マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活前主日 聖餐式『十字架のイエス様と向き合う』

 本日は復活前主日です。午前は前橋、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、イザヤ書50:4-9a、詩編31:9-16、フィリピの信徒への手紙2:5-11、マルコによる福音書15:1-39。説教では、十字架のイエス様と向き合い、神の意志を受け入れ百人隊長のような信仰を持つことができるよう、神の導きを祈り求めました。
 本日のテーマと関係して、祭壇のイエス様の磔刑像の前に身を置き向かい合うよう勧めました。
 前橋での説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は復活前主日です。復活日(イースター)の一週間前の日曜です。今日から一週間が聖週(Holy week)です。先ほど礼拝の冒頭に、聖堂内の聖画により「十字架の道行きの祈り」を捧げることができ、感謝いたします。
 本日はしゅろの主日Palm Sunday)とも言われます。祭壇にもしゅろが飾られていますね。イエス様がエルサレム入場の時に群衆がしゅろを持ちその枝を道に敷いて歓迎した日です。この後退堂聖歌で歌う第137番「ユダのわらべの」はこの日のことを歌っています。
 なお、受付にある、昨日有志により制作され、今朝、祝別された「しゅろの十字架」をお持ち帰りになり、来年の「大斎始日(灰の水曜日)」まで、思い思いの場所に保管してください。

 さて、本日の福音書箇所はマルコによる福音書15:1-39です。聖金曜日(受苦日)の夜明けの裁判から午後3時にイエス様が息を引き取られるまでを描いた箇所です。
 ここのあらすじは以下のようです。
『夜が明けると、祭司長たちはイエス様をピラトに渡しました。ピラトは祭りのたびに囚人を一人釈放していた慣習に従い、イエス様を釈放しようとします。しかし、祭司長たちに扇動された群衆たちの声に負けて、ピラトはイエス様を十字架につけるために引き渡しました。兵士のあざけりを受けた後、イエス様はゴルゴタの丘に引かれて行き、十字架につけられました。通り掛かった人々も、一緒に十字架につけられた強盗もイエス様を侮辱しました。イエス様が十字架の上で息を引き取ると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、百人隊長は「まことに、この人は神の子だった」と言うのでした。』

 本日はこの箇所の後半、15:25-39を中心にお話しします。
 25節にあるように、イエス様が十字架につけられたのは午前9時。罪状書きには、「ユダヤ人の王」とあり、ただの犯罪人の一人としてイエス様はあげられました。人々は頭を振りながら、イエス様を罵って言いました。29節・30節です。
『そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って言った。「おやおや、神殿を壊し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」』
 誰も十字架を意識していません。十字架にかからない賢い生き方、それこそが、救いだと思っているのでしょう。律法学者や祭司長たちはこう言いました。
「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。」
 彼らは上手に困難をくぐり抜け、結局は自分が良いところに置かれるために、信仰を生きようとしているように思われます。

 次に、イエス様が十字架上で述べられた言葉に注目します。34節にこうあります。
『三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。』
 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」はイエス様がお話ししていたアラム語です。マルコはこの言葉をあえてイエス様が叫ばれた言葉そのもので記しました。これは父なる神様に訴える、人間的な率直な叫びです。イエス様は「わが神、わが神」と二度唱え、親しみを込めて語りました。この言葉は、詩編22編の最初の言葉でもあります。
 そして、37節です。
『しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。』
 マルコではイエス様の最後の言葉の内容は記されていませんが、ルカではこう記されています。23:46です。
『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。』
 ここの「私の霊を御手に委ねます。」は詩編31編6節の言葉です。もしかしたらイエス様は詩編を22編の最初からここまで唱えていたのかもしれません。
 私たちは不安と戸惑いの中で、神様に「なぜか」と問いかけます。イエス様の「なぜ」も同じだと考えます。沈黙する神様に「わが神、わが神」と呼びかけるイエス様は、「なぜ」と問いながら、神様の声が聞こえるのを待っています。この叫びは絶望ではなく、神様の応答を求める祈りです。そこにあるのは「神様への全幅の信頼」であります。
 イエス様は十字架上で、人間的な「なぜ私をお見捨てになったのですか」という訴えの後、最後は「御手に委ねます。」と神様の思い(意志)を全面的に受け入れたのです。 

 さらに、39節の百人隊長の反応を見たいと思います。こうあります。
『イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、「まことに、この人は神の子だった」と言った。』
 「このように」とは、イエス様が息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が裂けて神と人を断絶させていたものが取り払われたということです。それを見て、百人隊長は、「イエス様は神の子だった」と断言したのでした。異邦人であるローマの百人隊長がイエス様を神の子であると告白したのです。
 この百人隊長の反応は、35・36節の人々の反応と対照的です。どちらの箇所にも原文を見ると「そばに立っていた」という分詞(35・39節)と、「見る」という動詞(36・39節)が使われていますが、同じ動詞を使うことによって、イエス様の十字架をめぐる二つの立場が対比されています。一方にとって十字架は嘲笑の対象であり、他方にとっては神様のみ心を読み取るしるしです。何がこの違いを引き起こすかといえば、イエス様に対して取っている百人隊長の姿勢と言えます。彼は十字架の「そばに立っていた」だけでなく、イエス様と「向かい合って」います(39節)。百人隊長はイエス様と「向かい合って」いたのです。この「向かい合う」はギリシャ語原文では「エナンティオス」であり「相対している」という意味です。英語の聖書では「facing(直視して、顔と顔を合わせて)」とありました。十字架のイエス様と「向かい合う」「顔と顔を合わせる」なら、イエス様を神の子と告白する者となるのです。イエス様をからかう者は「そばに立って」はいても、目をイエス様に向けてはいません。そのような者には十字架は嘲笑の対象でしかありません。イエス様と向かい合い、十字架の死を直視する者には、十字架を通して語りかける神様の声が聞こえます。

