マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

「前橋聖マッテア教会の宣教初期」等から思うこと

 前々回のブログで、朝日新聞群馬版の「まちなか教会群(前橋市)」等について思い巡らしました。今回は、前橋聖マッテア教会の宣教初期から、もう少し話題を広げたり深めたりしたいと思います。
 前橋聖マッテア教会の宣教は、1889(明治22)年に始まりましたが、それ以前に群馬県においては既にキリスト教がある程度受容されていました。『統計集誌』 第82号(1888(明治21)年6月)による府県別キリスト教信徒数(プロテスタントのみ)を見ると、東京5267人、大阪1678人、神奈 川1423人、兵庫1026人についで群馬は第5位、985人であったことが記されています。その要因としては群馬県が、明治期以前から養蚕・蚕種製造・製糸および織物業が盛んな土壌であり、開国後に欧米諸国と蚕種や蚕糸等の取引によりキリスト教が持ち込まれ、それに関わる者等によってキリスト教活動が支えられたためと言われています。そし、製糸業社の社長や上司がキリスト者であるとき、関係者ことに女工たちが集団で受洗する場合が多かったゆえと考えられます。前橋製糸原社社長の深澤雄象と前橋ハリストス正教会、碓氷社社長宮口治郎と安中教会の関係などが思い浮かびます。当時「東のハリストス、西の組合」と言われるほど、群馬においてこの2つの教派は教勢を誇っていました。

 では、聖公会、ことに我がマッテア教会はどうだったかと言えば、多少違う状況だったようです。
 前橋聖マッテア教会は、1945(昭和20)年8月5日の空襲により聖堂を消失します。そのため教籍簿等、戦前の資料がほとんどありません。空襲を免れた信徒の家庭に保存された写真等を収集して資料としていますが、そのほかには日曜叢誌や基督教週報での当教会に関する記事や日本に派遣された宣教師の本国への報告等から、当時の状況を知ることができます。
 前任者の平岡司祭から引き継いだ資料の中に、The Japan Mission of The American Church (Robert W. Andrews)がありました(出版は1908年)。

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 著者のアンデルス司祭は1899(明治32)年に来日し、京都及び北東京地方部(現在の東京教区の一部並びに北関東及び東北教区)で伝道し、当教会には1911(明治44)年に赴任しました。
 The Japan Mission of The American Church (Robert W. Andrews) の中に、「前橋MAEBASHI」の項目がありました。

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 「MAEBASHI」を翻訳しました。
『この宣教はH. S. ジェフリー師によって18~19年前に始められた。当時、彼は前橋中学校の英語教師であった。彼は、聖書を学びたい生徒のために聖書クラスを始めた。希望者が多数ゆえ、礼拝を守り「人々への説教」を決心して、彼の自宅に集まるようになった。
 人数も増えていき、聖マッテアでの宣教が始まり盛んとなり、ジェフリーがその学校を去った時、主教はJ. L. パットン師を派遣し、当地での定期の宣教が定着した。当時、日本での宣教は困難を極め、どんな理由でも宣教を妨げられることがあった。ある時はパットン氏の犬が人を噛み、反感を買い彼の排除運動にまで発展した。J. アンブラー師が彼の後を引き継いだ。当時、アーヴィングの教義が日本で普及しており、彼はそれを奉じていた。
 L. ドーマン師が引き継ぎ、その後、すぐにジェームズ・チャッペル師に代わり、彼の慎重な働き振りで宣教は上向きに発展した。新しい息吹きが人々の間に芽生え始めた。種が蒔かれ、育ち、成長した。外国人宣教師のための家付きの土地が購入されて新しい教会が建てられた。チャッペル氏はそこに5年間滞在した。そして彼が一時帰国した後にチャールズ師が入り、今も現職である。聖なるこの職務は今も激しい迫害の下にはあるが、今までになく生き生きと遂行されている。この聖職にある者の常ではあるが、希望を持って勤めている。
 エヴァンス氏は彼の有能な夫人の助け、またクララ・ニーレー女史や北澤伝道師の援助で働いている。これ以上の人材はいない、それこそが「大成功の宣教」である。彼らの働きこそが賞賛されるべきもので、前橋の教会でのしっかりとした働きを達成している。筆者は4年間、エヴァンス氏の現在の伝道師と一緒に仕事をしたが、この良き働き人とその清廉な生き方を賞賛し書き留めたい。彼以上の真実の友、丁寧親切な相方(相棒)はいない。彼ほど誠実で良心的な信頼できる伝道師は日本聖公会には、今はいない。
エヴァンス氏が言うには、前橋での宣教の最大の問題は、あらゆる宗教に対しての無関心である。宗教に対して無関心な土地柄である。寺でさえ放置され朽ちるに任せてある。神仏にいざなう早朝の太鼓の音も無関心な耳には聞こえず、人々は忙しさを理由に祈ることも忘れて国中に物質主義が蔓延している。
 さらにこの地域の生活には大きな問題がある。豊かさとは縁遠く、めぼしい産業も大きな企業も存在しない。生活は厳しく、生きていくことだけでも多くの困難を伴っている。祈る時間もなく神への信仰から得られるであろう導きにもご加護にも関心を払わず、明日のことを思い煩っている。日本に限られたことではないが、これらの問題が解決されて過去の話になるときにこそ、新しい世紀が来るのであろう。
 他の多くの宣教同様に、この宣教でも素晴らしい日曜学校がある。それゆえ、教会における将来の見通しにも光が見える。日本での企ての進展に伴いエヴァンス氏はしばらくの間、教区のための機関誌を発行していた。それは宣教の伝達手段として大いに役立った。(日本の)教会では初めての方法と確信する。
 聖公会以外の宗教団体も大きな働きをこの地域と町で果たしている。特筆すべきは組合派教会である。組合派伝道者である新島襄博士もこの地方の出身者である。そして、彼らの成果は自活(自給)である。将来の見通しは明るく希望に満ちている。過年の1906年に多くの若手企業家が集まり、新しい生命の注入が奇跡を起こしている。
 過去数年にわたり数日の午後に警察関係者のための英語講座が企画された。彼らは警察幹部により選抜された犯罪科学にも秀でた良識者であった。2~3年の英語講座が報奨だった。今年は5名の男性がこのクラスから洗礼を受けた。これだけでなく、警察からの親切な厚意が教会の活動の大きな助けとなった。(社会的に)大きな信用と影響力のある方々との良き関係は教会の働きに大きく寄与している。
 前橋地区の周辺は高崎、熊谷、玉村、そしてわずかではあるが信徒が所々に点在している妙義と鳥居があり、担当牧師である司祭ができる限り訪問している。』

