マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『ザ・ローリング・ストーンズの「Prodigal Son(放蕩息子)」に思う』

 先主日の説教「愚かな金持ちのたとえ」において、自分のためだけに財産を蓄える者を神様が「愚かな者」と呼び、日野原重明医師の「生きることの質」の中で「何かを失うのではないかと心配し思い煩っている人は貧乏人」という言葉を紹介しました。つまり、「愚かな者」は貧しい者ということでした。そこから思い浮かんだ曲があります。それはザ・ローリング・ストーンズの「Prodigal Son(放蕩息子)」という曲です。ビートルズと並ぶロックの大物バンド、ローリング・ストーンズですが、聖書からのたとえ話を曲にしているのは意外と言えるかもしれません。
   私はローリング・ストーンズの「Prodigal Son(放蕩息子)」をこのレコードで聴いていました。1968年発表の「ベガーズ・バンケット」です。

 このレコードは中3の時にストーンズで最初に買ったLPで、繰り返し聞きました(ちなみに最初に買ったシングルは「この世界に愛を(We Love You)」です)。
 このLPのB面の2曲目が「Prodigal Son(放蕩息子)」でした。放蕩息子のことを「貧乏な少年(poor boy)」と表現していました。以下のアドレスで聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=humDgJ-SmHI&list=RDhumDgJ-SmHI&index=1 

 歌詞と訳はこうです。

Well , the poor boy took his father's bread 
And started down the road , started down the road
Took all he had and started down the road 
Goin' out in this world , where , God only knows
And that will be the way to get along
そう 貧乏な少年は父親から金を貰って 
旅に出た 旅に出た
行き先は 世界の何処だか分からない
それが1人で生きていく道だ

Well , the poor boy spent all he had
And famine come in tha land , famine come in the land
Spent all he had and famine come in the land
Said , "I believe I'm gonna hire me to some man
And that will be the way I'll get along.
そう 貧乏な少年は持ち金総てを使い果たした
その国に飢饉が来た 飢饉が来た
持ち金総てを使い果たし、その国に飢饉が来た
彼が言った”僕は誰かに雇って貰いたい”
それが生きていく道だ

Well , the man said , "I'll give you a job , boy , To feed my swine ,
Boy , to feed my swine.
I'll give you a job boy' to feed my swine"
And the boy stood there and hung his head and cried
Because that's no way to get along.
そう ある男が言った”雇ってやるぜ 坊や
俺の豚に餌をやる仕事だ
坊や 俺の豚に餌をやるなら
食べさせてやろう 坊や 豚に餌をやるんだ”
その少年はそこに立って頭を下げて泣いた
だって それしか生きる道はない

Said "I believe I'll ride , believe I'll go back home
Believe I'll go back home
Well believe I'll ride , I'll go back home.
Go down the road as far as I can go And that'll be the way to get along.

その少年は言った”旅立とう 家に戻ろう 家に戻ろう
そう 旅立とう 家に戻ろう
精一杯 歩こう
それが生きて行く道だ

Well , the father said ,
"See my son coming after me , Coming home to me"
The father ran and fell down on his kneeds ,
He sung and prayed
"Load , have mercy on me ," I said
そう 父親は言った
”私の息子が私のもとに帰ってくるのをご覧 私の家に戻ってくる”
父親は走って 跪(ひざまず)いて 歌い祈った
”神よ 私に恵みを お与えください”

Well , the poor boy stood there ,
Hung his head and cried , hung his head and cried.
The poor boy stood and hung his head and cried , yeah
Said , "Father , will you look on me as a child?"
そう 貧乏な少年はそこに立ち
頭を下げて泣いた 頭を下げて泣いた
貧乏な少年は立ち 頭を下げて泣いた そして言った
”父さん 僕を子供として見てくれますか?”

Well , the father said to the eldest son
"Kill the father calr and call the family round.
Kill that calr and the call the family round.
My son was lost and now he is found".
Cause that's the way for us to get along , hey
そう 父親は年上の息子に言った
”太った牛を殺し 家族を集めよう
太った牛を殺し 家族を集めよう
私の息子は居なくなったけど戻って来た”
そんな息子を赦すのも生きていく道だ