 祭壇の、イエス様が十字架についた磔刑像をご覧ください。

  イエス様が息を引き取った瞬間の像です。これによって神と人を隔てていた幕が取り払われたのです。この十字架のイエス様と向き合うことが求められているのです。
 以前にもお話ししましたが、「祈る」のギリシャ語は「プロセウコマイ」で、この言葉は「プロス(前に)+エウコマイ(置く)」の合成語で、神様・イエス様の前に自分を置くことであり、イエス様と向き合うことであります。
 イエス様の「そばに立って」からかう者となるのか、イエス様の前に自分を置き、イエス様と向き合って、「まことにこの人は神の子だ」と告白する者となるのか。十字架はどちらの側につくかを問いかけています。

 皆さん、イエス様は十字架上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」と自分の思いを神様に率直に述べました。私たちも、神様に率直に訴え懇願していいのです。心に決めた願いごとを言葉にすることを恐れてはいけません。しかし、最終的に、「父よ、私の霊を御手に委ねます。」と言うことを忘れてはならないと思います。また、異邦人である百人隊長はイエス様の前に自分を置き、向かい合って十字架のイエス様を直視しました。それにより十字架を通して語りかける神様の声が聞こえ、イエス様を神の子と告白する者に変えられました。私たちも十字架上のイエス様のように神様の思い(意志)を全面的に受け入れたいと願います。また、百人隊長のような信仰を持ちたいと願います。
 しかし、それは自分の力でできるものではありません。そうできるように神様が導いてくださるように祈る、それが私たちキリスト者の祈りなのであります。
 私たち、マッテア教会では、今年の宣教聖句に「絶えず祈りなさい。」という言葉が入っています。日々祈ることに努めたいと思います。 
 十字架のイエス様と向き合い、神様の意志を受け入れ、百人隊長のような信仰を持つことができるよう、神様の導きを祈り求めて参りましょう。

 本日は復活前主日・しゅろの主日です。今日から始まる聖週を祈りを持って過ごし、主イエス様の十字架に思いを馳せ、聖金曜日(受苦日)を経て、喜びの復活日(イースター)を迎えたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン

『ディオンヌ&フレンズ「愛のハーモニー(That's What Friends Are For)」に思う』

 約一ヶ月前になりますが、去る2月22日にバート・バカラックの「世界は愛を求めている」についてブログで述べました。バカラックといえば、私は彼の申し子とも言われるディオンヌ・ワーウィックを思い浮かべます。最近は彼女のベストアルバムであるこのCDを聞いています。

 ディオンヌ・ワーウィックの曲では「ウォーク・オン・バイ(Walk On By)」「小さな願い(I Say A Little Prayer」「サン・ホセへの道(Do You Know The Way To San Jose)」などのバカラック・ナンバーがよく知られていますが、今回は1985年発売のグラディス・ナイト、エルトン・ジョンスティーヴィー・ワンダーとの共演作「愛のハーモニー」を取り上げます。
「愛のハーモニー(That's What Friends Are For)」で、ディオンヌは初めて全米のポップ、R&Bの両チャートを制覇したそうです。
 スティーヴィー・ワンダーや彼女の姪であるホイットニー・ヒューストンらと共演したライブ映像を以下のURLで聞く(見る)ことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=xdY33dYWND0

「愛のハーモニー(That's What Friends Are For)」の歌詞と和訳を下に示します。

   That's What Friends Are For(愛のハーモニー)
  
And I never thought I'd feel this way And as far as I'm concerned
I'm glad I got the chance to say That I do believe I love you
こんなふうに感じるなんて思いもしなかった 私に限っていえば
こうした機会を得たことがうれしい あなたを愛しているって言えることを
 
And if I should ever go away Well, then close your eyes and try to feel
The way we do today And then if you can remember
そしてもし私が遠くへと去ることになったら あなたの瞳を閉じて感じてみて
今日の私たちのように その時にあなたが思い出せたら
 
Keep smiling, keep shining  
Knowing you can always count on me, for sure
That's what friends are for For good times and bad times
I'll be on your side forever more That's what friends are for
ずっと笑顔で、ずっと輝いて
あなただからこそいつも私を頼れる、そう
それが友だちというものだから いい時にも辛い時にも
ずっとあなたのそばにいる それが友だちというものだから

Well, you came and opened me
And now there's so much more I see
And so by the way I thank you
そう、あなたは私のもとへ来て、心を開いてくれた
そして今はたくさんのことが見える
だからとにかくあなたに感謝している

Whoa, and then for the times when we're apart 
Well, then close your eyes and know
These words are coming from my heart
And then if you can remember, oh
そして離れ離れになってる時には
そう、瞳を閉じて気づいて
これらは心の底から出た言葉
その時にあなたが思い出せたら
 
Keep smilin', keep shining
Knowing you can always count on me, oh, for sure
'Cause I tell you that's what friends are for
For good times and for bad times
ずっと笑顔で、ずっと輝きつづけて
あなただからこそいつだって私を頼れる、あぁそうだ
私が言ってるようにそれが友だちというものだ
いい時にも辛い時にも

I'll be on your side forever more 
That's what friends are for
ずっとあなたのそばにいる 
それが友だちというものだから

