マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『「赤毛のアンのテーマ」に思う』

 先週の土曜は、第4回「キリスト教文化入門」が開催されました。初めての方2名を含む9名の参加者がありました。この集いでは「赤毛のアン」を英語で読み、背景にあるキリスト教精神やキリスト教文化等について思い巡らしています。ALTのクリスも参加しており、生の英語で学んでいます。先日は「CHAPTER III.Marilla Cuthbert is Surprised 第3章マリラ・カスバートの驚き」でした。私は、この箇所がこの本のテーマと関連する重要な場面だと思いました。当日のテキストは、マシューとマリラがアンの扱いに議論するところやアンが「コーディリア」と呼んでほしいと願うところを取り上げていました。私は、これの箇所だけでは第3章は物足りないと思い、追加資料を用意しました。それは以下のようです。

・・・・・・・
ANNE OF GREEN GABLES
By Lucy Maud Montgomery

CHAPTER III.
Marilla Cuthbert is Surprised

“Well, now, no, I suppose not—not exactly,”stammered Matthew, uncomfortably driven into a corner for his precise meaning.“I suppose—we could hardly be expected to keep her.”
“I should say not. What good would she be to us?”
“We might be some good to her,”said Matthew suddenly and unexpectedly.(Bantam Books P.28-29)

「そうさな、いや、その・・・はっきりそう思ってるわけではないがの」マリラに真意を問い詰められ、マシューは口ごもった。「だがな・・・あの子を引き取るのは、やっぱり難しいかのう」
「当たり前ですよ。あの子が私たちの何の役に立つんですか?」
「わしらが、あの子の役に立つかもしれないよ」突然、マシューは思いがけないことを言った。(松本侑子訳P.53)

From The Bible 

ACTS 20:35(NRSV)
In all this I have given you an example that by such work we must support the weak, remembering the words of the Lord Jesus, for he himself said, ‘It is more blessed to give than to receive.’”

使徒言行録20章35節
あなたがたもこのように労苦して弱い者を助けるように、また、主イエスご自身が『受けるよりは与えるほうが幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」
・・・・・・・

 私が読んでいるのはこの英文の本です。

 この28ページから29ページにかけて上記の文がありました。ここのマシューの言葉が「赤毛のアン」のテーマの一端を示してるように思います。それは、ケネディ大統領ではありませんが、自分が何かをしてもらうのでなく、自分が何をできるか、ということだと思います。そしてマシューのその言葉は、、パウロが話した主イエス様の文語訳で親しんでいた「与うるは受くよりも幸いなり」のみ言葉に基づくキリスト教精神から生まれたと思うのであります。

 次回の「キリスト教文化入門」は3月9日午後4時から、テキストは「CHAPTER Ⅳ. Morning at Green Gables 第4章グリーン・ゲイブルズの朝」です。「赤毛のアン」や「キリスト教文化」、英語等に関心のある方、どうぞご参加ください。お待ちしています。

大斎節第2主日 聖餐式『キリストに従い共に歩む』

 本日は大斎節第2主日です。午前は前橋、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、創世記17:1-7・15-16、詩編22:23-31、ローマの信徒への手紙4:13-25、マルコによる福音書8:31-38。 
 説教では、主イエス様は「イエス様の後に従う」ことを求めておられることを理解し、生涯キリストの後に従って共に歩むことができるよう祈り求めました。
 本日のテーマと関連して思い浮かべる本、ヘンリー・ナウエン「イエスとともに歩む~十字架の道ゆき~」も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は教会暦では大斎節第2主日です。(新町:入堂で聖歌129番を歌いましたが、「よそか(40日)ふ(経)るまで かて(糧)をもた(断)ちて」と歌うと「大斎節だな」という気がします。)今年の大斎節は2月14日(水)から始まり、本日は11日目です。 
 本日の福音書はマルコによる福音書8:31-38で、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「イエス、死と復活を予告する」です。イエス様と弟子たちはガリラヤにいて、この箇所の直前では、ペトロが「あなたはメシアです」と信仰告白をしています。
 マルコ福音書は全部で16章ありますので、本日の箇所はちょうど真ん中あたりで、この後の9章2節からが、山の上でイエス様の姿が変わる、いわゆる「キリストの変容(変容貌)」の箇所になります。
 その前の本日の箇所では、イエス様は弟子や群衆に、ご自分の死と復活を予告しています。私はこの箇所の中心聖句は34節だと思いました。今日はこの御言葉を中心に思い巡らしてみたいと思います。こうあります。
『それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、 自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。』

 イエス様は弟子たちに加えて群衆に、つまり私たちに、「自分の十字架を負って私に従いなさい」と語られます。しかも「自分を捨てて、十字架を負いなさい」と、とても厳しい言葉として響いてきます。
 新共同訳聖書では「自分の十字架を背負って」とあり、日本語でも「十字架を背負う」と言います。一般的には「自分の持って生まれたものや生きているうちに与えられたものを日々背負って生きていく」ことなどを言うと思います、広辞苑には「罪の意識や悲しみを身に受け持つ」とありました。「私は、この十字架を一生背負い続けます」というような言葉を聞くこともあります。イエス様がここで言っていることもこのようなことなのでしょうか?

