってくれる方」と言ってよいかもしれません。イエス様は、あなたがたのために、自分の他に、弁護者であり、助け主であり、カウンセラーであり、ヘルパーである方を送ってくださるように、「私は父にお願いしよう。」と言われたのであります。
今日の箇所の中心となる聖句は18節の「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」であると考えられます。イエス様が父のもとへ去った後、「もうひとりの弁護者」である聖霊が遣わされますが、それだけでなく、第一の弁護者である「イエス様御自身」も「あなたがたのところに戻って」来て、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」のです。そこで、「私はあなたがたをみなしごにはしておかない」と言われています。
先日20日のマーガレット幼稚園の誕生会で読んだ絵本「イースター~あたらしいいのち~」では「みなしご」等をこう表現していました。
「さあ、いまこそ私は天国へ帰ります。しかし、あなたがたを残してひとりぼっちにはしません。一人一人に聖霊を送りましょう。私の愛を信じたのですから。私は永遠にあなたを守ります」
このように、父なる神様、子なるイエス様の愛は大きく、私たちを「みなしご」、すなわち「ひとりぼっち」にせず、「もうひとりの弁護者」である聖霊を私たち一人一人に送り、私たちを永遠に守って下さるのです。
この聖霊、弁護者(パラクレートス)という言葉、そのもともとの意味は「そばに呼ばれた者」ということで思い浮かべることがあります。
私は県の教育委員会に11年勤めました。指導主事として8年、特別支援教育室長として3年です。私の指導主事としての大きな仕事で「就学指導」がありました。それは障害のある子供の適切な就学先を決めるという仕事で、市町村から挙がってきたデータを基に最終決定をするというものでした。このことで県会議員から依頼を受けることもありました。保護者から要望があったので「本来の就学区域の学校でなく別の学校に就学させてほしい」という要請もありました。
ある時、ある県会議員から電話があり、「市の就学指導で知的障害養護学校適とされたが、保護者が希望している肢体不自由養護学校に就学指定をしてほしい」との要請がありました。「どうしたものか」と思いあぐねました。
私はこの頃、マッテア教会で聖体訪問をよくしていたのですが、その時もマッテアを訪ね祈っていました。その時「その子が呼んでいる」「そばに行こう」という発想が浮かびました。そこで、私はその子のいる療育施設を訪ね、半日くらいその子を観察し共に活動し、確かおやつか給食のようなものも一緒に食べたような気がします。その結果、この子には知的障害の養護学校の方が合っていると判断し、その県会議員に連絡しました。議員さんは保護者から話は受けたようですが、その子には会っていなかったのです。そばに行っていなかったのです。療育施設の施設長も保護者に「県から専門の先生が来て知的の方が合っている」と話して下さり、保護者も納得したようです。
その判断が本当に正しかったかは分かりませんが、知能指数や発達検査等の数字だけで判断するのでなく、実際にその子のそばに行き、観察し共に生活して、できれば同じものを食べて、思い巡らすことが大切なのだと思いました。そして、私には、聖霊が私にその子の「そばに行くように」導いておられたように思ったのでした。
皆さん、主イエス様は最後の晩餐の席で弟子たちに、「あなたがたをみなしごにはしておかない。」と約束してくださいました。イエス様は「もうひとりの弁護者」である聖霊を「私たちに遣わす」よう神様に依頼すると共に、第一の弁護者である御自身も私たちのそばに来て、共にいて下さるのであります。どのような時も聖霊に支えられ、イエス様と共に生きる恵みが、私たちに与えられているのです。それこそ人生を支える真の恵みです。この恵みを知り、イエス様のみ跡に従って、日々歩んでいけるよう、聖霊の導きを祈りたいと思います。
最後に、受付に置いたカードにある「あしあと」という詩を読んで、私の説教を終わりにします。
あしあと
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう1つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには1つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく,悲しいときだった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて 主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」