 この曲は、米国エイズ研究財団のためのチャリティーシングルとして発売されました。困難な状態に置かれている隣人を助けるために企画されました。テーマは「隣人愛」と言えます。この歌の「あなた」は困難の状態の中にいる友だちです。そして、同時に友なる主イエス様であると考えます。
 今、能登半島地震の被災者や、ウクライナパレスチナでの戦災にあった方々など、世界中に困難の中におられる方々がたくさんいます。「隣人愛」は「善きサマリア人のたとえ」のように、同胞だけでなく、敵対する人々も対象とします。この歌のように、友だちとしてこの方々のそばにずっといることが「愛」と言えます。
 ミュージシャンであるディオンヌ・ワーウィックやグラディス・ナイト、エルトン・ジョンスティーヴィー・ワンダーたちは、自らが持つ音楽という賜物を生かして隣人愛を実践しました。私たちも自分に与えられた賜物を活用して、困難の状態の中にいる友だちに、そして、主イエス様に奉仕して参りたいと思います。

 

大斎節第5主日 聖餐式『一粒の麦によって生かされる』

 本日は大斎節第5主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、、エレミヤ書31:31-34、詩編51:1-12、ヘブライ人への手紙5:5-10、ヨハネによる福音書12:20-33。説教では、神は私たちのために一粒の麦であるイエス様を十字架に上げ、神とつながる永遠の命を与えてくださったことを理解し、十字架で亡くなり復活し、今は御聖体の中で生きて働いておられるイエス様に感謝して生かされるよう祈り求めました。
 本日の福音書箇所と関係する聖歌251番の歌詞及び当教会の聖餐式に参列されていた牧師さんからの手紙を活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は大斎節第5主日です。そして、次の主日は復活前主日・棕櫚の日曜日です。大斎節も終盤になりました。第5主日は、いよいよ十字架の接近を思わせる箇所が福音書として選ばれています。
 本日の福音書箇所はヨハネによる福音書12:20-33です。本日の箇所をまとめれば次のように言うことができると思います。
『イエス様が十字架に架かる週の月曜日、祭りのためにエルサレムに上って来た人々の中に、異邦人である何人かのギリシア人がいて、「イエス様にお目にかかりたい」と言って来ました。イエス様の答えは、「地に落ちて死」ぬ一粒の麦のようにイエス様が十字架で栄光を受ける時、すべての人を自分のもとに引き寄せる、つまり、異邦人を含むすべての人が「イエス様にお目にかかることができる」ということでした。』

 本日の箇所で、イエス様はご自分の使命を一粒の麦にたとえて語られました。24節です。
「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
 麦が地に落ちて死ねば(朽ちれば)、多くの実を結びます。そのように、イエス様の死も多くの人に命をもたらすというのです。そしてそのことをこう言い換えています。25節です。
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。」
 これはどういう意味でしょうか? ここに「命」という言葉が3回出てます。聖書のギリシア語では、「命」には2つの言葉があります。最初の2つ「自分の命を愛する者は」と「この世で自分の命を憎む者は」の「命」は、プシュケーという言葉で、本来、「息」を示し、地上の命を表します。それに対して、3つ目の「永遠の命に至る」の「命」は、ゾーエーという言葉で、霊的な、永遠の命を表しています。自分の命(プシュケー)を「愛する(アガパオー)」とは、地上の命に固執し、それを自分のために使おうとする自己中心的な生き方です。それに対して「憎む」とは、利己的な願いを優先せずに、この世で与えられた時間を「永遠の命(ゾーエー)」のために捧げる生き方と言えます。 26節で、「私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。」とありますが、この「仕える」はディアコネオーという「食卓に奉仕する」という言葉です。つまり、食卓で仕えるように細やかに仕える。そのようにイエス様に仕えることが勧められています。さらに言えば、そのような奉仕は、最後の晩餐を指し示す主の食卓に捧げられます。
 このように、イエス様の十字架にならい自分を捨ててイエス様に仕える者はイエス様の「いる所」にいて、父なる神様も「大切にしてくださる」というのです。
 このことは、本日の使徒書、ヘブライ人への手紙の 5章9節・10節にあるとおりです。イエス様についてこう言っています。
「そして、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人々にとって、永遠の救いの源となり、神によって、メルキゼデクに連なる大祭司と呼ばれたのです。」 

 では、十字架に架かり復活したイエス様は、今、私たちのうちにどう働いておられるでしょうか? 私はそれを、今行っている聖餐式の御聖体に見いだします。イエス様は御聖体として私たちに食べられ、一度死んで、しかしそれにより私たちの栄養となり永遠の命をもたらすのであります。
 この後の陪餐後に歌う聖歌をご覧ください。聖歌第251番です。

 1節にこうあります。
「カルバリの木にかかり わが罪を贖える
 深い愛 思いつつ われら今 主の前に
 喜びの食卓を 囲みて ともに祝う」
「カルバリ」はラテン語で、ヘブライ語では「ゴルゴタ」、イエス様が十字架にかけられた丘の名前です。この節では、私たちの罪を贖うために十字架にかかられたイエス様の深い愛を思って、今聖餐に与るために聖卓を囲む喜びを歌っています。4節はこうです。
「いつくしみ深き主よ み座近く われを召し
 とこしえに待ち望む 命の糧 与えて
 悪を捨て 喜びて つねに主におらしめよ」
 この節では、慈しみ深い主イエス様に、近くに呼んで永遠の命の糧を与え、ずっと共にいてください、と祈っています。
 イエス様は御聖体に姿を変えて私たちに食べられ、私たちの中で溶け、私たちの中にずっといてくださるのです。