 この箇所をギリシャ語原文から直訳するとこうなります。
「そして、群衆を彼の弟子たちと共に呼び寄せて、彼は彼らに言った。
 もし誰かが私の後ろに従うことを欲するなら、彼は彼自身を否定しなさい。
 そして、彼は彼の十字架を運びなさい。そして彼は私に従いなさい」。

 マルコ福音書は、異邦人、特にローマ人向けに書かれましたので、この当時の読者(主にローマ人)にとっては十字架刑は馴染みのあるものですが、現代の私たちがこの聖句を理解するには、当時の十字架刑について知る必要があります。
 十字架刑は、ギリシア人及びローマ人が発明した刑です。元々は反乱した奴隷に限って用いられ、その後すべての犯罪者に適応されました。十字架刑は、刑を受ける人が十字架を担いで行きます。その向かう途中で群衆の嘲りを受けます。この刑の本来意味していることは、かつて反乱した者が、今は「ローマ法に従順に服している」という姿を見せることでした。
 「自分の十字架」とは、イエス様と同じような苦しみの十字架を担げという意味ではありません。「自分の十字架」とは、比喩的表現で「自分の思いと神の思いが交差する時、自分の思いを捨てて神の思いに従順になりなさい」という勧めです。
 つまり、「十字架を運ぶ」「十字架を負う」とは「従順の勧め」です。十字架刑が意味しているのは、ローマ法への従順、つまり、「支配している権威への従順」です。イエス様は、父なる神に従順に歩まれました。どこまで従順だったかというと、「死に至るまで」です。そのように、私たちも、神様の御心に従順になる必要があると思います。自分の思いを優先させたい、自分の欲望を満たしたいと思う時に、そうではなくて、神様の御心に従順になること、それが「自分の十字架を負う」という意味であると言えます。
 ですから「自分の十字架を負う」とは「自分の問題、悩み、傷等を背負って生きる」ということではありません。それらは、自分を捨てる時に主にお委ねしました。そうではなく、「主に従う」ということです。言い換えれば「神様の御心に従う」ということが、「自分の十字架を負う」ということであると思います。

 そして、もうひとつ、この御言葉で重要なところがあります。
 イエス様が言われた「私の後に従いたい者は」というところです。これは、ギリシヤ語で「オピソー・ムー」とあり、「私の後ろに」という意味です。英語の聖書では「after me」とありました。
 この個所の直前に、こんなやり取りがありました。イエス様が「排斥され殺され三日後に復活する」ことを弟子たちにお話しになり、弟子たちはそれを理解できずペトロがイエス様をいさめ、それに対しイエス様がペトロを叱って「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」と言われたところです。ここで「引き下がれ」と訳されている言葉も、実は、「オピソー・ムー」なのです。「私の後ろに行け」なのです。
 イエス様の後ろに行く。その反対は、「イエス様の前に行く」ことです。それはイエス様が望まれたことではありません。イエス様が望まれているのは「イエス様の後ろに行く」こと、つまり「イエス様の後に従う」ことです。
 では、「イエス様の後に従う」とはどういうことでしょうか? それはイエス様とつかず離れず共に歩むこと、具体的には「日々祈り、御言葉をよく聞き、神様を信じて生きる」ということだと思います。また、今日のように礼拝に参列して、主なる神様をほめたたえることです。イエス様と共に歩み信仰生活を続けていくことが、「十字架を負うこと=イエス様の後に従う」ことと言えます。
「イエス様と共に歩む」ということで、思い浮かべる本があります。それは、ヘンリー・ナウエンの「イエスとともに歩む~十字架の道ゆき~」です。

 この本はシスター・ヘレン・ダビデの描いた15枚の絵に基づく黙想です。イエス様が十字架に向かって歩まれる場面を貧しく小さくされた人々の姿に投影させた15枚の絵について、短い黙想が記されています。日本語版は絵が白黒で小さいのですが、英語版は絵がカラーで大きいので、私は英語の本も参照しています。英語の題名は「Walk With Jesus ~Stations of Cross~」です。

 この本では、私たちの心の内にある痛み、そして世界の痛みを抱えている人たちと共に黙想しています。ナウエンは「はじめに」で、このように記しています。「わたしたちを囲むひろい世界には、計り知れない痛みがあります。わたしたちのうちなる小さな世界にも、計り知れない痛みがあります。しかしすべての痛みは、イエスが受け取ってくださいます。」
 そして十字架の道ゆきの15の黙想を始める前に、ナウエンは序「わたしはイエスとともに歩く」(英語では「Introduction I WALK WITH JESUS」)という文章を書いています。「わたしは今まであまり『歩く』生活をしてきませんでした」(P.3)、「しかし、イエスは歩かれました。そして今も歩いておられます。…ともに歩かれる人に注意深く耳を傾け、同じ道を歩く本当の仲間として、ある力をもって語り掛けられます。」(P.4)。
 そのように書いた上で、「イエスはあなたと一緒に今も歩いてくださっています。だからイエスの十字架への道ゆきをたどりながら、イエスと一緒に歩んでいきましょう。その時、今まで気づかなかった大切なことに気づかされます。」そのように語ってから、15の黙想を始めています。
 ここで述べられているのは、イエス様は私たち及び痛みを抱えている人々と共に歩んでおられるということです。十字架へと向かう途上においてです。だから、イエス様は、「私につかず離れず共に歩んでほしい」と言っているのだと思います。