 この曲は有名なルカによる福音書15:11-32の「放蕩息子(いなくなった息子)のたとえ」に基づいています。ほぼ福音書の内容に忠実と言えます。
 この曲をアルバムに入れて録音したのは、ミック・ジャガー始めローリング・ストーンズのメンバーが自分たちを「放蕩息子」、そして「貧しい者」と意識していたからだと思います。
 先主日の説教でいえば、「貧しい者」とは「愚かな者」の言い換えです。「愚かな者」は、ギリシャ語で「アフローン」という言葉で、「神を知らない者」「神を忘れた者」という意味です。ストーンズの「Prodigal Son(放蕩息子)」の曲では、父(神)を忘れた「poor boy(貧乏な少年)」が回心し、父(神)の許に帰れば赦されることが、歌われています。貧しく愚かな者であっても自分の罪に気づき、方向転換して神に立ち帰れば救われるという真理がここに示されています。
 なお、この曲はロバート・ウィルキンスの「That's No Way To Get Along」が元歌で、彼は、ブルースを歌っていましたが、ある時自分の演奏するパーティーでひどい喧嘩が起こり、それをきっかけに回心し、説教者となりその後は、ゴスペルなどを録音したそうです。やはり人生においては、回心、神に立ち帰ることが大事なのだと思いました。
 ローリング・ストーンズの「Prodigal Son(放蕩息子)」から、このようなことを思い巡らしました。

 

聖霊降臨後第8主日 聖餐式 『神のために豊かにされる』

 本日は聖霊降臨後第8主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、コヘレトの言葉1:12-14、2:18-23とルカによる福音書12:13-21。「愚かな金持ちのたとえ」の概略を知り、自分の富だけを求めることなく、それを他者と分かち合うことによって生きることの質が高まり、神のために豊かにされるよう祈り求めました。日野原重明医師の「生きることの質」から文章を引用しました。

   神のために豊かにされる

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第8主日、聖書日課は特定13です。福音書ルカによる福音書12:13-21の「愚かな金持ちのたとえ」です。「貪欲」(15節)と「神のために豊かになる」(21節)とに囲まれたこのたとえは、旧約聖書日課のコヘレトというイスラエルの王の言葉に対応しています。
 福音書を中心に考えます。この箇所は2つの部分からなっています。①命と財産(13-15節)、②命を支えるもの(16-21節)です。
 今日の箇所を振り返ります。

 群衆の一人がイエス様のところに来て、「先生、私に遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」と言いました。相続のこと、お金のことで頭がいっぱいになっている人がイエス様にそう言いました。イエス様はその人に言われました。
「誰が私を、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と。
 イエス様はこう言いたかったのではないでしょうか?
「私は裁判や調停のためにこの世に派遣されたのではなく、すべての人に神の国の福音を伝えるため、永遠の命をもたらすために神から派遣されたのだ」と。
 さらに、こう言われました。
「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」
「貪欲」とは、欲望をどこまでも追求し、満足することを知らない人の心です。そのことに気をつけ用心せよ、とイエス様はおっしゃいました。また、ここで言う「命」は単に生物学的な意味での命ではなく、クオリティ(質)としての命であり、霊的な命、つまり、「永遠の命」のことです。
 イエス様は「有り余るほど物を持ってい」るということが、「永遠の命」を保証することにはならない、と言うのであります。

 次に、イエス様は一つのたとえを語られました。このような内容です。
「あるところに金持ちがいました。その年、天候もよくその金持ちの畑は豊作でした。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしました。やがて言いました。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建てよう。そして、そこに穀物や収穫物や財産をみんなしまい込んで、「さあ、これから先、何年もの蓄えができたぞ。安心して、食べたり飲んだりして楽しめ』」と。
 この金持ちが言う言葉をギリシャ語から直訳しますと、私の作物、私の倉、私の穀物、私の財産というふうに、皆「私の」という一人称の所有代名詞が何度も出てきます。この金持ちの関心は自分のことだけと言えます。彼は自分のための蓄えができれば安心して楽しめると考えているのです。
 しかし、神様は、『愚かな者よ、今夜、お前の魂(つまり「命」)は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか』と言われました。
 この「愚かな者」は、ギリシャ語で「アフローン」という言葉で、「神を忘れた者」「神を知らない者」を意味します。「この世の秩序は、神様によって成り立っていることを知らない者」という意味です。
 このようなたとえ話をした後で、イエス様は、言われました。「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」 

 このたとえ話は「自分のために自分の財産の蓄えをしても、それは死んでしまったら自分の物にはならない」という話です。だから、一生懸命自分のために蓄えることは意味がない、「空しい」とも取れます。
 そういう意味では、本日の旧約聖書日課のコヘレトの言葉と響き合うものを感じます。今日の箇所には、知恵の探求や労苦の空しさが記されていました。特に21節の「知恵と知識と才を尽くして労苦した人が、労苦しなかった人にその受ける分を譲らなければならない。これもまた空であり、大いにつらいことである。」
これは「先生、私に遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」と始まる今日の福音書の解答の一つになっているとも考えます。
 それは、イエス様の言う「人の命は財産ではどうにもならない」ということであります。言い換えれば、財産をいくら自分の中に貯め込んでも、命の質(クオリティ・オブ・ライフ)を高めることにはならない、ということです。
 では、神様が私たちに求めておられるのはどういうことでしょうか?