 ところで、先日、当教会の聖餐式に参列しておられたT・S牧師さんから、私とマッテア教会の皆さん宛に手紙をいただきました。聖体拝領と交わりに感謝する内容でした。抜粋ですが、お読みします。
『(前略)聖餐式でみ座に近づき、御聖体に与るとき、私は、いつも心がわなわなと震え出すのを覚えます。やがて、私の意思に反して目から涙が溢れ出し、嗚咽がやまなくなります。私としては不覚です。しかしどうすることもできません。きっとこれは聖霊のなせる業です。教団の教会ではこのような経験をしたことがありません。カトリック正教会、そしてアルメニア正教会の礼拝にも出席しましたが、御聖体に与ったことさえありません。不思議なことです。
 このとき私の心は、喜びとも悲しみとも言い難い感情の高まりに包まれています。私にはこれがどのような類いの感情であるか分かります。それは、罪赦された者のこころにあふれる感情であり、父の許に帰った放蕩息子の心にあふれた感情です。そして司祭によって「皆この杯から飲みなさい、これは罪の赦しを得させるようにと、あなたがたおよび多くの人のために流すわたしの新しい契約の血です。」と御言葉が語られるとき、古い自分が過ぎ去り、聖霊の宮としての新しい自分が生き始めていることを深く覚えます。このとき私の心が、主の臨在をさやかに感じているかと言えばそんなことはありません。しかし、この世の塵芥でいつの間にか汚れていた心が、流した涙の後に清められているのを覚えるとき、私は、主が共におられて私を癒やしてくださったことを知らされるのです。(後略)』
 普段何気なくいただいている御聖体について、新たな示唆が与えられた思いです。御聖体はかくも偉大な恵みなのだと思わされました。 

 皆さん、神様は、私たち一人一人が生きてこの地上にあるこの時から、永遠という命(ゾーエー)でつないでいてくださっています。死んで初めて永遠の命に結ばれるのではありません。私たちは今日もう既に、永遠という命に結ばれているのです。
  イエス様はご自分に従うことを求めておられます。そうすれば私たちはイエス様のところにいることができるのです。さらに御父である神様は私たちを大切にしてくださるのです。
 神様は私たちのために、一粒の麦であるイエス様をこの世に遣わし十字架に上げ、それによって私たちに神様とつながる永遠の命を与えてくださいました。十字架で亡くなり復活し、今は御聖体の中で生きて働いておられるイエス様に感謝して生かされるよう、祈り求めたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン



 

『バッハのカンタータ第68番「神はこれほどまでに世を愛される」に思う』

    先主日福音書ヨハネによる福音書3:14-21でした。この中に、多くの人に愛され、神や聖書の本質を記した聖句、ヨハネ3:16が含まれています。 バッハはこの聖句を中心にカンタータ第68番「神はこれほどまでに世を愛される」を作曲しました。私はカール・リヒターのこのCDで聞いています。アルヒーフの輸入盤で26枚組のバッハのカンタータ集の11枚目です。

 

 リヒターのはなかったのですが、カイ・ヨハンセンというドイツ人の指揮による映像がYoutubeにありました。以下のURLです。教会での古楽器による演奏です・
https://www.youtube.com/watch?v=NLA2i1-Rxco

J.S.バッハカンタータ 第68番 BWV 68の歌詞対訳を次に示します。

1. Choral
Also hat Gott die Welt geliebt, Daß er uns seinen Sohn gegeben.
Wer sich im Glauben ihm ergibt, Der soll dort ewig bei ihm leben.
Wer glaubt,  daß Jesus ihm geboren,Der bleibt ewig unverloren, 
Und ist kein Leid, das den betrübt,Den Gott und auch sein Jesus liebt.
神はご自身の子を与えられるほど、世を愛された。
御子を信じて身を捧げる者は、みもとで永遠の命にあずかる。
エスが私のためにお生まれになったと信じる者は、決して滅びることがない。
神とイエスから愛される者は、苦しみに喘ぐこともない。

2. Aria
Mein gläubiges Herze, Frohlocke, sing, scherze,
Dein Jesus ist da! Weg Jammer, weg Klagen,
Ich will euch nur sagen: Mein Jesus ist nah.
我が信仰深き魂よ、喜び、歌い、楽しめ。
おまえのイエスがそこにおられる! 悩みよ、苦しみよ、去れ。
これだけは言おう。私のイエスがそばにいてくださる。

3. Recitativo
Ich bin mit Petro nicht vermessen, Was mich getrost und freudig macht,
Daß mich mein Jesus nicht vergessen. Er kam nicht nur, 
die Welt zu richten, Nein, nein, er wollte Sünd und Schuld
Als Mittler zwischen Gott und Mensch vor diesmal schlichten.
私は、ペトロと共に決して取り違えません。
エスが私を心にかけてくださるが故に、慰めと幸福をいただけるのです。
彼は世を裁くためだけにこの世に来られたのではありません。
決して、そうではありません。
彼は仲保者として、今こそ罪咎を贖おうと神と人との間に立たれたのです。

4. Aria
Du bist geboren mir zugute, Das glaub ich, mir ist wohl zumute,
Weil du vor mich genug getan. Das Rund der Erden mag gleich brechen,
Will mir der Satan widersprechen, So bet ich dich, mein Heiland, an.
あなたは、私のためにお生まれになりました。私は信じます、私は幸せです。
あなたが充分なものを与えてくださったから。
この世の終わりが突然訪れようと、サタンが私に反駁しようと、私はあなたを慕い求めます、我が救い主よ。