 皆さん、主イエス様は、私たちがイエス様に従い共に歩むことを求めておられます。クリスチャンとは「キリストに従う者」という意味です。それがイエス様の本当の弟子です。「十字架を負うとはイエス様の後に従う」こと、イエス様と共に歩み信仰生活を続けていくことです。大斎節のこの期間、あらためて自分を見つめ直し、生涯、イエス様が求めておられる生き方、「キリストの後に従い共に歩んでいく信仰生活を送る」ことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。

   父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

『バート・バカラック「世界は愛を求めている」に思う』

  少し前になりますが、去る2月8日はバート・バカラックの命日でした。昨年のこの日に逝去されたのでした。この日のNHKラジオ深夜便のロマンチックコンサートはバート・バカラック特集でした。この中で一番心に残ったのがジャッキー・ディシャノンが歌った「世界は愛を求めている(What the World Needs Now Is Love)」でした。
「世界は愛を求めている」は、ハル・デヴィッドが作詞しバート・バカラックが作曲した1965年の楽曲です。ジャッキー・デシャノンが歌いヒットしました。1965年7月24日から7月31日にかけてビルボードHot100で2週連続7位を記録し、カナダでは1位を記録しました。
 1968年6月5日、ロバート・ケネディがロサンゼルスで撃たれた折、彼が翌日に死ぬまでの間、同市のラジオ局は夜を徹して繰り返し本作品をかけ、死亡後も数日間そのことは続けられたそうです。
 私はジャッキー・ディシャノンの「世界は愛を求めている」をこのCD で聴いています。「Sweet Melodies」というバート・バカラックが作曲したヒット曲を集めたアルバムです。

 ジャッキー・ディシャノンの「世界は愛を求めている」は以下のURLで聞く(見る)ことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=gub8xY-b1Xk

「世界は愛を求めている(What the World Needs Now Is Love)」の歌詞と和訳は以下の通りです。

What The World Needs Now Is Love  世界は愛を求めている

What the world needs now is love, sweet love
It's the only thing that there's just too little of
What the world needs now is love, sweet love
No, not just for some but for everyone
  世界に今必要なものは愛、優しい愛
 手に入れにくい たった一つのもの
 今世界が求めているのは愛、優しい愛
 ただ誰かのためだけでなく みんなのために

Lord, we don't need another mountain
There are mountains and hillsides enough to climb
There are oceans and rivers enough to cross
Enough to last 'til the end of time
 主よ、もう山は必要ありません
 登りきれないほどの山や丘があるからです
 渡りきれないほどの海や川も
 人生の時間を最後まで使っても足りないほど
 
Lord, we don't need another meadow
There are cornfields and wheat fields enough to grow
There are sunbeams and moonbeams enough to shine
Oh, listen, Lord, if You want to know
 主よ、もう牧草地は必要ありません
 トウモロコシ畑も小麦畑も十分にあるからです
 太陽の光も月の光も十分です
 どうかお聞きください、主よ、もしお知りになりたいのなら

 世界ではウクライナパレスチナでの戦闘、トルコやミャンマーでの内戦、国内では能登半島地震等の現実を見ると、「世界は愛を求めている」は緊急なる心の叫びであると思います。
 そして、この歌では「Lord, (主よ)」と神に語りかけ、山や牧草地でなく、「sweet love(優しい愛)」が必要である、それを世界が求めていると歌っています。「strong love」でなく「sweet love」というのが何とも分かる気がします。

 「太陽の光も月の光も十分」という歌詞から、ヨハネの黙示録21章23節を思い浮かべます。こうあります。
「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。」
 来たるべき世(終末)の新しいエルサレムでは、「太陽も光も必要ない」というのです。この聖句の前の22節はこうです。
「私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである。」
  父なる神と子なる神(キリスト)が統治する世では、太陽も光も必要ないというのです。逆にいえば、神の統治(神の国)こそが必要ということなのだと思います。

 今、大斎節に入って一週間が過ぎましたが、今年のテーマ聖句は「愛はすべてを完全に結ぶ帯です。」(コロサイ 3:14)です。「世界に今必要なものは愛、優しい愛」であり、それこそが様々なことを完全に結ぶことのできる帯だと思うのです。
 バート・バカラックの「世界は愛を求めている」から、このようなことを思い巡らしました。

 

大斎節第1主日 聖餐式『荒れ野で支え続ける神』

 本日は大斎節第1主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、
創世記9:8-17、詩編25:1-10、ペトロの手紙一3:18-22、マルコによる福音書  1:9-15。 
 説教では、大斎節の始まりに当たり、荒れ野で神が支え続けておられることを知り、イエス様を模範とし、主の栄光を現し、信仰を深めるように祈り求めました。
 北関東教区と東京教区の聖職が執筆した「み言葉と歩む大斎節〜黙想の手引き〜」等も紹介しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は教会暦では大斎節第一主日です。大斎節はカトリックでは四旬節、英語ではレントといいます。大斎節とは何でしょう? 大斎節というのは、灰の水曜日(今年は先週の水曜日、2月14日)から復活日(今年は3月31日)までの40日間(プラスその間の主日の数、実際は46日間)を言います。四旬節という言い方は40日間のことを意味します。大斎節は、イエス様の「荒れ野での試練」に倣い、節制(欲を抑えて慎むこと)と克己(己に克つこと)に努め、自分を見つめ直すという悔い改めと反省の期間という意味があります。また、初代教会では毎年一回、復活日(イースター)の明け方に洗礼が行われていましたので、洗礼志願者にとってそのための準備期間という意味合いもあります。
 