 この記事により、前橋の宣教初期の一端を知ることができます。「前橋での宣教の最大の問題は、あらゆる宗教に対しての無関心である。」「生活は厳しく、生きていくことだけでも多くの困難を伴っている。」とあり、この地における宣教の難しさを語っています。しかし、日曜学校や機関誌の発行及び組合派教会の大きな働き並びに英語講座や警察関係者の受洗等について記し、明るい兆しがあることが感じられます。
 今回、私は「警察からの親切な厚意が教会の活動の大きな助けとなった。(社会的に)大きな信用と影響力のある方々との良き関係は教会の働きに大きく寄与している。」の文言に注目しました。

 私たち聖公会は、1534年の英国での創立から政治や経済、教育・医療・福祉等で、大きな働きをしてきました。国家や体制と強い関係性のある教派と言えます。それは、アメリカの初代大統領のワシントンはじめルーズベルト等多くの大統領(最近ではブッシュ大統領(父))が聖公会の信徒だったことや、日本に開国を迫ったペリー、GHQのマッカーサー元帥等多くの軍人(最近ではパウエル国務長官)が聖公会の信徒だったことからも言えると思います。その意味ではこの世の仕事と信仰がつながっている教派とも言えるのではないでしょうか? 

 信仰の証として社会への貢献を行ってきた先達が多くいます。立教大学創立者でもある日本聖公会最初の主教であるC.M.ウイリアムズや聖路加病院を設立したL.トイスラー、日本最初の障害者施設である滝之川学園を創設した石井亮一等々です。
 聖公会が大切にしてきた宣教の5指標(アングリカン・コミュニオン)の中の「③愛の奉仕によって人々のニーズに応答すること」、教会の5要素の中の「3生活の中で福音を具体的に証しすること<マルトゥリア> 」を思います。
 日本、そして前橋の宣教初期においてもその精神は生きていたと考えます。これからも私たちは、「社会的に大きな信用と影響力のある方々との良き関係」を大切にしつつ、信仰の証として社会へ貢献する宣教に努めたいと思います。

 

大斎節第5主日聖餐式 『捨てられた石が隅の親石に』

 本日は大斎節第5主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。お聖堂前の桜が満開です(写真は昨日のもの)。

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 聖書日課はフィリピの信徒への手紙3:8-14 とルカによる福音書20:9-19 。説教では、イエス様こそ、私たちを砕き新しく生きるようにするための「隅の親石」であることを知り、神様の方を向きイエス様につながり、復活日を迎えることができるよう祈り求めました。

    礼拝後、雨の中でしたが、午後1時30分から嶺公園内教会墓地にて「逝去者記念の式」がありました。

 

    『捨てられた石が隅の親石に』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 本日は、大斎節第5主日です。大斎節も終盤、イエス様の十字架がいよいよ近づいて来ました。次の主日は復活前主日、いよいよ聖週に入ります。

 本日の福音書箇所はルカによる福音書20:9-19で、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「ぶどう園と農夫のたとえ」です。この箇所を振り返ります。
『ある人が、ぶどう園を造り、これを農夫たちに貸して、長い旅に出ました。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、次々と3人の僕を農夫たちのところへ送りました。ところが、農夫たちは、この僕たちを袋だたきにして、追い返したり放り出したりしました。
 そこで、ぶどう園の主人は、『どうしようか。わたしの愛する息子を送ろう。この子なら、たぶん敬ってくれるだろう』と言って、一人息子を送りました。すると、農夫たちは『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、財産はこちらのものだ』と、この息子をぶどう園の外に放り出して、殺してしまいました。当時の決まりによると、相続人のいない財産はそれを最初に占領した者の財産となりました。農夫たちは不在地主の息子が来たのを見て、地主が死んだと思い、跡取りを殺せば財産が自分たちのものになると考えたのでしょう。これに対して、ぶどう園の主人は、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない』と、イエス様は言いました。すると、これを聞いていた人々は、「そんなことがあってはなりません」と言いました。・・・