5. Coro
Wer an ihn gläubet,  der wird nicht gerichtet;
wer aber nicht gläubet, der ist schon gerichtet;
denn er gläubet nicht an den Namen des eingebornen Sohnes Gottes.
エスを信じる者は、裁かれることがない。
彼を信じない者は、すでに裁かれている。
何故なら、神の独り子の名を信じないからである。

 カンタータ第68番の第1曲コラールの前半は、ヨハネ福音書3:16の聖句そのものです。ここでは揺れるような優雅なリズムが特徴的です。このカンタータでは特に第2曲のソプラノによるアリアが有名です。喜びに溢れ、チョロのソロも活躍しています。第3曲はバスのレシタティーヴォで、イエス様の仲保者としての役割を強調しています。第4曲では、ダンス風の音楽にオーボエ属の古楽器が独特の音色を添えます。第5曲では、ヨハネ福音書3:18節のみ言葉を力強く確信に満ちて合唱しています。このカンタータのテーマは、第1曲冒頭のヨハネ福音書3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と言えます。

 ヨハネ福音書3:16で私が思い浮かべるのは、大久保直彦主教の説教です。大久保主教は私が大学生だった時のチャプレン長でした。この本、大久保主教の遺稿集「神の悲しみ」の中にこうあります。

「この聖句を読むとき、私はむしろその限りなき神の悲しみを見つけるのであります。父なる神のみ心は、ただ深い悲しみを持って、遠のく私たちを、最後まで待っていたもう-この悲しみつつ待ちいたもう父なる神の愛心-これこそ私たちに告げている新約のメッセージではないでしょうか。神は今日もまた、私を、あなたを、深い悲しみをもって待っていたもうのであります。」(P.230)
   私はここに、自分の独り子を自分の手元からこの世に遣わした父なる神の悲しみを思います。自分が悲しんでも派遣するほど、神様は、世を、私たち人間を愛しておられるのです。この愛(アガペー)は、キリシタン時代は「ご大切」と訳され、本田神父も「大切」と訳しています。三位一体の神様は、私たち人間を愛するが故にご自分を大きく切って(大切に思って)、独り子をお与えになったのです。

 バッハのカンタータ第68番「神はこれほどまでに世を愛される」から、このようなことを思い巡らしました。

 

大斎節第4主日 聖餐式『神の恵みと私たちの信仰』

   本日は大斎節第4主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、民数記21:4-9、詩編107:1-3・17-22、エフェソの信徒への手紙 2:1-10、ヨハネによる福音書3:14-21です。説教では、イエス様をこの世に遣わし十字架にあげられた神様の恵みをおぼえ、主イエス様への信仰を深めて復活日を迎える準備ができるよう祈り求めました。
 本日の福音書箇所と関係する聖歌507番の歌詞及びこの聖歌の作詞をしたフランセス・リドリー・ハヴァガルについても言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は3月10日。明日は3月11日、東日本大震災から13年目の日です。NHKのニュースの中で、妻や夫、子どもなどを震災で亡くした人たちが震災直後の写真を持ち寄って写真展をしようとしている話題がありました。現在85歳の当時消防団長の「あのとき、速く逃げることを強く言えば」と語る言葉から、家族を亡くした傷は年月を経ても癒えることはないことを思いました。そして、大震災という悲劇をなかったことにするのではなく、写真展などという形で記憶にとどめることの重要性を思いました。

 さて、本日は教会暦では大斎節第4主日です。大斎節の折り返し地点に位置する日曜日で、「バラの主日 Rose Sunday」と呼ばれる主日です。この日は祭色をバラ色にし、祭壇に花を飾る教会もあります。大斎節の中間まで無事に来たことを祝うためにバラの花を教会に持ち寄った慣習からこう言われる説があります。ちなみに「バラの主日 Rose Sunday」はもう一日あり、それは降臨節第3主日です。こちらも降臨節アドヴェント)の半分が過ぎて、ホッとひと息する主日です。

 さて、今お読みしました本日の福音書ヨハネによる福音書の3章14節以下から取られています。従来の聖書日課ではヨハネ6章4節以下のいわゆる「五千人の給食」と呼ばれているイエス様の奇跡の場面でした。しかし、今年から使っている改正祈祷書試用版ではヨハネによる福音書 3:14-21が選ばれています。この箇所を含むヨハネによる福音書3章は、聖書協会共同訳の小見出しでは「イエスとニコデモ」とあり、イエス様とユダヤ人たちの指導者だったニコデモの会話を取り上げています。

 本日の福音書箇所を理解するためには、3章最初からの内容をつかむ必要があります。まず、ニコデモはファリサイ派に属し、ユダヤ人たちの指導者であると紹介されます。このニコデモに対して、イエス様は「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と告げ、さらに新たに生まれることの意味を、「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)と語る。この教えが、キリスト教の洗礼の意味を告げるものとして重要な箇所になっています。したがって、本日の福音書箇所の14節から21節までの「人の子が上げられることによって人が永遠の命を得る」という真理も、神の国のための水と霊による新生の意味を説き明かすものである、とう視点が重要です。この意味で、この箇所は洗礼志願者への教えと、キリストを信じる人への再度の信仰の呼びかけが同時に含まれていると言えます。ここに、この箇所が大斎節の福音書箇所に配分されている意味もあると考えます。