 大斎節第一主日では、毎年イエス様の荒れ野での試練、一般に「荒れ野の誘惑」と呼ばれる福音書の箇所が取られています。マタイやルカは誘惑の内容まで詳しく伝えますが、マルコはいたって簡潔にこの場面を記しています。
 本日の旧約聖書は、ノアの洪水のクライマックスで、神が大洪水に残ったノアと家族、子孫、全ての生き物を祝福し、永遠の契約を立てる箇所です。使徒書は、キリストの苦しみについて語り、ノアへの言及も含み、洗礼の誓約について述べています。
 そして、本日の福音書、マルコ1:9-15では、イエス様は洗礼を受けた後、サタンの試みを受け、その後福音を宣べ伝え神の国の到来を宣言しました。この箇所は、3つの段落からなっています。聖書協会共同訳聖書の小見出しは、それぞれ「イエス、洗礼を受ける」「試みを受ける」「ガリラヤで宣教を始める」となっています。本日は第2段落にスポットを当てて考えていきたいと思います。
 
 この箇所、マルコ1:12-13はこうです。 
「それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。 イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。」
 「それからすぐに」とはイエス様が洗礼を受けてすぐに、ということです。「荒れ野」は、特別な場所です。試練の場所であり、誘惑の場所であり、しかし、そこは神様と出会う特別な場所です。「それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。」とあります。「追いやった」という言葉は、 新共同訳では「送りだした」と訳されていましたが、原語のギリシャ語では「追い出す」とか「投げ込んだ」とか、そういう強い力を表す言葉で、聖書協会共同訳はかなり原文に忠実に訳しています。イエス様の受洗後、霊はイエス様を、試練の場、誘惑の場、しかし、神様との出会いの場に投げ込んだのです。
 霊は、洗礼の時イエス様に降り、11節で「あなたは私の愛する子、私の心に適う者である」と宣言された霊です。それは、三位一体の第三位格である「聖霊」です。父なる神様からイエス様に降ってこられたその霊が、今度はイエス様を「荒れ野に追いやった」のです。
 ここでは「試みを受け」る(ギリシャ語では「ペイラゾー」)という言葉に注目します。これは名詞「ペイラスモス」の動詞形です。それをギリシャ語辞典で引くと「試み・誘惑・試練」とありました。同じ言葉がサタンから見れば「誘惑」であり、イエス様から見れば「試練」となります。「誘惑」は神様から離すことであり、「試練」は神様に近づくことです。それが同じ言葉なのです。どちらから見るかで意味が変わるのです。
 
 荒れ野は神的な力と悪魔的な力とが共存する場所であり、その意味で私たちが生きる日常の象徴とも言えます。イエス様が荒れ野で試みを受けたのは、同じ「荒れ野」に生きる私たちを励まし、慰めるためです。イエス様と共に「荒れ野」を生きるとき、試みは神様への信仰を告白する試練に変わります。 
 ちなみに、かつての「主の祈り」の文語訳は「われらを試みにあわせず」となっており、聖書協会共同訳のマタイ6章13節でも「私たちを試みに遭わせず」と訳されています。しかし、試みや誘惑は必ずあるものなので、「試みや誘惑にあわせないでください」と祈ることはどうなのかと考えます。現行の「主の祈り」では「わたしたちを誘惑に陥らせず」となっていて、「誘惑があってもそこに陥ることのないように守ってください」の意味と理解します。この方が、今日の箇所のイメージにつながると考えます。
  「また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。」とありますが、どういうことなのでしょう?
 イエス様の荒れ野での生活は野獣と隣り合わせであり、同時に神の使いとともに過ごす日々だったのです。野獣とともに、天使とともに生きる。イエス様が試みに直面した場とはそのような場でした。しかも天使たちが仕えていた。ここの動詞は未完了形でした。ギリシャ語の未完了形は動作の継続・反復を表します。つまり、神の霊の働きはイエス様を支え続けていたのです。これは私たちの生きる場でも同様であります。私たちの生活は野獣と隣り合わせですが、天使たちが、神の霊が、支え続けておられるのです。
 さらに言えば、「野獣」と訳されたギリシャ語原文は「切り裂かれた」という動詞の名詞形で、「仕える」の原語は「ディアコネオー」で元々の意味は「給仕する」です。であれば、「野獣」はイエス様が切り裂かれる、つまり十字架や苦難を象徴し、「仕える」は私たちに給仕すること、つまり神様が食べ物等私たちの必要を満たし続けておられるということではないでしょうか?

 冒頭お話しましたように、大斎節は、イエス様の「荒れ野での試練」に倣い、節制と克己に努め、自分を見つめ直すという意味があります。そして、大斎節には、何か目標を決め自分にとって少しきつい試練を与えることをよくします。毎日聖書を読むとか、普段なかなか読めない神学書を精読するとか、誰かを覚えて祈り手紙やメールを送るとか、お酒やコーヒーなど好きなものを少しセーブしてそれを大斎克己献金として献げるとかです。北関東教区と東京教区の聖職が執筆した「み言葉と歩む大斎節〜黙想の手引き〜」を毎日読み、黙想するのも一つの方法です。
https://www.nskk.org/tokyo/wp-content/uploads/2024/02/2024lent-2.pdf
 私は、今年は「イエス様の宣べ伝えた福音」について知りたいと考え、この本、本田哲郎神父の「釜ヶ崎と福音~神は貧しく小さくされた者と共に~」を精読することにしました。

 本日の福音書のマルコ1:14でイエス様が宣べ伝えた福音は、今私たちが考える体系だったキリスト教の教えではなかったと思います。「神の国が近づいた(原文では完了形、ギリシャ語の完了形は現在も含みます)」、つまり「神の支配が到来した(英語では「has come」)という福音(Good news、良い知らせ)」であり、それは言葉で伝えるというより、イエス様がそばに行って手をさしのべられた「貧しく小さくされた人」と共に生きるということなのだと思います。この本の巻末には2006年6月15日第2刷とあり、赤鉛筆の線が本の半分くらいまで引いてありましたので、前半までは読んだのだと思います。しかし、それから約18年が過ぎ、私も神学校で学び聖職に按手され知識と経験を重ねて、福音についても新たな気づきが与えられています。司祭となって5年を迎える今、この本を精読したいと考えました。
 さらに、この本も読みたいと思っています。宗教多元主義を唱えた、英国の神学者、ション・ヒックの「神は多くの名前をもつ~新しい宗教的多元論~」です。

 この本は、今、旧群馬町の図書館で行われている読書会で遠藤周作の「深い河」を読んでいて、私もできるだけこの読書会に参加しているのですが、遠藤周作が「深い河」を執筆するきっかけになった本です。この本は、キリスト教だけに救いがあるのではなく、仏教やイスラム教などの宗教にも真理があるというスタンスで書かれています。これは本田哲朗神父の考えとも通ずる考えだと思います。この2冊をこの大斎節期間に読んで、新たな視点から信仰を深めたいと考えています。皆さんも、この大斎節に何か目標を決め、自分にとって少しきつい試練を与えることをお勧めします。

 皆さん、私たちの人生は荒れ野のようです。イエス様が洗礼を受けた後にサタンの試みにあったように、私たち洗礼を受けた信仰者も、いろいろな誘惑や試練に遭遇します。しかし、天使たちがイエス様を支えたように、どのような場合でも神様が私たちを支え続けておられますから、主イエス様にならい福音を宣べ伝え、主の栄光を現すことができるよう、祈りを捧げたいと願います。
  大斎節の始まりに当たり、これからイースターまでの約40日間、あらためて自分を見つめ直し、節制と克己に努め、信仰を深めるように祈り求めて参りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

『バッハのカンタータ第99番「神のみわざはすべて善し(神の業こそ、麗しい)」(BWV99)に思う』

 前々回のブログで、バッハの「ゴルドベルグ変奏曲」について記し、最初と最後のアリアは「天国」、30の変奏は「この世」であると黙想しました。そして、第30変奏のメロディがカンタータ第99番「神のみわざはすべて善し」(BWV99)のコラールに類似していることに言及しました。
 家に確かこの曲の入ったCDがあったはずと探したら、見つかりました。バッハ・コレギウム・ジャパンの「バッハ:カンタータ全曲シリーズの㉕」です。

 このCDは以下のURLで聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=d9wqYVNTLqw

 このカンタータ第99番「神のみわざはすべて善し(神の業こそ、麗しい)」(BWV99)は1724年9月17日に初演されました。この日、三位一体後第15主日福音書箇所はマタイ第6章25~34節のいわゆる「山上の垂訓」であり、そのテーマをよく伝えることができるようにと意図して、バッハは本カンタータを書かしめました。
 特に「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(マタイ6:25・26)の聖句を通して、説教者は会衆を「神の御業への絶対なる信頼」へと導きました。
 本カンタータのテキスト作者(不詳)は、聖句の取り込み方に非常に注意を払い、より積極的な解釈をして「山上の垂訓」の表象を行ない、本コラールと聖句を結びつけたと考えられます。
 このカンタータの訳詞を下に示します。

I. 合唱
神の行なわれる御業はすべて善きもの その御心はいつも義に満ちている
神が私をどのように導こうとも 私はただあなたに従う
我が神なるお方 困難のなかにあっても
私を養ってくださる術をご存知 ゆえに私は一切をあなたにゆだねる

II. レチタティーヴォ(バス)
まこと神の言葉は真実であり 決して私を欺かない
この言葉ゆえに、神を信じる者は倒れることも堕落することもない
その言葉は私を生命の道に導き入れ、私の心を捉え、満たす
父なる神の真実、慈しみ、そして寛容ゆえに
思いもよらぬ災難が襲う時も 神はその全能の御手をもって
災厄を遠ざけてくださる

III. アリア(テノール)
弱き我が魂よ、恐れおののくな たとえ十字架の杯が苦くとも 
神こそが知恵ある医者にして奇跡なる方 
毒をもってあなたを死にいたらしめることはない 
ひそかに甘みを加えられることはあっても

IV. レチタティーヴォ(アルト)
あなたとの永遠の契約が 私の変わることなき信仰の礎
確信をもって語る 死の時も生ける時も
神こそわが光、 私はあなたに従う
そして日々もたらされる 多くの苦しみや苦難に耐え続け
十分に涙を流しきった時 やがて救いの日が訪れ
神のまことの思いが現れる

V. 二重唱(ソプラノ・アルト)
十字架の苦しみと 肉なる人の弱さが相見えるならば
それも御旨にかなうこと 苦しみの十字架を耐えがたいと思う者は
そののち、喜びにあずかることはないだろう

V. コラール
神の行なうことはすべて善きこと 私はいつもそこに身を置く
たとえ険しい道を歩む時 嘆きや死、惨めなことに翻弄されようとも
神は私を 父なる愛をもって 御腕の中に守ってくださる
ゆえに私は一切をあなたにゆだねる

 この詩には神への絶対的な信頼が溢れています。人生を生きる上でこのことはエッセンシャル、必ず必要なものであると言っているように思われます。

 バッハ家は代々、熱心なルター派の信徒でした。バッハは9歳の時母が死に、その9ヶ月後に父も亡くなりました。バッハは両親に死に別れ、孤児になってしまいました。そして14歳年上の兄の家に引き取られ、音楽に打ち込むことでその寂しさに打ち勝とうとしたのです。
 実は、私も10歳で母を亡くしました。子供なりに「人生にはいくら祈ってもどうにもならないことがある」と思い、絶望感に陥りました。父が不憫に思ったのかピアノを買ってくれました。それから私は先生についてピアノを習い出しました。小学校4年で、楽器演奏を始めるのに決して早くはありませんでした。私は母のいない寂しさを紛らわすかのように、毎日約1時間ほどピアノの練習に打ち込みました。高校1年で止めてしまいましたが、小学校や養護学校の教師だった時には大いに役立ち、教会音楽もすんなり受け入れ、今もミュージック・ケアのセッションの最後にピアノを弾いています。
 ピアノに親しんだことは、キリスト教に触れたときにあまり違和感がなかったことにも関係しているように思います。高校の時に好きだったのはバーンスタイン・ロンドン響の「ヴェルディ・レクイエム」のレコードで、自分が亡くなる時はこの音楽に包まれたいと願ったほどでした。

 カンタータ第99番「神のみわざはすべて善し(神の業こそ、麗しい)」(BWV99)のコラールでは、「神の行なうことはすべて善きこと(略)神は私を父なる愛をもって御腕の中に守ってくださる」と歌っています。
 幼い時に親を亡くすことは決してうれしいことではありませんが、それをそれで終わりにせず、何かに打ち込むこともできるのです。それが新たな希望を生みました。それが私をキリスト教に導き、今は聖職に就いています。「神のみわざはすべて善し」なのだと思うのであります。

 

大斎節前主日 聖餐式『イエス様に聞き従う』

 本日は大斎節前主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、
列王記下2:1-12、詩編50:1-6、コリントの信徒への手紙二4:3-6、マルコによる福音書9:2-9 。 
 説教では、「キリストの変容」の箇所を通して、イエス様に聞き従い、イエス様と同じ栄光の姿に変えてもらうよう祈り求めました。
 本日の箇所を描いた冊子「絵で見るロザリオの祈り」の黙想の絵「イエス、タボル山で栄光の姿を現す」も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 能登半島地震発生から40日が過ぎ、死者は240人を超し、約14,000人が避難所生活を余儀なくされ、住居の破損は6万戸を超しています。連日テレビで様々な報道がなされていますが、先日は奥さんと義理の父を土砂崩れで亡くした人が出ていました。土砂の中から奥さんからプレゼントされた腕時計が出てきて感極まり、「どうして私がこのような目に遭わなければならないのか?」という思いがあふれ、「とにかく二人を帰してほしい」と涙ながらに訴えていました。「私たちができることは何なのか」考えていきたいと思います。

 さて、本日は、教会の暦では「大斎節前主日」という主日で、今週の水曜日、14日から「大斎節」に入ります。
 本主日福音書はマルコによる福音書9:2からの、いわゆる「変容貌(キリストの変容)」の箇所で、イエス様が受難予告をされて、エルサレムに行くと決めてから6日後の出来事だと言われています。
 この箇所が「大斎節前主日」に取り上げられるのは、この出来事がイエス様の生涯の中で、ちょうど半ばあたりに置かれ、これ以後今までのガリラヤからエルサレムでの十字架、復活へと進展していくことが、イエス様の地上での生の前半を記念してきた顕現節から、後半の部分を記念する大斎節へと入っていくのと重なっているからです。

 今日の福音書箇所について、解説を加えて振り返ります。
 イエス様は、ペトロ、ヤコブヨハネの3人を連れて、高い山に登られました。その山の上において、弟子たちの目の前で、イエス様の姿が変わったという出来事が起こりました。ここのギリシャ語原文を直訳すると「彼は姿が変えられた」で、神的受動形(行為の主体が神であることを婉曲的に示す受動形)であり、これはイエス様の姿を変えたのは他ならぬ神様だということです。さらに「衣は真っ白に輝いた。それはこの世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった」と記されています。衣が真っ白に輝き、「この世の」とわざわざ断ったのは、この白さが天上の輝きから発出していることを示しています。その光景は、イエス様が神の栄光をお受けになったことを表す姿です。
 そして、そこで、弟子たちは、不思議な光景を目にしました。モーセとエリヤが現れ、イエス様と話し合っておられたのです。モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表し、この3人が語り合うとは、イエス様の受難と復活が、聖書に記された神様の計画の中にあることを示していると考えられます。

 多くの画家がこの場面を描いていますが、私はこの絵に今、一番親しみを感じています。

 私は火曜から金曜の午前10時半から「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」をしていますが、後者では今「絵で見るロザリオの祈り」の冊子を使っており、この絵はこの中の「光の神秘」第4の黙想の絵「イエス、タボル山で栄光の姿を現す」であります。この絵では、山の上で姿を変えられたイエス様が輝く光のオーラと雲の中にモーセとエリヤを伴い、浮かんでいます。そして、下の地上には三人の弟子たちがいます。

 聖書に戻ります。弟子たちは、その変容貌の光景から、イエス様がモーセとエリヤを相手に親しく語り合っておられると、とっさに思ったのです。そこで、ペトロは思わず口走りました。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」と。 
 ペトロが幕屋を建てようと言っているのは、このあまりに素晴らしい光景が消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからと考えられます。ちなみにここで「幕屋」と訳されている言葉(スケーネー)は、遊牧民が寄留地での住まいとする「幕屋・天幕・仮小屋」を表します。この前の新共同訳聖書では「仮小屋」、口語訳では「小屋」と訳されていましたが、「幕屋」が原文に一番近いと考えます。「幕屋」は神様を礼拝する場所でもあります。
 さて、そのうちに、雲が彼らを覆いました。雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。すると、「これは私の愛する子。これに聞け」という声が、雲の中から聞こえました。声の主はもちろん父なる神様です。「私の愛する子」という言葉は、ヨルダン川でイエス様が洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マルコ1:11)。洗礼の時から「神の愛する子」としての歩みを始めたイエス様は、ここからは受難の道を歩むことになりますが、その時に再び同じ声が聞こえます。つまりここで、この受難の道も「神の愛する子」としての道であることが示されたのです。「これに聞け」の「聞く」はただ声を「耳で聞く」という意味ではなく、「聞き従う」ことを意味します(申命記18:15等)。弟子たちが急いであたりを見回しますと、そこには、イエス様のほかには誰もいませんでした。
 イエス様は、山を下っているとき、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と、弟子たちに命じられました。
 これが、山の上でイエス様の姿が変わられた(変容貌)という出来事です。

 この箇所を通して、神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?
 7節に「これは私の愛する子。これに聞け。」とあります。この言葉の前にペトロは5節でイエス様とモーセとエリヤに一つずつ「幕屋」を建てようと提案しています。これは、ペトロはイエス様をモーセやエリヤと同列に置いていると言えます。しかし、その提案は神様から退けられ、神様は「イエス様に聞きなさい」と教えられました。この神様の声は、イエス様こそが旧約聖書を成就する者であることを明らかにしています。そして、イエス様こそ神様が愛してやまない我が子であることが示されました。さらに神様は「これに聞け」とつけ加えました。イエス様が語る通りに、イエス様が行う通りにあなたがたはしなさい、ということです。
 この声が聞こえた後、弟子たちが周囲を見回すと、誰も見えず、イエス様だけが自分たちと共にいるのに気がつきます。弟子たちと共にいるイエス様は、これから十字架の道を歩みます。神様は弟子たちがイエス様と共に十字架を担うことを求めておられるのです。
 十字架の道こそが栄光への道です。それを教えるために、神様が山の上で天からの栄光を弟子たちにまざまざと示して、「イエス様に聞き従って受難の道を歩むように」と呼びかけたのです。「イエス様と共に十字架を担い、永遠の栄光を目指して歩むべきだ」と。それこそが神様が求めておられることであります。

 皆さん、イエス様は私たちをも神様に出会う山に連れて行ってくださいます。「これは私の愛する子。これに聞け。」という言葉は、私たちにも向けられています。「イエス様に聞く」とはイエス様の言動(言葉と行い)に聞き従うことです。
 本日の礼拝の退堂で歌う聖歌457をご覧ください。これは前橋の日曜学校でよく歌った聖歌で、各節の最初はそれぞれ、1「主に従い行くは いかに喜ばしき」、2「主に従い行くは いかに幸いなる」、3「主に従い行くは いかに心強き」です。主に従うことが「喜び」「幸い」「強さ」なのであります。

 聖書に戻ります。「イエス様に聞く」とは本日の福音書箇所では、受難に向かうイエス様と共に十字架を担うことです。しかし、それは自分の力でできるものではありません。日々聖書を読み祈り、主日の礼拝に参列すること等により、それぞれの十字架を負う力が強められ、徐々にキリストの姿に変容させられていくのだと思います。
 神様が山の上で天からの栄光を弟子にまざまざと示して、「イエスに聞き従って受難の道を歩むように」と呼びかけています。私たちは信仰によってそれを負う力を強めていただき、神様によってイエス様と同じ栄光の姿に変えていただけるよう、祈り求めて参りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

『バッハ「ゴルドベルグ変奏曲」に思う』

 1月7日(日)のテレビ朝日題名のない音楽会」の「トップピアニストから届いた!ニューイヤーメッセージ2024」の番組で、あるピアニストの言葉と演奏に心惹かれました。その人はヴィキングル・オラフソン、「アイスランドグレン・グールド」と評されたピアニストです。

 オラフソンがこの番組で演奏したのはバッハの「ゴルドベルグ変奏曲」の一曲目「アリア」です。彼はピアノでこの曲を丁寧に透明感のある音で紡ぎ、癒やしを与えました。 
 とても素晴らしかったので、すぐにCDを購入しました。

 この演奏は以下のURLで聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=utkmiE7PXUI

 オラフソンは番組の中でこう言っていました。
「この曲はバッハが未来へ向けた書いた曲なんです。もし、バッハがこの時代に生きていたら現代のピアノをとても愛したでしょう。強弱がつけられ多彩な表現力を持つ現代のピアノをバッハに与えたら、お菓子屋さんで目を輝かせる子供のようになるのではないかと思います。」と。
 同感です。バッハはチェンバロのために多くの曲を作曲しましたが、バッハが今に生きていたら、この曲をきっとピアノで演奏したと私も思います。

ゴルトベルク変奏曲」は、ヨハン・ゼバスチャン・バッハによる元々はチェンバロのための変奏曲 (BWV 988)です。バッハ自身による表題は「2段鍵盤付きクラヴィ・チェンバロのためのアリアと種々の変奏」ですが、バッハの弟子のゴルトベルクが不眠症に悩むドレスデンのロシア大使であったカイザーリンク伯爵のためにこの曲を演奏したという逸話から、「ゴルトベルク変奏曲」の俗称で知られています。
 この曲のグレン・グールドによる1956年にリリースされたピアノ演奏(モノラル)のレコードは、世界的な大ヒットとなりました。これが彼のデビュー盤でしたが、彼は1981年にもこの曲を再録音(ステレオ)し、また話題になり、その後間もなく逝去してしまいました。グールドの演奏家としての最初と最後が「ゴルドベルグ変奏曲」だったのです。
 今回のヴィキングル・オラフソンのCDは演奏時間が73分です。これは反復記号を忠実に実行し、ゆったりしたテンポで叙情豊かに演奏しているからと言えます(グールドの1956年盤は38分、1981年盤は51分でした)。
 
 この曲の構成と私の印象を記します。
アリア、主題:ト長調
 まるで天上の音楽のように美しい響きで、癒やされます。私には、この世に派遣される前の、父なる神と共にいる天の御国での生活のように思われます。
第1変奏 
 標題をつけるとしたら、「出発」。この世でも生活が始まったような印象です。
第2変奏 
第3変奏 
第4変奏 
第5変奏 
第6変奏 
第7変奏 
第8変奏 
第9変奏 
第10変奏 
第11変奏 
第12変奏 
第13変奏 
第14変奏 
第15変奏 ト短調
 前半の最後の変奏。アリアから第14変奏まではト長調で書かれていましたが、ここではじめてト短調に調性が変わります。「アンダンテ」(「歩く速さで」)です。「ため息の音型」と呼ばれるものが使用され、十字架を背負い、苦悩に満ちた表情のイエス様が歩いて行く様子を思わせます。

第16変奏 
 ここから第2部に入ります。祝祭的な序曲を用いて、後半部の新たなスタートです。
第17変奏 
第18変奏 
第19変奏 
第20変奏 
第21変奏 ト短調
 日の光から真っ暗闇の深淵に落とされたよう、強い絶望感。戦争を表しているのかもしれません。
第22変奏 
 聖堂の天井から降り注ぐ聖歌のような変奏で、平和の到来を喜んでいるようです。静かに祈るようにして閉じられます。
第23変奏 
第24変奏 
第25変奏 ト短調
 全曲中、最も規模の大きい変奏。アダージョ(「ゆったりと」)です。3回目のト短調の変奏で、心の深奥からの嘆きが感じられます。イエス様の受難を見た天の父の嘆きかもしれません。これこそ受難曲で、人間及びイエス様の苦しみが描かれています。
第26変奏 
 ここでト長調に戻ります。闇の後に光が来ます。死は死で終わらないことを示しているように感じます。少しずつ生へと回帰していきます。
第27変奏 
第28変奏 
第29変奏 
第30変奏 クオドリベット
「クオドリベット」とは、ラテン語で「お好きなように」という意味で、音楽では何人かがそれぞれ好きな民謡などを同時に歌う歌遊びのことです。バッハは「長い間会わなかったな、さあおいで」と「キャベツとカブに追い出された。母さんが肉でも出してくれたらもっと長居したのになあ」という2つの民謡からなる旋律を同時進行させています。前者のメロディは、カンタータ第99番「神のみわざはすべて善し」(BWV99)のコラールに類似しています。バッハはこちらのイメージだったように思います。つまり、この変奏で聖と俗を表現し、人生にはどちらもあるということを示したのではないでしょうか?
 「長い間会わなかったな、さあおいで」(または「神のみわざはすべて善し」)に導かれるように冒頭のアリアが回帰されます。
アリア・ダ・カーポ
 長い人生の旅が終わり、出発点であるアリアに戻ってきました。つまり、天上の世界に帰ってきました。「帰天」です。死は死で終わるのではなく、元居た天のふるさとに帰ることです。そしてそれは、神がなさったこと(み業:God's work)です。「神(God)のみわざはすべて善し(good)」)なのであります。

 バッハの「ゴルドベルグ変奏曲」は、私たちが父なる神と共にいた天の御国からこの地上に派遣され、様々な喜びや楽しみ、また悲しみや苦しみを味わい、そこで聖と俗の中で生き続ける人生が表現されていたように思います。そして、最終的には天に帰り、「神と共に住まう」という旅路が描かれていた、と。
「ゴルドベルグ変奏曲」からこのようなことを思い巡らしました。