 このたとえ話の、ぶどう園の主人とは誰のことでしょうか? また、ぶどう園とは何のことでしょうか? 農夫たち、僕、息子とは誰のことでしょうか?
 このたとえの中の、ぶどう園の主人、すなわちぶどう園の所有者とは、父なる神様のことであり、ぶどう園とはイスラエル、そのぶどう園で働く農夫とは、イスラエルの民のことを表していると考えられます。「長い旅」とは、旧約聖書の長い歴史のことです。また、次々と送られた3人の僕とは、神様から遣わされた預言者たちを意味しています。例えばエリヤであり、イザヤであり、エレミヤです。そして、最後に遣わされた「息子」とは、子なる神であるイエス様であります。 
 物語に即してたとえを解釈するとこうなります。
 神様は、イスラエルの民を選び、神の民とすることを約束されました。イスラエルの民は、神様に選ばれた民として、律法が与えられ、神様の御心に従って生きることを約束しました。しかし、彼らは、その約束、契約を破り、神様の言うことを聞きません。そこで、神様は、次々と預言者たちを遣わして、神様との契約に立ち帰ることを求めました。しかし、イスラエルの民は、預言者たちに危害を加え、追い返しました。そして、最後に、神様は、「愛する息子」であるイエス様をこの世にお遣わしになりました。ところが、イスラエルの民は、イエス様を殺してしまいました。
 イエス様が、この何千年にも渡る歴史的な事実を、たとえとして語られると、人々は、「そんなことがあってはなりません」と言って、農夫たちを非難しました。

 さらに、イエス様は、この話を聞いていた人々を見つめて言われました。
「それでは、こう書いてあるのは、何のことか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石が落ちて来た者は、押し潰される」と。
 この最初の部分は、詩編118編22節「家を建てる者の捨てた石が隅の親石となった。」の引用です。
 当時のこの地方の家や建物は、石を積み上げて作られていました。石工は、ちょうど良い石を選び、要らない石を捨てていました。しかし、時代が変わり、次の新しい建物が建てられる時には、この捨てられた石が、石工の目にとまり、次の建物の親石(コーナーストーン)となって、新しい建物の基礎なる石として取り上げられるというのです。これはイスラエルの民によって、捨てられた石、すなわちイエス様が、親石として、大役を果たすことになるということと考えられます。
 そして、18節の「その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石が落ちて来た者は、押しつぶされる」という御言葉は、隅の親石となる主イエス様を拒み、敵対するなら、その人は滅びに至る、ということを意味していると考えられます。言い換えれば、この石としっかり結び合わされることによって、神様による救いにあずかることができ、神の民の一員となることができるというのだと思います。
 また、この引用は、今、目前に迫っているイエス様の十字架の死、受難の予告にもなっています。受難、十字架の死、それに続く復活によって、ご自分が「隅の親石」となる新しい家、救いの家が建てられていくことをイエス様は示そうとしておられるのです。
 多くの人々に交じって、イエス様の話を聞いていた祭司長たちや律法学者たちは、イエス様が、自分たちに当てつけて、このようなたとえを話されたのだと気づいてイエス様を殺そうとしましたが、民衆を恐れて、それはできませんでした。

 このような話でした。今回、この箇所で私が注目したのは17節の「それでは、こう書いてあるのは、何のことか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』」という御言葉です。
 「家を建てる者の捨てた石」、これは先ほどもお話ししましたように詩編118編22節の言葉ですが、通常では考えられない事が起こったということです。この詩編の先はこうです。
「これは主の業 私たちの目には驚くべきこと。今日こそ、主が造られた日。これを喜び躍ろう。」(詩編118編23節~24節)
 主のなさる救いの御業は、人の目には不思議に見えます。人が捨てた石を主は拾い、それを隅の要の石にし、その石をないがしろにする人は、その石に押し潰されます。しかし、一旦は石を捨てても神様が拾ってくださる時に、神様の方を向きイエス様につながるとき、神様はその者たちが誰であっても、イエス様によって救ってくださるのです。これは私たちの目には驚くべきことであり、喜び踊るべき御業なのであります。
 今日はこの後、午後1時30分から嶺公園内教会墓地にて「逝去者記念の式」があります。この墓地に眠っている方々は皆イエス様とつながり救われています。私たちは、その信仰の先達に倣いたいと思います。

 皆さん、イエス様は、私たちのために十字架に向かわれました。人々から石のように放り出され、見捨てられたのです。しかし、イエス様は十字架の死から復活されました。それは「隅の親石」となって、私たちを砕き、新しく生きるようにするためです。それは大いなる恵みです。私たちはそのことに感謝し、神様の方を向きイエス様につながり、復活の喜びの日を迎えることができるよう、祈り求めて参りたいと思います。

 

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                      <「逝去者記念の式」の様子>

「まちなか教会群(前橋市)」に思う

 日曜の朝、朝日新聞群馬版に前橋市内の「まちなか教会群」の記事が載り、当マッテア教会や私の話も紹介されていました。「まちなか教会群」というのは元々、前橋市文化スポーツ観光部文化国際課が発行した「まえばし歴史散策ガイドブック」の中でネーミングされたものと思います。そのページを下に示します。

 この中で、「県都前橋にキリスト教諸派の教会が密集するという、世界にも、稀なる歴史空間が出現」と記されています。昨年11月には前橋市文化国際課主催のこの5つの教会を巡る企画があり、2つの班、合計20名ほどの方が当教会にも訪れ私が説明をしました。このガイドブックや前橋市のガイドマップを手に、聖堂を訪れる方も時折いらっしゃいます。
 先日の新聞記事は以下のようでした。

 この中で当教会はこう紹介されています。
聖公会は1889(明治22)年に前橋で活動を始めた。前橋城内(現在の県庁付近)にあった県立前橋中学校に米国人宣教師ジェフリスが英語教師として赴任したことがきっかけだ。詩人の山村暮鳥は教会の英語夜学校に通い、後にここで洗礼を受けた。福田弘二牧師(67)は「知識階級や、英語に触れて田舎の因習から抜け出したいと思った人たちが信仰の中心だったのでは」。』
 紙ベースの新聞記事はそれだけでしたが、デジタル版にはマッテア教会の聖堂や私の画像も紹介されていました。下のアドレスをクリックしてください。

ひしめく教会、宗派超えて仲良く 歴史感じた「上州人のアバウトさ」:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 私が新聞記者に話した「知識階級や、英語に触れて田舎の因習から抜け出したいと思った人たちが当初の信者だったのでは」という言葉の裏付けとしては、1889(明治22)年12月22日に最初の受洗者3名が生まれますが、全員が群馬師範学校の生徒だったこと等が挙げられます。当初は、県立前橋中学校の英語教師を兼務する米国人宣教師が通訳を介して礼拝を行っていたようです。なお、当時の前橋中学校は紅雲町(現在の群馬中央病院の辺り)にありました。なかなか英語や欧米の文化に触れることが難しかった当時、英語夜学校を開設していた当教会に英語や欧米の文化等にあこがれた人たちが集まっていたことは想像に難くありません。その典型が後に詩人になった山村暮鳥(当時は木暮八九十)です。彼は代用教員だった堤が岡小学校から往復7里(約28キロメートル)を歩いて、我がマッテア教会の英語夜学校に通いました。そして、暮鳥は、1902(明治25)年6月6日に当マッテア教会でチャペル長老(現司祭)により受洗しました。18歳でした。なお、暮鳥はその後東京聖三一神学校に入学し伝道師になりますが、結核に冒され40歳の若さで天に召されました。

 前述した朝日新聞群馬版の「まちなか教会群(前橋市)」の記事では、「隣接する3つの教会は信徒の層が別々だったことで共存できたのではないか」というような論調がありました。ハリストス正教会は士族や製糸業の関係者、教団前橋教会は政治家などの有力者、マッテア教会は知識階級や英語に触れて田舎の因習から抜け出したい人たち、と。これは結果的にこういうふうにも考えられるということであって、意図的に宣教対象を絞ったわけではありません。私の若い頃はハリストス正教会はクリスマスやイースターの日取りが違っていて、我が教会のクリスマスイブのパーティーのテーブルに「ハリストス正教会様」とプレートを置いて、ゲストを招き交わりがありました。また、教団の教会の日曜学校の聖劇に呼ばれて見に行ったこともありました。「争う」というより「共存」していたと思います。

 今回の紙面で紹介された5つの教会とも、既に創立から100年以上が経っていて、信仰の継承がなされてきた結果として、今日まで存続してきたといえます。マッテア教会の会衆席(ネイブ)に座るとき、様々な時にこの席で祈りを捧げてきた多くの信徒のことを思います。この地にキリスト教諸派の教会が密集しているのは、それぞれの教会で信徒の祈りが続いてきたからであり、そして、それを支えてこられた神様のみ守りと導きがあったからです。その主に信頼して、日々の信仰生活を送って参りたいと思います。

大斎節第4主日聖餐式 『父の家に帰り、父と共にある豊かさを知る』

 本日は大斎節第4主日です。午前・前橋、午後・新町の教会で聖餐式を捧げ
聖書日課はコリントの信徒への手紙二5:17-21とルカによる福音書15:11
-32 。
 説教では、「いなくなった息子(放蕩息子)のたとえ」から、悔い改め、父である神のもとに帰りその豊かさを知り、神が私たちの罪の贖いのためイエス様を生け贄にされたことに気づき、感謝するよう祈りました。
 レンブラント「放蕩息子の帰還」の絵を使って、神様の愛がどのようなものかについても語りました。

    『父の家に帰り、父と共にある豊かさを知る』

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 本日は大斎節第4主日です。3月2日の灰の水曜日から始まった大斎節ですが、もう一ヶ月近くが過ぎました。今年のイースターは3週間後の4月17日ですが、その前日までが大斎節です。本日はバラ色の主日(Rose Sunday)と言われる主日で、長い大斎節の間で一息入れ、リフレシュする主日でもあります(Refreshment Sundayとも言われます)。
 
 今日の福音書ルカによる福音書15:11-32、「放蕩息子のたとえ」としてよく知られた箇所です。今回の新しい訳では小見出しが「いなくなった息子のたとえ」となり、この方がこの箇所の真意を表していると考えます。概略はこうです。
『父から受けるはずの自分の分の財産をもらって、弟息子は家を出ます。そこで身を持ち崩し財産を使い果たしてしまい、家畜の餌も食べることができないほど落ちぶれます。どん底になったとき我に返り、父のいる豊かだった家を思い出します。「父のところへ帰ろう。」息子は、父のもとに戻ります。弟息子が罪を告白すると、息子の帰りを待ち続けていた父は、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と、弟息子を温かく迎え入れます。それに対して、兄息子は怒りますが、父は同じ言葉を繰り返すのでした。』

 この箇所は大きく3つの部分からなっています。ポイントを見ていきましょう。
 最初に15:11-16節です。
 ここでは、まず、弟息子は父親に向かって、「お父さん、私に財産の分け前をください」(12節)と言います。申命記21:17の規定により、長男は2/3、次男は1/3の財産分与を受けることになっていたそうです。これは本来、父親が死んだら受け継ぐことになっている財産の話です。弟息子の心の中で父は死んだも同然なのでしょう。
 続いて17-24節です。 
 弟息子は我に返ります。18・19節にこうあります。
『ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
 弟息子は父親のもとに行きました。これは改心(回心)を示します。神様の方に方向転換することです。すると「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)のです。ここで「憐れに思い」と訳されたギリシャ語は「スプランクニゾマイ」で、この言葉は「はらわた痛む」とも訳せる「痛みを伴い苦しむ相手への共感」を意味します。父が息子を見つけて走り寄るこの箇所には、出て行った息子を思う父親の強い愛情が溢れています。
 最後に25-32節です。
 ここでは兄息子の思いと父の思いが示されます。兄は「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」(29節)というように、人との比較の中で自分は正しいと誇り、「あなたのあの息子」をゆるす父の心が理解できません。それに対して父親は「あなたのあの息子」を「お前のあの弟」(32節)と言い換え、「お前にとって彼は兄弟ではないか」と諭します。父は弟だけでなく兄にも愛情をかけているのです。

 この箇所を読み、気づいたことがあります。それは、帰ってきた弟息子を迎えて、父が「子牛を屠って」祝宴を開いたことです。これは私には、神様が御自分のひとり子であるイエス様を私たちの罪のあがないのため生け贄として献げられたことを思い起こさせました。父の家に戻ってきた息子を喜んで御自分の大事にしている子牛を屠ってくださるのが私たちの神様なのだと思いました。そして、この祝宴は、イエス様の御聖体(聖別されたパン)をいただいている聖餐式のことを表しているのではないかと思いました。
 さらに31節で、父は兄息子にこう言います。
「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。」と。
 兄のそばに父はいつもいたのでした。そしてこれからもいるのです。それは大きな恵みです。しかし、兄はそのことの素晴らしさ・ありがたさに気づいていません。これは私たちにも言えることかもしれないと思いました。毎主日、教会に集い、御聖体に預かっていながら、その恵みに、ありがたさに気づかない。この兄のようではないかと思いました。私たちはもっと父である神様と共にある豊かさに目を向け、感謝したいと思います。
 実は、実は、先週の水曜(23日)に前橋の信徒のKさんのご自宅を訪問し、御聖体を差し上げました。奥様も、大変喜んでおられました。Kさんは車の運転はやめ、礼拝には出られそうにない、とのことでした。これから毎月ご自宅を訪問しようと思います。私たちが毎主日、御聖体をいただけることにもっと感謝したいと思いました。

 ところで、この箇所を表した絵では、レンブラントのこの絵「放蕩息子の帰還」を思い浮かべました。

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 向かって左側の弟息子の衣服はボロボロで使い古したサンダル、足裏には無数の傷があり、惨めな姿を晒しています。しかし、ひざまずいて父の懐に顔を埋める表情からは、安堵感が伝わってきます。また、大きな手のひらで強く抱き寄せる父の愛情に満ちた眼差し。父は「もうお前を絶対離さない」と呟いているように見えます。
 レンブラントは二人の劇的な再会を愛情深く描きました。
 この絵の他の登場人物としては絵の一番右側に兄息子、その左隣には財産管理の男、そして父の後ろには彼らの母と思われる人物が描かれています。この絵は、見る者に神様の愛がどのようなものかを強く訴えかけています。

 皆さん、本日は大斎節第4主日です。私たちは自らを振り返り、この弟息子のように悔い改め、愛情深い父である神様のもとに帰りたいと願います。神様はいつも私たちとともにいてくださいます。その大きな恵みに気づき、その豊かさに感謝しましょう。そして、父である神様が私たちの罪の贖いのため独り子であるイエス様を生け贄にされたことを覚え、イエス様の復活を待ち望み、神様の方を向きイースターを迎える心の準備をして参りたいと思います。

「聖フランシスコの平和の祈り」に思う

 ウクライナでのロシア軍による攻撃、その深刻な被害に心が痛みます。日々、ウクライナの平和のために祈りを捧げています。
 先日、前橋ハレルヤブックセンターで「聖フランシスコの平和の祈り」のクリアファイルを購入しました。表が日本語、裏が英語です。

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 この祈りは、我がマッテア教会では以前からクリスマスイブのキャンドルサービスの最後で唱えていました。
 いろいろなバージョンがありますが、今回はこのファイルのものを記します。

 『 平和の祈り

 主よ
 わたしを平和の器にしてください

 憎しみのあるところには愛を
 傷つけ合うところには赦しを
 疑いのあるところには信仰を
 絶望のあるところには希望を
 暗闇のあるところには光を
 悲しみのあるところには喜びをあたえられるように

 ああ、主なる神よ

 わたしが慰められるよりも慰めることを
 理解されるよりも理解することを
 愛されるよりも愛することを

 なぜなら与えることでわたしたちは豊かに受け取り
 赦すことで赦され
 死ぬことで永遠のいのちによみがえるからです 』

 このファイルの英語バージョンはこうです。
             
 『 for Peace

 Lord,
 make me an instrument of your peace.
 Where there is hatred, let me sow love;
 where there is injury, pardon;
 where there is doubt, faith;
 where there is despair, hope;
 where there is darkness, light;
 and where there is sadness, joy.

 O Divine Master, 
 grant that I may not so much seek
 to be consoled as to console;
 to be understood as to understand;
 to be loved as to love.
 for it is in giving that we receive;
 it is in pardoning that we are pardoned;
 and it is in dying that 
 we are born to eternal life. 

               Saint francis of Assisi 』

 「聖フランシスコの平和の祈り」としてよく知られているこの祈りは、実際は聖フランシスコの作ではありませんが、聖フランシスコの精神を表しているとして、彼の信仰を受け継ぐ人たちによって広く愛されてきました。
 この祈りは、1913年に、フランスのノルマンディー地方で、「信心会」の年報『平和の聖母』(1913年1月、第95号)に掲載されたのが最初のようです。そして、1916年1月、バチカン発行の『オッセルヴァトレ・ロマーノ』紙で公認され、第一次世界大戦の中、人々に広まっていきました。
 さらに、第二次世界大戦が終わった1945年10月、サンフランシスコで開かれた国連のある会議の場で、アメリカ上院議員トム・コナリーがこの「平和の祈り」を読み上げ、それ以降、この祈りが広く知れ渡るようになったようです。
 この祈祷文は、在俗フランシスコ会(第3会)の団体においても愛唱されました。その結果、聖フランシスコの御絵の裏にこの祈祷文が印刷されたものが作成され、広く配られました。この御絵には、祈祷文が聖フランシスコのものだとは書かれていないのですが、この御絵によって祈祷文の作者が聖フランシスコであるという誤解が生じたのではないかと研究者たちは推測しています。

 マザー・テレサは、彼女の修道会でこの祈祷文を毎朝唱え、1979年のノーベル平和賞授賞式においても聴衆に共に唱和することを呼びかけました。1984年のノーベル平和賞を受賞したツツ大主教も、この祈祷文を愛唱していたことで知られています。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は1986年にアッシジ世界宗教会議を開催した際、何度もこの祈祷文を引用し、参加者たちに唱和することを求めました。
 また、現教皇フランシスコは2019年に訪日した際に、長崎の平和公園でのスピーチでこの祈りを引用し、「主よ、私をあなたの平和の道具としてください。憎しみがあるところに愛を、いさかいがあるところにゆるしを、疑いのあるところに信仰を、絶望があるところに希望を、闇に光を、悲しみあるところに喜びをもたらすものとしてください」と述べたのは記憶に新しいところです。

 この祈祷文は3つの部分に分かれており、最初の部分は「憎しみ/愛」「傷つけ合う/赦し」「疑い/信仰」「絶望/希望」「暗闇闇/光」「悲しみ/喜び」という対比が見られ、こうした対照法は中世の祈祷文によく見られるものでした。
 また、2番目の部分は「慰められる/慰める」「理解される/理解する」「愛される/愛する」という3組の受動態と能動態の対照が使われおり、これは、聖フランシスコと行動を共にしたエジディオにちなむ『兄弟エジディオのことば』に類似例があります。
 3番目の部分は「与えることで受け取る」「赦すことで赦される」「死ぬことでよみがえる」の逆説で構成され、福音書に出典を見出すことができます。それは以下の聖句と考えられます。
「与えなさい。そうすれば、自分にも与えられる。」(ルカ6:38)
「赦しなさい。そうすれば、自分も赦される。」(ルカ6:37)
「自分の命を救おうと努める者は、それを失い、それを失う者は、命を保つのである。」(ルカ17:33)

 ウクライナで戦闘が続く中、この平和の祈りが心に響きます。
 プーチン大統領は聖書の言葉を使って、国を守るためには死をもいとわないように兵士たちを激励しましたが、聖書を誤用しているは明らかです。その聖句は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)です。この聖句はイエス・キリストの生き方を示しており、この節の前の12節には「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」とあり、これがイエス様の真意であると考えます。それは同胞のウクライナ人を殺害しているプーチンが行っていることとは真逆です。

 「聖フランシスコの平和の祈り」の冒頭では「主よ わたしを平和の器にしてください」と神様に祈っています。私たち一人一人が平和の器となれるよう、そして、そのための具体的なアクションを起こすことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。

大斎節第3主日聖餐式 『悔い改め、神に立ち帰る』

 本日は大斎節第3主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書日課
出エジプト記 3:1-15とルカによる福音書13:1-9。
 説教では、 「悔い改め(メタノイア)」の意味を知り、試練の時に共にいてくださる神様に信頼し、神様の方を向き神様に立ち帰り、御心に従う人生を歩むよう祈りました。
 シャガール「燃える柴の前のモーセ」の絵を使って「悔い改め」のできる原動力についても語りました。

    『悔い改め、神に立ち帰る』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は大斎節第3主日です。大斎節は灰の水曜日(今年は3月2日)から始まりましたので、そろそろ大斎節の半分が過ぎようとしています。
 
 本日、与えられた聖書のみ言葉から、神様のみ心を尋ねて参ります。
 本日の福音書箇所の最初のところに「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」とありますが、これは比ゆ的な表現で、実際には、「あるガリラヤ人たちが神殿でいけにえを献げようとしていたところをローマ軍によって殺害された」、という事件のことを表しているようです。
 次の「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」も実際の出来事を指していると考えられます。古代エルサレムには町に水を供給するための地下水道があり、その出口にシロアムの池がありました。その塔が倒れて大勢の人が死んだという大事故があったようです。どちらも当時のユダヤ人にとってはよく知られた出来事だったと考えられます。
 イエス様はこの事件と事故についてそれぞれ、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのすべてのガリラヤ人とは違って、罪人だったからだと思うのか。」また、「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるほかのどの人々とは違って、負い目のある者だったと思うのか。」と尋ねておられます。
 ここでイエス様が語られた言葉の背景には、当時の人々の考え方が大きく影響していました。それは、不幸なことと罪には、因果関係があるという考え方でした。不幸な出来事はすべて罪の結果であり、不幸が起こったのは、過去に何かの罪を起こした結果であり、それゆえに災難にあったと理解されていました。しかし、イエス様は「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と言って、罪と不幸や災難を直接結び付ける、そのような考え方を否定し、私たち一人一人が悔い改めなければならないと言われたのです。

 そして、イエス様は、なかなか自分を変えようとしない頑なな人々に対して「実がならないいちじく木」のたとえを話されました。このような話です。
 「ある人がぶどう園に、いちじくの木を植えておき、実を探しに来たのですが、一つも見つかりません。そこで、園丁に言いました。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。切り倒してしまえ。なぜ、土地を無駄にしておくのか。』と。すると園丁は答えました。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください。』」
 イエス様は、このように、たとえ話で話されました。イエス様は、何をどのように、たとえておられるのでしょうか?
 このような解釈があります。
 『「主人」とは神様で、「ぶどう園」とはイスラエルであり、「いちじくの木」とは、ユダヤ人を指している。「園丁」とは、イエス様のことであり、「3年間」とは、イエス様が人々の中でされた宣教活動の期間である』と。
 神様は、イスラエルを選び、そこにいちじくの木、すなわちユダヤ人を置かれました。神様は、そこで、ユダヤ人の一人一人が実を実らせることを期待しておられたのです。ところが、そのいちじくの木は、神様の期待に応えようとせず、一つも実を実らせません。そこで、園丁であるイエス様を送って、期待に応えないユダヤ人を打ち倒せと命じました。するとイエス様は、「悔い改めるよう働きかけをしますので、しばらく待って下さい」と言って猶予を願い、神様に取りなしをした、というのです。

 本日の聖書のキーワードは「悔い改め」だと思います。少し、この言葉について考えたいと思います。
 悔い改めはギリシャ語では「メタノイア」と言います。このギリシア語は「考えを変える」ことを表し、「回心(心を回す)」とも訳される言葉です。 
 ですから、「悔い改め(メタノイア)」とは、「悪いことをしました。もうしません」ということではなく、回心、つまり「神の方に向きを変えること」、「神に立ち帰ること」を表します。そしてそれは、私たちに具体的な行動を求めます。
 
 本日の旧約聖書出エジプト記3章では、エジプトで奴隷となっているイスラエルの人々を救い出すよう神様からモーセが命じられ、戸惑い躊躇する姿が記されています。いわゆる「燃える柴の前のモーセ」です。私が思い浮かべるのはシャガールのこの絵です。

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 シャガールはこの絵の中で複数の聖書のモティーフを描いています。この絵では、向かって右側にいるひざまずくモーセに真ん中の燃える柴とその上にいる御使いが使命を告げています。モーセの頭上には伝統的にモーセの属性とされている2本の「光の角」が描かれています。そして、左では黄色い顔(黄色は使命に伴うしるし)になったモーセイスラエルの人々を引き連れて紅海を渡っています。
 モーセがエジプトで暮らしたのは40年で、次の40年は逃亡して羊飼いとして身を隠すような生き方をしました。40年間、彼は本来いるべきところから逃げていたと言えるかもしれません。モーセが本来の道に立ちかえったのは今日の旧約聖書の箇所であり、この絵のように、「燃える柴」に、つまり神様そのものに出会って、モーセは生き方の修正をせざるをえなくなりました。「私はいる、というものである」、以前の訳では「わたしはある。わたしはあるという者だ」という神様に出会って、彼はエジプトに戻って、イスラエルの民を救う使命を新たに始めた、それはつまり、本来の場所に復帰したと言えると思います。
 モーセを見た時に私たちの回心というのは一体どういうことなのか、と思います。私たちも神様に出会って、自分が本来向かうべき場所に立ち帰り、「主がなせ」という使命を果たしていく。それこそが本当の回心ではないでしょうか?

 悔い改め、回心のできる原動力は何でしょうか?
「私がイスラエルの人々を本当にエジプトから導き出すのですか。」(11節)と戸惑い躊躇するモーセに、神様はこう言っています。12節です。
「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである。」と。
 神様はモーセに「私が命じることはお前一人でするのではない。私がお前と共にいる。だから遣わすのだ」とおっしゃっているのです。これはモーセだけでなく、私たち一人一人にも神様がおっしゃっている言葉です。

 皆さん、私たちは、困難や試練の時に共にいてくださる神様に信頼し、神様の方を向き神様に立ち帰り、御心に従う人生を歩んで参りたいと思います。
 大斎節も半ばとなりました。大斎節は、自分自身の信仰のあり方を吟味する時です。心から悔い改め、心の転換を図り、祈りと克己に努める時でもあります。
 試練の時に共にいてくださる神様に信頼し、神様の方を向き神様に立ち帰り、御心に従う生活をし、復活の喜びの日を迎えることができるよう、祈り求めて参りたいと思います。

 

 

「シャローム・ジャスティス 聖書の救いと平和」に思う

 ウクライナでの戦争が一刻も早く終了するよう祈ります。
 先週の金曜日(11日)に、ハレルヤブックセンター支援会議が福伝前橋キリスト教会で行われました。その折り、「シャロームジャスティス 聖書の救いと平和」という本をいただきました。

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 本書の原題は『Shalom: The Bible's Word for Salvation, Justice, & Peace』、訳せば『シャローム:救い、正義、平和を表す聖書の言葉』というものです。
 今、その本を読み進めていますが、そこでは聖書における「平和」の意味を多方面から追い求めており、新たな示唆を得ています。それは、ウクライナで現実に戦争が行われている今、キリスト者は平和についてどう考え、どう取り組むべきかを語りかけています。
 この本では、メノナイト派を代表する旧約学者ペリー・B・ヨーダーが、「平和」を表すヘブライ語「シャローム」を正義を根底にすえて丁寧に描き出しています。神の正義は、一般的な応報的正義と分配的正義とは異なり、むしろ修復的なものであることを聖書の中心的使信としての「シャロームジャスティス」として提唱しています。

 1章冒頭の「平和は中産階級の贅沢品である」との言葉から土肝を抜けられます。それは、現代のキリスト教会は平和の問題をあまりにも「暴力か非暴力か」という枠組みでとらえすぎてはいないか、そのため不正義の犠牲者に対しても非暴力の「平和」を唱道して、結果的に不正な現状維持に加担し、教会で語られる平和が「中流階級の贅沢」になってはいないか、との問いかけです。
 この本では、聖書本文の中で「シャローム」が意味することを拾い上げています。そしてそれを「元気(創世記29・6)」「(身体の)健全(詩篇38・3)」「友好のことば(申命記2・26)」「親しい者(詩篇55・20)」「安心(士師記19・20)」「無事(Ⅱサムエル18・29)」「繁栄(詩篇37・11)」「(豊作による)安らか(レビ記26・5)」「(戦勝による)安らか(エレミヤ43・12)」など、実にさまざまな言葉で訳し分けられていることが示されます。「シャローム」とは、すべてのものが「あるべき状態にあること」であり、それらすべてが「平和」と訳されるとは限りません。それだけ私たちには気づきにくい形で、聖書では「シャローム」があちこちに語られていることが分かりました。

 本書では、神の意志として「シャローム」(物事があるはずの状態)のヴィジョンとしてイザヤ2章2-4節が紹介されています。聖書協会共同訳で示します。
『終わりの日に 主の家の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。 国々はこぞって川の流れのように そこに向かい 
 多くの民は来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。私たちはその道を歩もう」と。教えはシオンから 主の言葉はエルサレムから出るからだ。
 主は国々の間を裁き 多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤に その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず もはや戦いを学ぶことはない。』
  ここでは、「シャロームは人々が神への従順において生きる-神の道を学び、その道を歩む-そのときに、結果として生じる。神の意志がなされるときに、シャロームは経験される。」と記されていました。ウクライナにおいても、できるだけ早く「剣を鋤に その槍を鎌に打ち直す。」状況になるよう祈るものであります。

 また、いわゆる「平和」にとどまらないシャロームの意味の広がりから、本書はシャロームを正義や救いを表す語としてもとらえ直しています。シャロームはしばしば正義と並立的に用いられ(イザヤ32・17、ヤコブ3・18)、物理的・身体的な苦境からの解放、不平等の改善や権利の回復といった関係性の正常化、道義的に誠実で責めるべきところがないことを意味します。シャロームに対応するギリシャ語(エイレーネー)では神の属性としての意味(「平和の神」)が加わることから、シャロームは聖書的正義の理解にとっても不可欠となるとしています。なお、本書ではへブライ語ミシュパトをjustice(正義)、ツェダカーをrighteousness(義)と訳しています。
 神の正義は、「応報的正義」また「分配的正義」とは異なり、不正義の構造をあるべき状態に正し、抑圧される者を回復し、困窮する者の必要を満たす正義であるとして、それを「シャロームジャスティス」と呼んでいます。
 さらに、「シャロームジャスティスには2つの側面がある。すなわち、困窮している者への援助が1つ、もう1つが抑圧する者の力の破壊だ」としています。そして、次の言葉が胸に突き刺さりました。
『なぜ、教会とキリスト者は、慈善-余剰の分配-には積極的でありながら、困窮を容認し、慈善が必要となる構造自体を変えることには比較的消極的なのだろうか。シャロームをつくり出すことは、力なき者の必要を満たし、彼らの困窮を引き起こす抑圧からの解放を要求することではないのか。平和をつくり出す者は、抑圧する者と抑圧的な構造に対して闘わなければならない。なぜなら、それの力が砕かれるまでは、困窮し抑圧される者たちは自由になれず、シャロームはあり得ないからだ。』

 ウクライナでの戦闘が激化し、女性や子どもまでが多くの被害を被っている現実を目の当たりにして、今、私たちは何をすべきでしょうか? ウクライナの人々に対する物資等の支援とともに、「シャロームジャスティス」に配慮し、不正義の構造をあるべき状態に正し、力なき者の必要を満たし、彼らの困窮を引き起こす抑圧からの解放を目指したいと思います。そして、それは遠いウクライナのことだけでなく、私たちの身近にある不正義の現実に目を向けることであると考えます。私たちキリスト者は、神の御旨である「シャローム」をつくり出すことができるよう、日々、祈り求めなければならないと思うのであります。