 本日の福音書箇所を振り返ります。3章14・15節にこうあります。
「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」 
 「人の子」とはイエス様のことです。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」話は、本日の旧約聖書民数記21章4-9節にあります。聖書日課の1ページをご覧ください。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野の厳しい生活に耐えられず、神とモーセに不平を言いました。その時、主が送られた「炎の蛇」が民をかみ、多くの死者が出て、民はようやく回心しました。8節・9節にこうある通りです。「主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、竿の先に掛けなさい。蛇にかまれた人は誰でも、それを見れば、生き延びることができる。モーセは青銅の蛇を造り、竿の先に掛けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、生き延びた。」
 本日の福音書では、モーセが神様の指示に従って造った炎の蛇を竿の先に掛けることで民が命を得た旧約聖書の故事を引用し、イエス様が十字架に上げられることによって信じる者が永遠の命を得ることを示しています。

 なお、今回の聖書協会共同訳聖書では、ここでカギ括弧が終わり、ここまでがイエス様の言葉ということになっています。この前の新共同訳聖書では本日の箇所の最後の21節にカギ括弧があり、21節までがイエス様のイエス様の言葉となっていました。原文のギリシャ語にはカギ括弧がありません。16節以降に「独り子」「御子」という言葉が出てきますが、自分のことを「独り子」や「御子」というのはおかしいので、今回のように、15節までがイエス様の言葉で、16節からは福音記者のヨハネの記述と考えるのが自然と思います。

 さて、16節です。宗教改革者ルターは、この言葉を「小聖書」と呼びました。聖書のメッセージを、一言で言い表したような言葉だからです。こうあります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 神様は、独り子であるイエス様をこの世に送り十字架に上げるほど、この世を、そして私たちを愛しておられるのです。私たちに求められているのは神の御子であるイエス様を信じることであり、そうする人は永遠の命を得るのであります。
 ここの「世」という言葉はこの世界とそこに生きている私たち人間全体を意味しています。神様は私たち人間を愛するがゆえに、独り子を与え、御子を世に遣わされたのです。ここで言われていることは「恩寵先行、信仰後続」ということです。神の恵みが先にあり、私たちの信仰はその後に続くということです。

 次の17・18節はこうです。
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」
 18節の「信じない者はすでに裁かれている」とは、どういう意味でしょうか? その前の17節の言葉と矛盾するように思われるかもしれません。しかし、この「裁き」というのは「イエス様を信じることができない」という状態そのものが、実は裁きなのだという思いが含まれているのだと思います。であれば、それは断罪の言葉ではなくて、「あなたも信じる者になりなさい」という招きの言葉として、受け止めることができるのではないでしょうか?

 19-21節では「光と闇の戦い」が述べられています。ここでは2つのことが言われています。「①悪を行う者が闇を愛するのは、その行いが隠されるからである。②真理を行う者が光を好むのは、その行いが光によって明らかにされるからである。」です。
 神様は光をもたらす方であって、その光を受け入れないこと、つまり闇の中にとどまることが、裁かれる(=救われない状態)ということなのです。福音記者ヨハネは、イエス様の圧倒的な愛を体験し、ここにこそ、光と救いと命がある、と確信したところからすべてを語っています。だから、この方を受け入れるか否か(=信じるか否か)に救いのすべてがかかっていると言っています。

 まさに「神は愛」であります。十字架において、神様は独り子の死を惜しまぬほどに私たちを愛し慈しむ方であることが分かります。人知を超えた神様の愛を知るとき、イエス様を受け入れ信じたいと思います。十字架を仰ぎ見るとき、私たちは神様の無限の愛、恵み(恩寵)を知ることができます。そのとき、人は新たに生まれ、神様の思いの中で永遠の命を生きる者へと変えられていくのです。

 先ほど歌った聖歌507番をご覧ください。

 1節に「イエスは天なる 栄えを捨てて 暗きこの世に 降りたまえり」とあります。神の独り子のイエス様は天の栄光を捨てて、この世に降臨されたのです。3節には「救いの主は わが死に代わり 血しおを流し 命を与う」とあります。イエス様は救い主であり、私たちのために十字架に架かり、永遠の命を与えてくださったのであります。なお、この詩の作者は、フランセス・リドリー・ハヴァガルという19世紀英国の賛美歌詩人で、英国国教会の司祭の娘として生まれ、父の仕事に伴って転々としながら多くの宗教詩を残しました。この聖歌の一つ前の506番「主は命を与えませり」も彼女の作詞です。ハヴァガルは「聖潔の詩人」と呼ばれ、病弱で42歳で天に召されました。しかし、彼女の作品は今も多くの人に愛唱されています。
 
 皆さん、本日は大斎節第4主日「バラの主日」です。今日から後半に入るこの大斎の期節を、私たちを救うためイエス様をこの世に遣わし十字架にあげられた神様の恵みをおぼえ、主イエス様への信仰を深めて、復活の喜びを記念する日を迎える準備ができるよう祈り求めて参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