 命の質(クオリティ・オブ・ライフ)という言葉で思い浮かべる本があります。それは2017年に105歳で逝去された医師、日野原重明先生の「生きることの質」という本です。

 この本の中にこういう文章があります。
『エーリッヒ・フロムという精神分析学者は次のようなことを言っています。「たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのである。何かを失うのではないかと心配して思い煩っている貯蓄型の人は、心理学的にいえば、どんなにたくさんのものを持っていようと貧乏人、貧しくされた人なのである」と。たくさん与える人が豊かなのであって、何かを失うのではないかと心配し思い煩っている人は貧乏人だというわけです。ですから与える人にならなければなりません。』(P.83-84)
 イエス様は「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない」とおっしゃいました。これは、言い換えれば、私たちが自らの富を他者と分かち合うことによって、私たちの生きることの質(クオリティ・オブ・ライフ)が高まり、神様のために豊かにされる、ということだと思います。
  
 私たちは自分のためだけに財産を蓄えても、「永遠の命」を得ることにはなリません。神様が私たちに求めておられることは、自分の富を神様のために他者と分かち合うことだと言えます。そうすれば本当に豊かになって、「永遠の命」を得ることができると言っているように思います。
 私たちの「思い」や「言葉」や「お金」や「時間」を、他者の中におられる神様のために使うこと、それが「神様のために豊かにされる」ということだと考えます。そしてそれが、永遠の命を得るということなのだと思います。
 私たちが、「愚かな者よ」と呼ばれることのないように、自分の富だけを求めることなく、それを他者と分かち合うことによって生きることの質が高まり、神のために豊かにされるよう祈り求めたいと思います。

『ホルマン・ハントの絵画「世の光」に思う』

 先主日の説教でホルマン・ハントの絵画「真夜中の友人」も活用し、執拗に求め続けることの必要性とそれに応える神様について述べました。この絵では友人の家の戸の前で、執拗に懇願している男性の様子が描かれていました。実は、戸を叩き続ける構図の絵画に、私は月2回、出会っています。それが新町聖マルコ教会の入口に飾られているこの絵です。

 この絵では、イエス様御自身が戸を叩いています。この絵が描いているのはヨハネの黙示録3章20節であると考えられます。
 「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」
 この御言葉はラオディキアの教会に宛ててヨハネが書いた手紙の中にあります。ラオディキアは小アジア(今のトルコ)西部フリギア地方の主要都市です。ヨハネの黙示録が書かれた時代のラオディキヤの教会は霊的に非常に生ぬるい状態にありながら、自分たちの現状には気づいておらず、イエス・キリストが教会の外に立っておられると言われるほど、信仰的に堕落し、悔い改めが必要な状態であったと言われます。

  このヨハネの黙示録3章20節について、ホルマン・ハントは「世の光(The Light of the World)」と題して描いています。

 ホルマン・ハント(フルネームはウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt、1827-1910年)は英国ヴィクトリア朝に活躍したラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)の画家です。ラファエル前派は、ラファエロを規範として形骸化した形式美を求めるアカデミズムに反発し、ラファエロ以前の素朴な初期ルネサンスやフランドル美術に立ち返ろうとしました。最初のメンバーは王立アカデミーの学生3名(ミレイ、ハント、ロセッティ)で、彼らは1848年に「前ラファエロ兄弟団(ラファエル前派)Pre-Raphaelite Brotherhood」を結成しました。
 この絵の題名の「世の光」は、ヨハネによる福音書8章12節に由来します。
「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」。
 この絵は、ある家の戸を叩く主イエス・キリストを描いています。イエス様が持っている7面のランプは、黙示録に書かれている7つの教会を意味しています。イエス様の提げたランプからは、暗闇を照らす温かい光が流れ出し、イエス様の足元に、草に、建物にからまる蔦にも穏やかな温かさを与えていきます。まさに「命の光」です。
  ホルマン・ハントは生涯に「世の光」と題した絵画を3枚制作しています。今回紹介しているのは1851-53年に制作されたオックスフォード大学キーブル・カレッジのチャペルにあるものです。2つ目のヴァージョンは、最初のものと、ほぼ同時期に描き始め、1856に完成し、現在、マンチェスター市立美術館にあります。3つ目のヴァージョンは、1904年に完成し、現在、ロンドンのセント・ポールズ大聖堂の北側袖廊にあるもので、私が見たのはこの作品です。この絵の額の下にはこの聖句が記されています。
「Behold, I stand at the door and knock; if any man hear My voice, and open the door, I will come in to him, and sup with him and he with Me. (Revelation 3-20)
見るがよい、私は戸口に立ち、ノックをする。もし誰かが、私の声を聞き、その扉を開けるなら、私は、その者のもとへ行き、共に食事をするであろう。(ヨハネの黙示録3-20)」
 ホルマン・ハント「世の光」の絵では、イエス様が家の外に立ち、扉を叩いています。この絵を見たある人がハントに尋ねました。「どうしてこの絵の扉の外側には取っ手が付いていないのですか?」と。確かにこの絵の扉の外側には取っ手がありません。ハントは答えました。「人の心の扉の外側には取っ手は付いていない。心の扉を開けられるのは内側からだけである」と。心の扉は内側からしか開けることができず、外側からは開けることができない。だからイエス様は戸を叩いて、扉が開かれるのを待っておられるというのです。

「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」
 イエス様は私たち一人一人の心の扉を叩いておられます。そして私たちが心の扉を開けてイエス様をお迎えして共に恵みの食卓に付く時を待っておられます。この扉を開いた時に、私たちは、主からの愛をいただき罪赦され、豊かにされます。そして、主イエス様との食卓に招かれます。
 私たちは主日ごとにその食卓、聖餐式に預かっています。これは、神の国の世継ぎとされた者たちが神の国でいただく祝宴の先取りの食事です。私たちのためにイエス様が用意してくださった食事です。ここに救いの姿が示されています。感謝して受け取りたいと思います。
 皆さん、世の光である主イエス・キリストは私たち一人一人の家の戸口に立って扉を叩いておられます。私たちは心の扉を開き、主イエス様と共に喜びの食事をさせていただきましょう。

 

聖霊降臨後第7主日 聖餐式 『執拗な求めに応じる神』

 本日は聖霊降臨後第7主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、創世記18:20-33とルカによる福音書11:1-13。「主の祈り」と、一人一人が願う祈りを、日々、執拗に図々しく「求め、探し、叩」き続ければ、神様は必ず求めに応じて聖霊を送ってくださることを知り、そうできるよう、祈り求めました。ラファエル前派の画家、ホルマン・ハントの絵画「真夜中の友人(原題はThe Importunate Neighbour)」も活用しました。

   執拗な求めに応じる神

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第7主日、聖書日課は特定12です。福音書はルカ版の「主の祈り」、執拗に祈り続けることの大切さを教えるたとえ、それに「求め」「探し」「叩きなさい」と神様に願うようにとの勧めです。旧約聖書はこの内容と調和した部分で、創世記の全世界を裁く主に向かいアブラハムがソドムのために必死に取りなす箇所が選択されています。

 福音書を中心に考えます。この箇所(ルカによる福音書11章1節から13節)は3つの部分からなっています。①主の祈り(1-4節)、②真夜中の友人のたとえ(5-10節)、③神の誠実な応答(11-13節)です。
 今日の箇所を振り返ります。

 あるとき、弟子の一人が祈りを終えたイエス様に「祈りを教えてください」と教えを求めました。それに対してイエス様は「祈るときには、こう言いなさい。」とルカ版の「主の祈り」を教えました。2節から4節です。今回はこの箇所は簡単に触れ、その基本だけお話しします。
 イエス様は「主の祈り」を通して「生き方の理想」を伝えました。それは、「神の国」、すなわち神様が支配されている状態を求め実践していくことであり、人間が生きていく上で必要なものは何かを知り、それを求めるということです。それは、創造主である神様を「父よ」と呼び、御名が聖とされることであり、御国が来ることであり、必要な糧を求めることであり、罪の赦しを願うことであり、試みに遭わせないでほしいということです。

 そのような祈りを捧げていくとき、その思いをどのように持ち続けていけばよいかを、イエス様は次の「真夜中の友人のたとえ」といわれる話を通して教えられました。
 私が思い浮かべるこの話についての絵画があります。それは、19世紀、イギリスのラファエル前派の画家、ホルマン・ハントの「真夜中の友人(原題はThe Importunate Neighbour・・・しつこい隣人)」です。

 この絵では野良犬が残飯をあさる真夜中、友人の家の戸の前で、執拗に依頼している男性の様子が描かれています。
 聖書はこう記しています。日課の2ページ7行目、5節から7節です。
「また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちの誰かに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。友達が旅をして私のところに着いたのだが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるに違いない。『面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めたし、子どもたちも一緒に寝ている。起きて何かあげることなどできない。』」
 パレスチナ地方は暑いですから、夕方涼しくなってから歩き始め、時には夜に客人がやって来ることもあるそうです。旅人をもてなすのは当然しなければならないことで、それをしないのは、失礼に当たります。しかし、真夜中ですし、もてなす物も既にありません。それで友達の所にパンを借りにやって来ました。友達は何度ノックをしても起きてくれません。それでも叩き続けたのでしょう。中から断りの返事が聞こえました。
 当時の多くの家は一部屋しかありません。日中は扉が空いていて出入り自由ですが、一旦戸締りをしたら「邪魔をしないでください」という印になるのです。寝る時も地べたの上に藁などを敷いて、家族全員が一緒に眠ることが多いようです。ですから一人が起きると皆を起こすことになります。だから「面倒をかけないでくれ。」ということになるようです。ところが、イエス様はこうおっしゃいました。8節から9節です。
「しかし、言っておく。友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に頼めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう。そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。」
 『執拗に頼めば』とあります。ここは“しつこく求めるなら”と読むこともできますが、直訳は「図々しさのゆえに」です。夜中に友人の家に出向きパンを借りる「図々しさ」があるかどうかが問われています。「面倒をかけないでくれ」と言われても「困っているのだから頼む」と頼み続ける「図々しさ」がありますか?ということなのです。そのようにすれば、『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。』と。これが神様の原則だと言っていると思います。なお、ギリシャ語の二人称・命令形は継続を意味しますので、ここは「求め続けなさい。探し続けなさい。叩き続けなさい」という意味で、そうすれば、原文は未来形で「与えられるだろう。見つかるだろう。開かれるだろう」ということです。人の取るべき態度は「執拗に頼む」ことであり、そうすれば願いが叶えられるとイエス様は述べておられるのです。

  最後にイエス様は、神様の誠実な応答について、こう述べています。11節から13節です。
「あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」
 泳いでいる蛇と魚は一見すると見間違います。ガリラヤ湖で漁をすると魚と水蛇が一緒に網にかかるそうです。子どもが「魚をください」と言うのに、似ているからといって蛇をあげるでしょうか? サソリがとぐろをまくと丸くなって、これも卵に似ているそうです。似ているからといって危険なサソリを与えるでしょうか? いくらあなた方が“悪い者”であっても自分の子どもにはそんなことはせず、良い物を与えるでしょう。まして、天の父なる神様は愛する私たちの求めに応じて聖霊(良い物の以上のもの)を与えてくださるでしょう、とイエス様はおっしゃっておられます。
 聖霊は、祈る私たちを助けるペルソナ(位格)をもった神様です。祈りの中で、私たち自身が整えられ、本当の必要に気づかされたり、具体的な行動の力が与えられたりするのも聖霊の働きと言えます。父なる神様は、祈り求める私たちに良い物の以上のもの(聖霊)を与えてくださるのです。

 私たちはどう祈っているでしょうか? 『執拗に頼』んでいるでしょうか? 頼み続ける「図々しさ」を持っているでしょうか? 
 私は、毎朝、聖務日課の「朝の礼拝」の後、「ロザリオの祈り」を捧げています。この祈りでは、特に病床にある方々の名前を挙げて、その方々の癒しを願い求めています。この中で、使徒信経1回、主の祈り6回、アニュス・デイ「世の罪を除く神の小羊よ、憐れみをお与えください」を53回、栄唱「栄光は父と子と聖霊に 初めのように、今も世々に限りなく」を6回、唱えて祈っています。かなりしつこく執拗に祈っていますが、もっと「図々しさ」を持って求めてもいいのだと今回思わされました。

 皆さん、今日の福音書で、イエス様は、私たちに必要なことは、慈愛の神様に「父よ」と呼びかけて祈り、執拗に「求め、探し、叩」き続けることであるとおっしゃっておられます。それを忠実に行えば、祈りに誠実に応える神様は必ず聖霊を私たちに送り、必要な助けを与えてくださいます。私たちは聖霊によって常に新たにされ、新たな力を手にするのであります。
 イエス様が教えてくださった「主の祈り」と、一人一人が心に願う祈りを、日々、執拗に図々しく「求め、探し、叩」き続けることができるよう、祈り求めたいと思います。

 

『「ザ・ビートルズ:Across the Universe」に思う』

 先主日福音書「マルタとマリアの話」では、主イエス様のみ言葉を聴くことの重要性が語られました。神の愛を示すことの第一歩が神の言葉に耳を傾けることであり、それが永遠の命へと通じる道であるということでした。
 言葉の重要性については、今、見ているビートルズの「Get back sessions」でジョン・レノンリードボーカルを務めた「Across the Universe」の曲を思い浮かべます。下のアドレスから垣間見ることができます。
 https://www.youtube.com/watch?v=iLtAzE3izng

「Across the Universe」の歌詞と和訳を示します。

Words are flowing out like endless rain into a paper cup
They slither wildly as they slip away across the universe
Pools of sorrow waves of joy are drifting through my opened mind
Possessing and caressing me
Jai guru deva om
Nothing's gonna change my world (×4)

言葉が降り止まない雨のように紙コップに溢れ
激しい流れとなって、宇宙の彼方へ消えていく。
悲しみの溜まりと喜びの揺らぎは僕の心を漂いながら
僕を包み、撫でていく。
ジャイ・グル・デヴァ・オム(我らの道師よ、神に栄光を)
何ものも僕の世界は変えられない

Images of broken light which dance before me like a million eyes
They call me on and on across the universe
Thoughts meander like a restless wind
Inside a letter box they
Tumble blindly as they make their way
Across the universe
Jai guru deva om
Nothing's gonna change my world(×4)

屈折した光の残像が無数の瞳のように僕の目の前で踊り出し
宇宙の至る所から僕に呼びかける。
思考は郵便箱の中のつむじ風のように交錯し
闇雲に転げまわりながら
宇宙の至る所へ進んでいく
ジャイ・グル・デヴァ・オム
何ものも僕の世界は変えられない

Sounds of laughter shades of life are ringing
Through my open ears inciting and inviting me
Limitless undying love which shines around me like a million suns
It calls me on and on, across the universe
Jai guru deva om
Nothing's gonna change my world(×4)

笑い声と生命の影が僕の耳で鳴り響き
僕の心をかき立て、僕を招き入れる。
際限の無い不滅の愛は無数の太陽のように、僕を囲んで輝き
宇宙の至る所から僕に呼びかける
ジャイ・グル・デヴァ・オム
何ものも僕の世界は変えられない

 哲学的な難解な歌詞をジョンが歌い上げています。繰り返し歌われる「Jai Guru Deva Om…」は、サンスクリット語で「我らの導師よ、神に栄光を)」の意味です。この曲の歌詞の背景には、当時ビートルズが影響を受けたヒンズー教の教祖の教えが反映していると言われますが、私にはキリスト教の影響を感じずにはいられません。
 冒頭の「Words are flowing out like endless rain into a paper cup. They slither wildly as they slip away across the universe. (言葉が降り止まない雨のように紙コップに溢れ 激しい流れとなって、宇宙の彼方へ消えていく。)」は、主イエス様である言葉(ロゴス)が全世界、全宇宙に溢れて広がっていくというイメージです。
 ヨハネによる福音書1章 14節にこうあります。
「言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
  この「言」がロゴスでありイエス様を示しています。そして、この節では、神が私たちを愛するがゆえに人となりこの世に現れたことを意味しています。Johnはヨハネの英語表記です。ヨハネは、イエス様から特別に愛され、イエス様が十字架につけられた時もそれを目撃した唯一の弟子です。John(ヨハネ)が「Words are flowing out like endless rain into a paper cup.(言葉が降り止まない雨のように紙コップに溢れ)」と歌っているのも偶然とは思えません。
 最後の節の「Limitless undying love which shines around me like a million suns. 
It calls me on and on, across the universe. (際限の無い不滅の愛は無数の太陽のように、僕を囲んで輝き 宇宙の至る所から僕に呼びかける。)」神の愛は太陽のように全ての人に注がれていることを示していると考えられます。
 「Across the Universe」からこのようなことを思い巡らしました。ビートルズの曲にはキリスト教の影響が大きくあるというのが私の実感です。

 

聖霊降臨後第6主日 聖餐式 『イエス様の言葉に聞き入る』

 本日は聖霊降臨後第6主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、創世記18:1-10bとルカによる福音書10:38-42。『マルタとマリアの話』から、「主の足もとに座って」主の言葉に聞き入ることこそが必要であることを知り、このような態度で、日々、神様の前に身を置き、主の言葉を聴くことができるよう、祈り求めました。フェルメールの「マルタとマリアの家のキリスト」や英隆一朗神父の「イエスに出会った女性たち」も活用しました。

   イエス様の言葉に聞き入る

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第6主日です。旧約聖書は「創世記」のアブラハムが三人の旅人に給仕する箇所、福音書では「ルカによる福音書」のマルタとマリアのイエス様一行へのもてなしの箇所が読まれました。

 福音書を中心に考えます。
 先主日福音書では、ある律法の専門家が「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」とイエス様に問いました。イエス様は彼に「律法には何と書いてあるか」と逆に問われました。専門家は、「『心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と正しく答えます。そこで語られたのが有名な「善きサマリア人のたとえ」です。それは「隣人を自分のように愛しなさい」に関わったたとえ話でした。
 今日の箇所では、残された一つ、「心を尽くして神を愛する」とはどういうことかに重点が置かれています。

 今日の箇所を振り返ってみましょう。
 今日登場するのはユダヤ人の二人の女性です。当時の女性は社会の中心にはいませんでした。神殿においても、女性が入れる場所は限られていました。今で言えば、この聖堂に入れるのは成人男性だけで、女性や子どもは玄関までということです。しかし、イエス様の周りには12弟子を始めとする男性の弟子たちと共に女性たちがいました。これは当時の社会にあっては考えられない状況でした。今日の箇所を読むに当たって、そういう社会的背景を頭に入れておくことは重要だと思います。

 このマルタとマリアの話は多くの画家が題材にしています。今日はフェルメールの「マルタとマリアの家のキリスト」をプリントアウトしてきました。

フェルメールにしては珍しい宗教画(二枚のうちの一枚)です。この絵は、マルタがイエス様の許へパンを持ってくるところに、イエス様がマリアを指差しながらマルタに話しかけている様子が描かれています。イエス様の表情はマルタの気持を静めているように見え、マリアの方は、低い台に腰をかけてイエス様の話に熱心に聞き入っています。

 聖書本文に入ります。本日の福音書の最初はこうです。38節です。「さて、一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女が、イエスを家に迎え入れた。」
 ここでイエス様と弟子たちの一行がある家に「迎え入れられた」のは、宣教の旅での出来事です。前提とされていることは、マルタの信仰です。彼女は信仰によってイエス様たちを迎え入れたのです。

 そのマルタにマリアという妹がいました。39節です。「彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた」のでした。
 この箇所で「座る」と訳された言葉は、原文では「かたわらに座る」という意味の言葉です。通常の「座る」に「かたわらに」を意味する言葉がついている合成語です。「足元に」とあるのですからそれだけで意味は通じるのに、わざわざ「かたわらに」を付け加えています。その家の中には大勢の人がいるのです。12弟子がいたでしょうし、共に旅をしている他の弟子たちもいたと考えられます。そういう人々が大勢いる中で、マリアはまるで当時のユダヤ人男性がラビ(律法の教師)から学んでいるように、イエス様の足元の最も近い所に座って、「その話を聞いていた」のです。ここの直訳は「彼の言葉に聞き入っていた」です。「話」ではなく「言葉」、ギリシア語では定冠詞がついた「言葉(ロゴス)」、それも「彼の言葉」、つまり「主」の言葉です。その言葉によって人が生きもし死にもする。そういう重要な言葉です。その言葉をマリアは主の足元、かたわらに座って一心に聴いていたのです。

 そのマリアを見て姉のマルタが腹を立てました。40節の前半にこうあります。『マルタは、いろいろのもてなしのために忙しくしていたが、そばに立って言った。』
 「もてなし」とは他の箇所ではしばしば「給仕」や「奉仕」と訳される言葉(ディアコニア)で、極めて大切な言葉です。本日の旧約日課アブラハムの三人の旅人への「給仕」がギリシャ語では「ディアコニア」です。ここで「忙しく」と訳されている言葉は「脇へ」と「そらす」の二つの言葉の合成語で、ここでは受身形ですから「脇へそらされて」という意味です。
 続いて、マルタはイエス様のそばに立って、こう言いました。
「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
 マルタは言葉としては「主よ」と言っています。しかし、彼女には「この家の主人は私だ」という思いがあるように思います。彼女はマリアにも腹が立っているのですが、そのマリアを目の前にし、自分が忙しく働いているのを見つつ、何もおっしゃらないイエス様にも腹を立てたのです。
 
 そのイエス様はこうおっしゃいました。41・42節です。
「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」
 聖書の中で、神様やイエス様が名前を二度呼びかける場面は、いずれも重要なことを語る場面です。ここでの繰り返し「マルタ、マルタ」は愛情のこもっている呼びかけです。マルタは今、「いろいろなことに気を遣」っている、とイエス様は言われます。そして、「思い煩っている」と。愛情のこもった助言です。
 さらに、イエス様は「マリアは良いほうを選んだ」と言われます。その「良いほう」とは何でしょうか? それはイエス様の言葉を聴くことです。私たちは、御言葉を一心に聴くことによって、初めて神を愛し、隣人を愛することができるのであります。

 この本、英隆一朗神父の「イエスに出会った女性たち」の「8章 マルタの姉妹、マリア-イエスに聴く」の中にこうあります。

『イエスにとって「必要なことは一つだけである」。イエスはまずご自分の救いの言葉をじっくりと聞いてほしいのだ。もてなしもうれしかっただろうが、それよりも自分の教えに耳を傾けてほしいのである。そうでなければ、結局、私たちの思い煩いや、心の乱れは直らないからである。だからこそ、マリアの態度に貴重な意義があると言えるだろう、イエスの言葉をじっくり聴くところに、信仰者の基本的な態度が示されているのである。(中略)イエスは全ての信者にパーソナルで親密なかかわりを求めておられる。イエスと言葉を交わし、心の触れ合いを味わったマリアは、たしかに良いほうを選んだのである。』
 イエス様は私たちがイエス様の言葉、御言葉を聴くことを望んでおられます。それに応えるにはどうしたらいいでしょうか? 日々、神様の前に身を置き、主の足元、かたわらに座って、聖書を読み祈ることではないでしょうか? 

 私は、特別なことがない限り、聖務日課として毎日、祈祷書の「朝の礼拝(または「朝の祈り」)」を行っていますが、その中で聖公会手帳の「聖書日課」の「第1日課及び第2日課」の箇所を読み、祈っています。最近は、病床にある人が多いので、「朝の祈り」の後、名前を挙げて癒しを願い「ロザリオの祈り」を捧げています。これは、皆さんにもお勧めできる神様とのパーソナルな時間です。

 皆さん、今日の聖書個所で神様は、もてなしや奉仕は大切だが、あれこれ手をつけ「気を遣い、思い煩ってい」る状態でなく、「主の足元に座って」主の言葉に聴き入ることこそがお望みであることを示されました。私たちはこのマリアのような態度で、日々、神様の前に身を置き、主の言葉を聴くことができるよう、祈り求めたいと思います。

 

『「ザ・ビートルズ: Get Back」に思う』

 7月13日に「ザ・ビートルズ: Get Back」DVDコレクターズ・セットが発売されました。早速購入し、途中まで見ました。

 「ザ・ビートルズ: Get Back」は、ビートルズが1969年1月に行った、いわゆる「ゲット・バック・セッション」の模様を記録した全3部構成、合計約8時間の長編ドキュメンタリー映画です。予想以上に美しい画像でした。高校1年の時に見た映画「Let It Be」を思い出しますが、50年以上経って「ゲット・バック・セッション」を家庭で長時間、鑑賞できる恵みを実感しています。
 曲では、やはりタイトルナンバーの「Get Back」が印象深く、歌詞はキリスト教的だと感じました。
 ルーフトップコンサートにおける「Get Back」を下のアドレスで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=Iv11BRLklew

「Get Back」の歌詞と和訳はこうです。

Jojo was a man who thought he was a loner But he knew it couldn't last
Jojo left his home in Tucson, Arizona For some California grass
ジョジョは思ってた自分は一匹狼だって 
でも分かってた それは長く続かないって
ジョジョは故郷を後にした アリゾナのツーソンから 
カリフォルニアの「草」を求めて

Get back, get back Get back to where You once belonged
Get back, get back Get back to where You once belonged
Get back Jojo  Go home
戻ってこい 戻ってこいよ かつてお前がいた場所に
戻ってこい 戻ってこいよ かつてお前がいた場所に
戻ってこい ジョジョ  故郷に帰るんだ

Sweet Loretta Martin thought  She was a woman  But she was another man
All the girls around her say  She's got it coming  But she gets it while she can
可愛いロレッタ・マーティン  自分を女と思ってるけど  実は男だったのさ
まわりの娘達はみんな  女の子だって言ってるけど そう見えている間だけさ
 
Get back, get back  Get back to where  You once belonged
Get back, get back  Get back to where  You once belonged
Get back Loretta  Go home
戻ってこい  戻ってこいよ  かつてお前がいた場所に
戻ってこい  戻ってこいよ  かつてお前がいた場所に
戻ってくるんだ ロレッタ  故郷に帰るんだ

Your mother's waiting for you  Wearing her high-heel shoes  
And her low-neck sweater  Get back Loretta  Go home
お母さんが待ってるぞ  ハイヒールを履いて
ローネックのセーターを着て  戻ってこいよ ロレッタ  故郷に帰るんだ

Get back, get back  Get back to where  You once belonged
Get back, get back  Get back to where  You once belonged
戻ってこい  戻ってこいよ  かつてお前がいた場所に
戻ってこい  戻ってこいよ  かつてお前がいた場所に

 最初の節の「カリフォルニアの草(California grass)」については、マリファナ大麻)の暗喩との解釈があります。そうであれば、ジョジョは薬物(麻薬)依存症であると考えられます。また、最後の節のハイヒールを履くロレッタは、LGBTQの一種、性同一性障害であると考えられます。
  そのようなマイノリティーであるジョジョもロレッタに対して、かつていた場所、故郷に帰ように促されています。どのような場合でもGet back(戻ってくる)ことで解決がなされると言っているように思いました。

 このことで思い浮かぶのは「詩編23編」です。今回は新共同訳です。
詩編23編
1【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 
2 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 
3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。 
4 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。 
5 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。 
6 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。

 詩篇23編は、ダビデの晩年の歌と言われています。詩篇23編では、ダビデは、自らを一頭の「羊」、そして神を「羊飼い」としています。 
 3節に「(主は)魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。」とあります。ここでは、「魂を生き返らせ」の「生き返らせ」に使われている原語のヘブライ語は「シューヴ」です。シューヴの本来の意味は、「神に立ち返る」「悔い改める」ですが、この詩では、「生き返らせ」になっています。英語の聖書(NIV,NRSV)では、“He restores my soul.”でした。“restore”には「回復する、元気を取り戻す、生き返る」といった意味があり、ここはやはり「生き返らせる」が訳としてしっくりきます。
 ダビデは、最後に、神への信頼に堅く立つ言葉を歌っています。6節です。
「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」                                          
 ここの「主の家にわたしは帰り」の「帰り」も「シューヴ」です。「主の家に帰り」、そこに生涯とどまるとしているのは、「主の家に住まう」ことだと言えます。

 「シューヴ」のギリシャ語訳は「メタノエオー(悔い改める)」であり、イエス様はそれを私たちに求めておられます。
 ビートルズの「Get Back」から、神に立ち帰ること、悔い改めること、神はそのことを求めておられる、そのようなことを思い浮かべました。