『「宣教協働特別委員会巡礼企画(前橋)」に思う』

 日本聖公会の北関東教区と東京教区が新教区設立に向けて取り組んでいる「宣教協働特別委員会」の活動の一環である巡礼企画が、2月3日(土)、前橋聖マッテア教会を主会場に行われました。この巡礼のねらいは「北関東教区と東京教区の教会を相互に訪問し、その教会と置かれている地域について知り、人と地域の交わりが与えられる。」です。
 マッテア教会にとっては、一昨年12月の東京教区聖アンデレ教会の皆さん、そして昨年10月の中部教区林間聖バルナバ教会の皆さんの訪問に続く、3度目の巡礼でした。
 東京教区宣教主事の福澤眞紀子姉が3月3日発行の「きょうどう通信第11号」で「教会訪問記」としてこの巡礼企画について記しておられます。以下にその記事を掲載します。
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 2月3日、よく晴れた空の下、前橋聖マッテア教会を訪問しました。
 前橋マッテア教会の建つエリアは、群馬県庁、前橋市役所など行政の中心地で、歴史ある町です。そして「まちなか教会群」として前橋の観光リーフレットに載るほど、キリスト教の教会が集まっています。明治期に製糸工場が造られ、前橋には西洋からの製糸技術と共にキリスト教も広まったのだそうです。
 今回は、前橋聖マッテア教会で朝の礼拝をささげた後、「まちなか教会群」巡りに出かけました。昼食は教会の新しい会館で「上州御用鶏めし」と、手作りみそ田楽、庭でとれたハッサク、前橋のお菓子など、温かく迎えてくださった教会の皆様に感謝いたします。 教会巡りは目から鱗がいっぱいの時間でした。語り尽くせませんがほんの少しご紹介です。聖マッテア教会からすぐ近くの日本基督教団前橋教会は新島襄の弟子、海老名弾正によって始められた教会とのこと。建物は現代的で、寄付を募って改装した「誰でもトイレ」のさりげない虹色のマークが印象的でした。そこから歩くこと数分の前橋ハリストス正教会は「前橋のニコライ堂」と呼ばれ、聖堂内には神の国のイメージを表すイコンが美しく並んでいます。大通りをまたぐと、ネオ・ゴシックの塔が二つ、カトリック前橋教会がありました。1945年8月5日、大空襲で一帯が焼け野原となりましたが、石の柱と壁を持つこの聖堂だけが残ったそうです。最後に、聖マッテア教会。北関東教区主教座聖堂であり、また「マキム主教記念聖堂」と名付けられた礼拝堂には親しみ深い空気を感じました。短い懇談の時間をもって今回の巡礼企画は終わりました。
 知ること、出会うこと。歴史や浪漫。訪れる場所ごとに地域の特色があり、感動があります。巡礼企画、今回は約20名の参加者でした。次は、これを読んだ貴方もご一緒に!(福澤眞紀子記)
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 人の心に残るのは、教会の建物などの物理的なことでなく、おもてなし(hospitality)などの精神的なものなのだと思いました。
 この巡礼企画については、巡礼チームのブログに詳しく記録されています。今回は東京教区の中村真希執事さんが執筆されました。以下のURLをぜひ、ご覧ください。訪れた各教会の様子や多くの写真等が掲載されています。最後にマッテア教会聖堂及びその聖職・信徒の映像もあります。
https://junreiteam777.blog.fc2.com/blog-entry-14.html

 「教会通り」とも呼ばれる通りの左右にある4つの教会を訪ねる巡礼は、キリスト教2000年の歴史に思いを馳せる旅でもあります。西方のカトリック教会と東方の正教会が分裂したのが1054年カトリック教会から聖公会(英国教会)が分かれたのが1534年、聖公会から組合教会(日本キリスト教団前橋教会の教派)が分かれたのが1600年です。4つの異なる教派の教会を訪ねることで共通点と相違点を実感し、所属する教会のことをより深く理解できると思います。 聖公会の特徴としては、元々が国教会だったため、教会に所属する信徒だけでなく教会のあるその教区の住民すべてが司牧の対象ということがあります。私の英語の名刺の肩書きが、PastorでなくRectorなのもそのゆえです。
 先人の残した賜物を大切にしつつ、新しい状況に即した宣教のあり方を模索していきたいと思います。皆さん、どうぞ前橋聖マッテア教会を訪問してください。いつでも歓迎いたします。

大斎節第3主日 聖餐式『起き上がられるイエス様』

    本日は大斎節第3主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は出エジプト記20:1-17、詩編19、コリントの信徒への手紙一1:18-25、ヨハネによる福音書2:13-22です。説教では、宮清めの箇所から、イエス様が示した十字架・復活の予告について知り、起き上がられ私たちを支えておられるイエス様に思いを馳せ、信仰の歩みをより深めることができるよう祈り求めました。
 本日の詩編19について黙想している「2024年み言葉と歩む大斎節~黙想の手引き~」の私が執筆した文章も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 能登半島地震の発生から2ヶ月が過ぎました。多くの場所で断水が続き、今も1万1000人以上が避難生活を送っておられるそうです。不安や困難の中におられる方々に主の慰めと励ましがありますようにと祈ります。矢萩主教補佐さんから、能登半島被災者支援金として北関東教区からは30万円を「京都教区能登半島地震対策室」に送ったと、連絡が入りました。そして、各教会の献金は「能登半島地震被災者献金」として3月一杯を目途に北関東教区へ送ってほしいとのことです。皆さんのお祈りとご協力をお願いします。

 さて、本日は大斎節第3主日です。福音書ヨハネによる福音書の2章13節以下から取られています。聖書協会共同訳聖書によりますと、本日の福音書箇所の小見出しは「神殿から商人を追い出す」となっています。「宮清め」という呼び方で、この聖書の箇所に親しんでこられた方も多いと思います。
 
 この箇所のイエス様は、私たちの知っているイエス様とかなり違う印象があります。15節・16節にこうあります。
「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない。」 
 なぜイエス様はこのようにお怒りになられたのでしょうか? そして、その意味するところは何でしょうか?
 私はイエス様は、表面的な神様への献げ物よりも、心から神様に従い、神様に祈ることの方が、献げ物よりも大事だと言いたかったのではないかと思います。聖書日課の1ページに本日の旧約聖書出エジプト記20章以下があります。ここは、神様からモーセ十戒が与えられた場面で、十戒の内容が書かれていました。前半部分では、「3 あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」とか「7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」とか「8 安息日を覚えて、これを聖別しなさい。」など神の神聖さ、神に従う信仰の重要性が示されています。イエス様の行動はこの精神にのっとったものであると考えられます。さらに、イエス様は人間の代わりに動物を犠牲として捧げる礼拝を廃止されたのだと考えられます。それは、御自分を十字架の上に犠牲として捧げることを通して、動物の犠牲を廃止したということです。つまり、イエス様は自らがいけにえの牛や羊として死ぬことにより、もういけにえの動物は必要ではないということを身をもって示したのです。それは次の17節でも分かります。こうあります。
『弟子たちは、「あなたの家を思う熱情が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。』
 弟子たちは詩篇69編10節を思い出しています。「あなたの家」とは神殿、「私」とはイエス様、「食い尽くす」とは死ぬこと、つまり、イエス様が十字架で死ぬことと言えます。それは私たちの罪を贖うため、贖罪のためです。
 
 さて、本日の福音書箇所で不思議な言葉がありました。それは19節です。
『イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」』
 これはどういう意味でしょうか? 
 それには、まず神殿とは何かということを考える必要があると思います。
 神殿とは神様が住まわれる場であり、神様と出会う場でした。聖なる場所であり、宗教生活の中心でした。建築するのに46年もかかった神殿をイエス様は「3日で建て直してみせる」と言われるのです。ここで「建て直す」と訳されている言葉は原語のギリシャ語では「エゲイロー」で、元々の意味は「起こす」であり、「起き上がる」や「復活する」とも訳される言葉です。英語の聖書(NRSV)では、「raise it up」とありました。「三日で建て直す」という表現にはイエス様の体と神殿が重ね合わされており、イエス様の復活を指し示しています。つまり、神殿とはイエス様の体のことであり、別の言い方をすれば、イエス様は復活によって、新しい神殿である教会をうち立てられたのです。
 しかし、弟子たちはこの時点ではこのことを理解できず、イエス様が復活された時、イエス様のこの言葉を思い出し、聖書とイエス様の言葉を信じたのでした。
 イエス様は「三日で建て直してみせる。In three days I will raise it up. 」とおっしゃいました。それは十字架の三日後に復活することを予告されたのです。そして、復活されたイエス様は、いつも私たちと共におられ、私たちを起き上がらせ支えておられるのであります。

 ところで、本日の詩編は「詩編19編」ですが、この詩編については、この「2024年み言葉と歩む大斎節~黙想の手引き~」でも、本日黙想する聖書箇所になっています。

 聖書日課の2ページ、詩編19編で中心聖句は7節です。
「主の律法は完全で、魂を生き返らせ∥ 主の定めはまことで、無知な者を賢くする。」 
 これは聖書協会共同訳で、「黙想の手引き」の方は別の訳です。この聖書日課の4ページをご覧ください。

 本日の黙想は私の担当であり、その文を転載しました。少し説明を加えてお話しします。
 この「黙想の手引き」の詩編19編の中心聖句(7節)はこうです 
「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の命令はまっすぐで、心に喜びを与える。」
 「天は神の栄光を語り∥ 大空は御手の業を告げる。」で始まる詩編19編は「ダビデの賛歌」であり、作者はダビデとされています。この詩は、神の創造、主の教え、神の赦しについて詠っています。ヘブライ語の「律法」という言葉は「教え」を意味し、「主の律法」は現行祈祷書の詩編では「主の教え」となっています。また、「生き返る」の原語は「シューブ」、その意味は「神に立ち帰る」です。それが「魂を生き返らせ」るのです。主の教えは、ダビデを神に立ち帰らせ、魂を生き返らせ喜びを与えました。主の教えは、私たちをも、神に立ち返らせ魂を生き返らせ、喜びを与えるのであります。
 また、詩編19編の最後14節は祈祷書では「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主∥ わたしの言葉と思いがみ心にかないますように」です。この祈りは、多くの聖職が説教の前に唱えており、私も以前はこれを唱えてから説教をしていました。「わたしの岩」とは堅固な岩である神殿(教会)、あるいはイエス様自身のこと、そしてイエス様を私たちの罪を贖ってくださる「贖い主」として呼びかけています。そしてその主に、自分の言葉と思いがあなたのみ心にかなうように、と祈っています。これは「主の祈り」の中の「み心が天に行われるとおり地にも行われますように」と同様の趣旨であると言えます。日々、大事にして唱えたい祈りであります

 皆さん、本日は大斎節第3主日です。大斎節は主イエス様の受難に思いを深める時です。大斎節中になすべき積極的なことは何かと言えば、イエス様の十字架と復活を集中的に黙想することであると言えます。
 本日の福音書箇所である「宮清め」は、十字架につけて殺され、復活したイエス様の体が、この神殿に取って代わることの予告であったとも考えられます。
 私たちはイエス様の十字架の苦しみだけを見るのではなくて、その後の復活の喜びに目を留めたいと思います。そして、いつも私たちと共におられ、私たちを起き上がらせ支えておられるイエス様に思いを馳せ、この大斎節が私たちの信仰の歩みをより深める期節となるように、祈り求めたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン