マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第2主日聖餐式 『神の国の狭い戸口から入る』

 本日は大斎節第2主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書日課
フィリピの信徒への手紙3:17-4:1とルカによる福音書13:22-35。
 説教では、私たちは神の国に招かれていることを知り、その狭い戸口から入ろうと努め、己に打ち克つことができるよう祈りました。
 「帰天」ということについて、昨日執り行われた新町の信徒の方の葬送式に関しても言及させていただきました。

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   『神の国の狭い戸口から入る』

<説教>
  父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は大斎節第2主日です。大斎節は、イエス様の荒れ野での試練に倣い、節制(欲を抑えて慎むこと)と克己(己に克つこと)に努め、自分を見つめ直すという悔い改めと反省の期間という意味があります。イースター(復活日)を迎える準備の時でもあります。

 今日の福音書箇所、ルカの福音書13章22節から35節について学びたいと思います。聖書日課では22節から30節はかっこに入っていて、取り上げなくてもいいようになっているのですが、私はこの部分も含んだ方がイエス様が伝えようとしたメッセージがよく分かると考えましたので、ここも入れて長くお読みしました。そして、今回はこの箇所の前半、かっこの部分を中心にお話ししたいと思います。

 どのような状況の箇所かは、最初の22節に記されています。
「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへと旅を続けられた。」
 イエス様の宣教の生涯は、旅の日々でした。目的地はエルサレムエルサレムはイエス様が十字架に架けられた場所です。イエス様の旅は、十字架への旅だったと言えます。

 続く23~24節はこうです。
『すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。』
 マタイによる福音書では、7章13節に「狭い門から入りなさい。」と記されています。意味は同様です。
 イエス様は、狭い戸口、狭い門から入るように努めなさいと教えておられます。
 イエス様が言われる「戸口」とか「門」から入るとは、どこへ入るのでしょうか? その戸口を入った向こうには、何があるのでしょうか?
 その戸口の向こうにあるのは、「神の国」です。神様が統治している「神の王国」です。神様の力が、神様のみ心が、すみずみまで行き渡っている状態、そのような世界です。

 続いてイエス様は、神の国について、たとえで語っておられます。(25-27節)
「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸を叩き、『ご主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。その時、あなたがたは、『ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、私たちの大通りで教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不正を働く者ども、皆私から離れよ』と言うだろう。」
 イエス様はこのようなたとえの話を群衆にされました。
 この時、イエス様を囲んで話を聴いている群衆はどのような人たちだったでしょうか? それは、ユダヤ人たちです。当時のユダヤ人は、自分たちこそアブラハムの子孫であり、神様によって選ばれた民族である、神様から救われることは保証されていると思っていました。律法、掟さえ守っていれば正しい、「神様、神様」と言っていれば信仰深いのだと思っていた人たちでした。
 イエス様は、このような人たちに「神の国に入るのは難しい」と語っておられるのです。

 また、神様である家の主人は、「あなたがたは神の国から外に投げ出され、泣きわめいて歯ぎしりする。その間に、異教徒、異邦人と言われているユダヤ人以外の人たちが、東から西から、また南から北から神の国の宴会に招かれ、この宴会の席につくことになるだろう」と、言われたのです。
 神様の思いが、ユダヤ人への救いの約束を破棄し、異邦人に向かって門戸が開かれようとしていることにあることが分かります。これは異邦人である私たちにとって大きな福音です。私たちは神の国の宴会に招かれているのです。

 31節以下は簡単に触れます。
 イエス様はエルサレムで起ころうとしている自身の十字架について33節でこう行っています。「ともかく、私は、今日も明日も、その次の日も進んで行かねばならない。預言者エルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」と。
 ここの「進んで行かねばならない。」の「ねばならない」は、ギリシア語ではデイという言葉で、神様の御計画とか願いを表す大切な言葉です。ここではイエス様の並々ならぬ決意を感じます。
 さらにユダヤ人たちに対して35節で「見よ、お前たちの家は見捨てられる。」と言っています。「家」とは心の拠り所。ここの「お前たちの家」とはイエス様の誕生の頃にヘロデ大王が拡張したエルサレム神殿のことです。それが崩壊すると予言しているのです。
 エルサレム神殿が崩壊する。それはなぜでしょうか?  その答えは34節にあります。
エルサレムエルサレム預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」
 ここのエルサレムとはユダヤ人のことです。神様は「めんどりが雛を羽の下に集めるように」慈しんだのに、ユダヤ人はそれに応じようとしなかったからだというのです。ちなみに「鳥が雛を羽でくるむこと」を「育(はぐく)む」というそうです。今日の退堂で歌う聖歌522番の2節にも「みつばそのもとに 守り育みませ」とあるとおりです。そのような愛情で神様は私たちを慈しんでおられ、その神様が統治する国が「神の国」です。それは私たちの居場所である家(ホーム)です。

 今日の使徒書のフィリピの信徒への手紙3章20節にこうあります。「私たちの国籍は天にあります。」と。私たちの本来の居場所である国は「天の国」、それはつまり「神の国」であります。それこそが私たちの本来の家(ホーム)です。
 
 昨日、私たちはG・Y・Y兄弟を「天の国」に送りましたが、そこは私たちが元々いた故郷、本来の家(ホーム)で、それゆえ「帰天」というのです。私たちは、そこで先に召された方々と再会できるのです。
 そして、神の国であり「ホーム」の現在における場所が教会です。ここを居場所とすることをお勧めすると共に、新町聖マルコ教会が本来の「神の国」の先取りとなれますよう祈ります。

 皆さん、すべての人は自分にとっての「ホーム」を求めています。そして、ここに、異邦人である私たちを慈しみ招いている、神様が統治する国があります。それが「神の国」です。それこそ私たちが籍を置く家(ホーム)です。教会はその現在における場所であります。      
 この大斎節の期節に際して、自分をふり返り、神の国に入ることを全身全霊をもって求め、願っているかどうか、自分を吟味したいと思います。そして、神の国の狭い戸口から入ろうと努め、己に打ち克つことができるよう、祈って参りたいと思います。

 

「ウクライナのための祈り」に思う

 連日のウクライナでの戦争報道に心が痛みます。
 今回は、大斎始日の礼拝や先主日聖餐式の捧げたカンタベリー大主教とヨーク大主教の連名で作成された「ウクライナのための祈り」や平和への願い等に思い巡らしたいと思います。

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 この「ウクライナのための祈り」の日本語訳は以下のものです。

 ウクライナのための祈り
正義と平和の神よ、 
わたしたちは今日、ウクライナの人々のために祈ります。 
またわたしたちは平和のために、そして武器が置かれますよう祈ります。 
明日を恐れるすべての人々に、
あなたの慰めの霊が寄り添ってくださいますように。 
平和や戦争を支配する力を持つ人々が、知恵と見識と思いやりによって、
み旨に適う決断へと導かれますように。
そして何よりも、危険にさらされ、恐怖の中にいるあなたの大切な子どもたちを、あなたが抱き守ってくださいますように。 
平和の君、主イエス・キリストによってお願いいたします。
アーメン。

ジャスティン・ウェルビー大主教 
ティーブン・コットレル大主教

 英語の原文はこうです。
 A Prayer for Ukraine
God of peace and justice,
we pray for the people of Ukraine today.
We pray for peace and the laying down of weapons.
We pray for all those who fear for tomorrow,
that your Spirit of comfort would draw near to them.
We pray for those with power over war or peace,
for wisdom, discernment and compassion to guide their decisions.
Above all, we pray for all your precious children, at risk and in fear, that you would hold and protect them.
We pray in the name of Jesus, the Prince of Peace.
Amen.

Archbishop Justin Welby
Archbishop Stephen Cottrell


 緊急の祈りとして、ウクライナに於いて武器が置かれることを、ウクライナの人々を父なる神が抱き守ってくださるよう祈っています。また、指導者に対して神の御旨に適う決断の導きを祈っています。そして、主語は「わたしたちはWe」となっていて、私を含む一人称複数が「平和の君」であるイエス様のとりなしによって「正義と平和の神」に祈っています。
 本当に私たちはこの祈りを、心込めて「ウクライナの平和」のため祈りたいと思います。

 「侵略」及び「平和Peace」ということで私が思い浮かベるのは、チェリストパブロ・カザルス「鳥の歌」です。1971年10月24日国連本部でのスピーチの入った演奏を以下のアドレスで聞く(見る)ことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=_T8DjwLt_c4

 カザルスは演奏前のスピーチでこう言っています。
『I have not played the cello in public for many years, but I feel that the time has come to play again. I am going to play a melody from Catalan folklore: El cant dels ocells – The Song of the Birds. Birds sing when they are in the sky, they sing: “Peace, Peace, Peace”, and it is a melody that Bach, Beethoven and all the greats would have admired and loved. What is more, it is born in the soul of my people, Catalonia.』
『私は公共の場で長年に亘ってチェロを演奏していません、しかし私はまた演奏する時が来ていることを感じています。El cant dels ocells-『鳥の歌』と言います:私は、カタロニアの民謡のから一つのメロディを演奏しようと思います。鳥たちは空にいるときに歌います、彼らが歌うのは:“Peace, Peace, Peace”(平和、平和、平和)、そして、それはバッハ、ベートーベンそして全ての偉人たちが賞賛し、愛したメロディーになります。 そのうえ、カタルーニャ、わたしの民族の魂の中に生まれるのです。』

 これは彼の祖国であるカタルーニャ(=カタロニア:Catalunya)について語った後での言葉です。カタルーニャは現在はスペインの自治州として属していますが、カタルーニャ君主国であったところです。スペイン内乱後はフランコ政権によるカタルーニャ言語の公での使用禁止などの抑圧がありました。パブロ・カザルスの「鳥の歌」のスピーチは、単純に鳥の歌声の擬音を「Peace」と表現したものではなく、故郷カタルーニャへの抑圧を表現したものです。地では歌えぬ言葉も空の上では自由に声にすることができる、その言葉が「Peace」であるというものです。そして「バッハ、ベートーベンそして全ての偉人たちが賞賛し、愛したメロディー」は民族を超えた音楽の自由であり、それはまたカタルーニャや抑圧されている多くの民族に共通する魂の言葉だというのです。カザルスはチェロ演奏でこの理想を語ったのでした。

 聖書のいう「平和」はシャロームという言葉です。この言葉は「こんにちは」から「さようなら」まで、実に豊かな広がりのある平安を祈る言葉です。日常の挨拶から始まって家族・共同体・国家まで、地上の動植物から神様まで、幅広い意味を持っています。平和は、相手を信じ、相手との関わりを築く呼びかけから始まります。相手への信頼を込めた呼びかけから始まります。
 今、ウクライナで行われている戦闘を一刻も早く止めるためにも「シャローム」と呼びかけることが重要であるように思います。そして、イエス様が示されている「平和」を実現できるよう「ウクライナのための祈り」を心を込めて祈りたいと思います。
 
『平和の神があなたがた一同と共にいてくださいますように、アーメン。』(ローマの信徒への手紙15章 33節)

 

大斎節第1主日聖餐式 『試みに打ち勝つ信仰』

 本日は大斎節第1主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書日課はローマの信徒への手紙10:8b-13とルカによる福音書4:1-13。
 説教では、イエス様を信じることによって悪魔の試みに打ち勝つことができることを知り、大斎節をイースターを迎える大切な準備の時として過ごすことができるよう祈り求めました。
 イエス様が試みを受けられたであろう「荒れ野」の風景を写真で紹介しました。

   『試みに打ち勝つ信仰』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は、大斎節第1主日です。大斎節はカトリックでは四旬節、英語ではレントと言います。大斎節は、「灰の水曜日」(今年は先週の水曜、3月2日)から復活日までの40日間(プラスその間の主日の数、実際は46日間)です。
 コロナウイルスの収束が見えない中、ウクライナで戦争が起こり、世界の平和が脅かされています。そのような状況の中で、大斎節が始まりました。本日は大斎始日の礼拝に続いて、特祷の後でカンタベリー大主教とヨーク大主教が連名で作成された「ウクライナのための祈り」を捧げました。

 今日の福音書を、解説を加えて振り返ります。ルカによる福音書4章1節以下で、「荒れ野の試み」とか「荒れ野の誘惑」と言われる箇所です。
 冒頭に「さて、イエス聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた。そして、霊によって荒れ野に導かれ、四十日間、悪魔から試みを受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」(1・2節)と記されています。イエス様は聖霊の導きにより荒れ野に行かれました。それは神様の意志によってということです。聖書には、40日とか、40年とか、いう「期間」が記されていて、これらはいずれも「準備」と「試練」の期間として、特別の意味を持っています。なお、今回ここで「試み」と訳された言葉(ペイラスモス)は、新共同訳では「誘惑」と訳されていました。「試み」の出来事は誘惑にも試練にもなると言えます。
 イエス様が試みを受けられた「荒れ野」はこのような風景です。

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 見渡す限り、赤茶けた土、岩と砂の土地がどこまでも続いています。木も草もほとんど生えていない、昼は暑く夜は寒い、雨期と乾期しかない、水がない、何の音もしない厳しい自然の風景です。そのような厳しい自然の中、荒れ野で、イエス様は、40日間、断食をし、ひたすら祈っておられたのです。
 その40日の期間が終わろうとする時、悪魔が現れ、イエス様に語りかけました。悪魔は「神の子なら、この石に、パンになるように命じたらどうだ」(3節)と、「神の子」であるための条件を示します。空腹を満たすために「石をパンに変える」人、それが悪魔の考える「神の子」です。これに対して、イエス様は、申命記8章3節の「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった。」という聖書の言葉を用いて、悪魔の試みを退けられました。イエス様は「神の子」としての力を自分のために利用しようとはしません。人を真に生かす命はパンからではなく、生ける神から来るとイエス様は考えています。

 しばらくして、再び、悪魔が現れ、イエス様を高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せました。そして、悪魔は言いました。6・7節です。「この国々の一切の権力と栄華とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もし私を拝むなら、全部あなたのものになる。」と。神の子としてふさわしい権力、栄耀栄華、支配力を与えてやろうと試みたのです。悪魔は、「私を拝め」と迫りました。「もし私を拝むなら」と。それは、相手の前に屈服する姿勢であり、相手を絶対化し、自分自身を失わせる行為です。
 これに対して、イエス様は、「『あなたの神である主を拝み ただ主に仕えよ』と書いてある。」(8節)と、お答えになり、またしても、聖書の言葉(申命記6章13・14節)で悪魔を退けたのでした。

 そして、最後に、悪魔はイエス様をエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言いました。
「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。なぜなら、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じてあなた守らせる。』また、『彼らはあなたを両手で支え あなたの足が石に打ち当たることのないようにする』」(9-11節)と書いてあるではないかと。今度は、悪魔の方が、聖書の言葉(詩篇91編11・12節)を用いて、試してきました。
 これに対して、イエス様は、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」(12節)とお答えになりました。これは、申命記6章16節からの引用です。「神様を試す」ということは、自分の考えに神様が合っているかどうかを調べることであり、神様を信じ神の言葉に従うということとは正反対です。
 このように、イエス様は、次々と現れる、悪魔の試みを退け、これに打ち勝たれました。そして、悪魔は、時が来るまで、イエス様から離れました。
 このような話でした。

 この話で神様が私たちに教えていることはどんなことでしょうか?
 イエス様は、聖書の言葉を引用して悪魔を退けました。イエス様は聖書(神の言葉)に聞き従うことによって悪魔の試みに打ち勝ったのです。そうであれば、私たちもイエス様を信じ、神の言葉に聞き従うことによって、試みに打ち勝てるのではないでしょうか? 自分の力だけではすぐ負けてしまいます。しかし、私たちはイエス様を信じることによって、悪の力に、罪のしがらみに打ち勝つことができるのです。本日の使徒書のロマ書10章13節で「主の名を呼び求める者は皆、救われる」とパウロが教えているとおりです。このようなことを神様はこの「荒れ野の試み」の話を通じて教えているのではないでしょうか?

 皆さん、私たちは悪魔を退けてイエス様を信じていけるように、始まった大斎節を心して過ごしたいと思います。悪の力とか、しがらみとか執着心に、度々私たちは巻き込まれてしまいますが、それをこの40日間で断ち切り、世界の平和を求めながら、この大斎節をイースターを迎える大切な準備の時として過ごすことができるよう、共に祈りを捧げて参りたいと思います。

大斎始日(灰の水曜日) 礼拝 『隠れた神と心を合わせる』

 本日は大斎始日大斎です。前橋の教会で「灰の水曜日」の礼拝を捧げました。聖書日課はコリントの信徒への手紙二5:20b-6:10とマタイによる福音書6:1-6、16-21。
 説教では、大斎始日に灰の十字架のしるしを額にし、大斎節に善行と祈りと断食をする意味を知り、隠れた神と心を合わせ、大斎節をみ心にかなうように過ごすことができるよう祈り求めました。
 嘆願に続いて、前年の棕櫚の主日(復活前主日)に渡された棕櫚を燃やした灰で一人一人の額に十字架のしるしを刻みました。

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 『隠れた神と心を合わせる』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は大斎始日です。大斎節の始まりの日です。コロナウイルスの収束が見えない中、ウクライナで戦争が起こり、世界の平和が脅かされています。そのような状況の中で、大斎節を迎えました。、本日は特祷の後でカンタベリー大主教とヨーク大主教と連名で作成された「ウクライナのための祈り」を捧げました。
 大斎始日は「灰の水曜日」とも言われる祝日・斎日です。年間で2つある断食日(もう1つは受苦日)です。古くは大斎節の始まる日、信徒は罪を悔いたしるしとして粗布をまとい、灰をかぶる習慣がありました。それが「灰の」水曜日の由来です。
 
  この礼拝式文の最初の「勧め」にもありますように、初代教会では、この期間はその年の復活日に洗礼を受ける人や教会の交わりに回復される予定の人々によって守られてきました。そして、森紀旦(としあき)主教が書かれた「主日の御言葉(P.108)」によりますと、「8世紀から10世紀にかけてこの40日間を、洗礼志願者のみでなく全会衆が大斎節として守ることとなり、悲しみと悔い改めを表すため、始めの日に、前年の棕櫚の主日(復活前主日)に渡された棕櫚を燃やした灰を、聖職と信徒の額に付ける習慣ができた」ようです。
 この礼拝式文の「勧め」の最後には「一人びとりの内なる生活を顧みて悔い改め、祈りと断食に励み、自己本位な生き方から解かれて愛の業を行い、また神の聖なるみ言葉を熟読し、黙想することによって、この大斎節を忠実に守ることができますように」とあります。「悔い改め」「祈りと断食」「自己本位な生き方からの解放」「愛の業」「み言葉の熟読と黙想」。これらに努めるということは何も大斎節に限ったことではなく、一年を通しての信仰者の在り方ですが、大斎節にそのような基本をしっかりと作っておくことにより一年の信仰生活をつつがなく送ることができると言えます。

 本日の聖書箇所の使徒書は、コリントの信徒への手紙二の5章20節以下で「神の和解を受け入れる」ことを求めています。 
 また、先ほどお読みしました福音書は、マタイによる福音書の6章からで、「善行、施し、祈り、断食は父なる神にのみ知られるように」との箇所です。
 
 今日の使徒書のコリントの信徒への手紙二の5章20節の「神の和解を受け入れなさい」ということについては、こう言えます。  
 私たちは主イエス・キリストによって贖いの恵みを受けています。神の和解は、自分の力、自分の行いによってはできません。ただ主キリストに心を開き、イエス様を通して与えられる神のいつくしみを受けることによってのみ、和解を受け入れることができるのです。 

 福音書はマタイによる福音書6章1節以下で「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」というイエス様の教えです。イエス様は、人の「偽善」を咎(とが)めています。3節で「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とイエス様は教えています。  
 ここでは、当時のユダヤ人にとって宗教的な3つの行い、施しと祈りと断食が大事であることが述べられていますが、大斎節の始まりにあたってこのことを意識することは大切であると思います。イエス様はこの3つをする時に、「隠れて行いなさい」とおっしゃっています。施しも祈りも断食も、「隠れてしなさい」とイエス様は強くおっしゃっておられるのです。
 なぜ、隠れてしなければならないのでしょうか? それは、神様自身の働きが隠れておられるからと言えます。神様も私たちのために働いておられ、神様も私たちのために祈っておられ、私たちのために犠牲をささげられたのです。神様自身がそれらを隠れた形で行われた。だから私たちもその神様に倣って、隠れて施しや祈りや断食をするということです。私たちが隠れている神様の心に合わせて、施しや祈りや断食をする。つまり、神様と心を合わせて行うことに意味があると言えます。それこそが、「宝を天に積むこと」になるのだと考えます。

 ところで、本日の礼拝では、この後の嘆願に続いて、一人一人の額に棕櫚を燃やした灰で十字架のしるしを刻みます。
 どうして額に灰の十字架のしるしをするのでしょうか? 十字架のしるしをするときの言葉はこうです。
「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。罪を離れてキリストに忠誠を尽くしなさい」
 この前半の「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。」は、「エデンの園の木の果実」を取って食べたアダムとエバに言われた神様のみ言葉(創世記3:19)です。アダムとエバが「エデンの木の果実」を取って食べたことは蛇の誘惑のせいでした。しかしこの蛇の誘惑は人間の欲望を引き出しています。すなわち、人間が自分の欲望を満たすために神様のみ言葉に背いたのです。私たちもこのアダムとエバの遺伝子を受け継いでいます。私たちはちりにすぎないのです。そして、私たちはみな、どんなに長生きしようとも、いつかは必ずちりに帰らなければなりません。この世の命は有限であること、そして自分が死せる存在であることを直視することが、神様と向き合うための始めの一歩です。「私たちはちりにすぎず、必ずちりに帰らなければならない存在である。だからこそ神に立ち帰り、キリストに従うことが大切なのである。」このことを体に、心に刻むために額に灰の十字架のしるしをするのだと考えます。  
 
 皆さん、イエス様は「善行と祈りと断食を形式的にしてはいけない、他人に見せるためにしてはいけない」と命じておられます。私たちキリスト者・信仰者の人生は他人に見せるためにあるのではありません。信仰者の人生は、「真理の言葉、神の力によって」(Ⅱコリント6:7)生きていく人生です。そして、私たちが善行と祈りと断食などの行いを、隠れた神様と心を合わせてすることに本当の意味があるのです。
 本日の代祷で、ウクライナの平和やコロナウイルスの収束についても祈りますが、一人一人の個人的な思いと共に世界の平和についても神様による和解を求めながら、隠れた神様と心を合わせて、善行と祈りと断食などをこの40日間(正確には主日を含めた46日間)、行っていけるといいと思います。
 この大斎節を神様のみ心にかなうように過ごしていくことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。

 

大斎節前主日 聖餐式 『祈ること、イエス様に聞くこと』

 本日は大斎節前主日です。午前前橋の教会、午後新町の教会で聖餐式を捧げ
ました。聖書日課はコリントの信徒への手紙一12:27-13:13とルカによる福音書6:27-38。
 説教では、「キリストの変容」の箇所を通して、祈りを大切にし、神様が「これに聴け」と命じられていることを深く思い、大斎節を過ごすことができるよ祈り求めました。フラ・アンジェリコフレスコ画「キリストの変容」も活用しました。

   『祈ること、イエス様に聞くこと』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 教会の暦では、今日は「大斎節前主日」で、今週の水曜日、3月2日から「大斎節」に入ります。 
 本主日福音書ルカによる福音書9:28からの、いわゆる「変容貌(キリストの変容)」の箇所です。顕現節から大斎節に移ろうとするこの主日は、福音書では毎年この変容貌の箇所が採用されています。それはこの出来事がイエス様の生涯のちょうど半ばあたりに置かれ、これ以後、今までのガリラヤからエルサレムでの十字架・復活へと進展していくことが、イエス様の地上の生の前半を記念してきた顕現節から、後半の部分を記念する大斎節に入っていくのに、重なっているからです。

 この箇所の概略はこうです。
『イエス様は、ペトロ、ヨハネヤコブの3人の弟子を連れて祈るために山に登られました。そこで、祈っていると、イエス様の顔の様子が変わり、衣は白く光り輝きました。見ると、モーセとエリヤがイエス様と語り合い、2人はイエス様がエルサレムで遂げようとしている最後のことについて話していました。その有様の素晴らしさを目の当たりにして、ペトロは「幕屋を3つ建てましょう」と言います。やがて雲が現れ彼らを覆い、雲の中から「これは私の子、私の選んだ者、これに聞け。」という声が聞こえ、イエス様だけがそこにおられました。』

 この箇所を通して、イエス様が大切にしておられること、そして、神様が私たちに求めておられることは何でしょうか?
 冒頭の28・29節にこうあります。「この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、衣は白く光り輝いた。」
 この話とは、この前の9:21~27において、イエス様が弟子たちに御自身の死と復活を予告したことを示します。その8日後に、イエス様は3人の弟子を連れて祈るために山に登られたのです。なお、ここの「祈る」の原文のギリシャ語は「プロセウコマイ」でした。この言葉は直訳すれば「プロス(前に)+エウコマイ(置く)」ですが、「何の前に何を置くか」と言えば、「神様の前に自分を」ということなのだと思います。つまり、「祈る」ということは「神様の前に自分を置く」ことなのです。
 イエス様の地上での歩みは受難と死に向かう道でした。イエス様は祈りの中で、すべてを神様に委ねていたのではないでしょうか? 今日の箇所で言えば、だからこそイエス様の姿は祈るうちに光り輝いたのだ、と言えるかもしれません。これは、十字架の死と復活が予告された後、山の上で、その衣が白く光り輝き、人間となられたイエス様が、瞬間的に神の栄光をお受けになったという出来事です。その出来事の直接の引き金になったのが「祈り」であり、それこそイエス様が大切にしておられることだと言えます。

 今日の箇所の最後にあたる34節から36節では、雲が現れ彼らを覆い、雲の中から「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」という声が聞こえます。雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。雲の中からの声は、もちろん神様の声です。それが、弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。聖書における「聞く」はただ声を耳で聞くというだけでなく、「聞き従う」ことを意味します(申命記18:15等参照)。受難・復活・昇天へと進む神の子、救済の業を行うため神様が選んだ者に私たちも「聞き従わなければならない」ということであり、それこそ神様が私たちに求めておられることだと思います。

 この箇所を表した絵画があります。フィレンツェのサン・マルコ修道院にあるフラ・アンジェリコフレスコ画「キリストの変容」です。

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 この絵では、中心に光を背に白い衣を着たイエス様がおり、その下には左からペトロ、ヤコブヨハネの3人の弟子が畏怖の念をいだいています。
 そして、イエス様の下の左にモーセ、右にエリヤがいます。この2人は今まさに消えようとしています。さらにその下には、聖書の記事にはありませんが、左にマリア、そして右にドミニコがいます。ドミニコはフラ・アンジェリコが所属するドミニコ会創立者です。マリアは両手を交差して胸の前に置き、ドミニコは手を合わせています。つまり2人は祈っているのであります。
 イエス様が大切にしていることは「祈り」であり、神様が私たちに求めておられることはその「イエス様に聴く」ことだと言えます。なお、「祈る」と訳した「プロセコウマイ」には“聴く”という意味もあり、キリスト教の「祈る」目的は「神様やイエス様の声を聴く」ということです。言い換えれば「祈りは神様やイエス様の声を聴くこと」と言えると思います。

 私たちがそうできるために知るべきことは何でしょうか?
 そのヒントは先ほど読んでいただいた使徒書にあると言えます。コリントの信徒への手紙一12:27-13:13です。12章の終わり(31節)で「あなたがたは、もっと大きな賜物を熱心に求めなさい。」とパウロは勧めています。。そして「最も優れた道をあなたがたに示しましょう。」と言って13章の愛の賛歌につなぎます。つまり私たちには最も優れた道である「愛」という賜物があるのです。信仰も希望も愛も賜物、それらはすべて神様から与えられるものであり、「祈り」もです。このことを私たちは知るべきだと思います。

 皆さん、大斎節が近づきました。今度の水曜が大斎始日(灰の水曜日)です。
エス様が大切にしておられることは「祈り」であり、神様が私たちに求めておられることは「イエス様に聴き従う」ことです。これから始まる大斎節の期間、祈りを大切にし、神様が「これに聴け」と命じられてことを深く思い、イエス様のみ跡を黙想しつつ40日間の大斎の期節を過ごすことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。

「使徒聖マッテヤ日」に思う

 本日(2月24日)は「使徒聖マッテヤ日」です。朝の礼拝の中で、そのことをおぼえて祈りを捧げました。特祷はこうでした。
『全能の神よ、あなたは忠実な僕マッテヤを選び、み子イエスを裏切ったユダに代えて十二使徒に加えられました。どうか常に主の公会を守り、偽りの使徒を防ぎ、忠実な牧者によって治め導かれるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン』
 このマッテヤが、私たちの教会の守護聖人の聖マッテアです。マッテアは、イスカリオテのユダの代わりにキリストの十二弟子として選ばれた使徒です。聖書の邦訳では、マッテヤ(文語訳、口語訳、新改訳)、マティア(新共同訳、聖書協会共同訳)、マッティア(新改訳2017)など様々に訳されており、原語(ギリシャ語)の発音はマッティアン、英語表記はMatthias です。
 私たちの教会が「前橋聖マッテア教会」と命名されたことについては、2019年2月24日に発行された「マッテア教会130年年表-ダイジェスト版-」にこう記されています。

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『1900(明治33)年4月上旬、会堂落成。同時に教会設置の認可を受け、前橋聖マッテア教会と名づく(名称はチャペル師が選んだ)。当時の信徒数は21名、2名の洗礼志願者。』
 ここから「マッテア」と命名したのは、上記の3年前、1897(明治30)年10月に来任したJ・チャペル宣教師(長老)であることが分かります。チャペル長老(現在の「司祭」)は米国人であり、当時の文語訳聖書の「マッテヤ」よりも英語発音に近い「マッテア」を選んだように私は想像します。ちなみに、後に伝道師となった詩人の山村暮鳥(当時は木暮八九十)は、この頃、当教会の英語夜学校に通いチャペル長老から1902(明治35)年6月6日に受洗しました。

 私たちの教会が「聖マッテア教会」と命名されたのは、聖公会の前橋における伝道が1889(明治22)年2月24日に始まったことに由来しています。前述の「マッテア教会130年年表-ダイジェスト版-」には、「1889(明治22)年2月6日、米国人宣教師H・S・ジェフェリー、県立前橋中学校赴任。俸給百円(紅雲町校舎。俸給は校長の二倍)」とあり、さらに「2月24日、裁判所隣接の民家にて宣教開始(聖マッテア日)」と記されています。

 では、マッテア(マッテヤ)とはどのような聖人でしょうか? 聖ヨハネ修士会の修士会叢書第10号「公会の祝祭日」にはこうありました。
『2月24日 使徒聖マッテヤ日
 イスカリオテのユダの代わりに選ばれて使徒とせられた聖マッテヤは、他の使徒たちと共に初めから主の弟子であり、主に選ばれた70人の伝道者の一人であったという。彼はカパドキアに伝道したともエチオピヤに伝道したとも言われ、紀元64年頃、十字架につけられて殉教したと伝えられる。』

 マッテア(マティア)の聖書における記述については、使徒言行録1章23節から26節にこうあります。
『そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストとも言うヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうち、どちらを選ばれたかをお示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、この務めと使徒職を継がせるためです。」二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒たちに加えられた。』

 マッテアが聖書に登場するのはこの選出の場面だけですが、なぜ「くじ引き」なのでしょうか?
 我々現代人の感覚では、くじは「偶然・運」というイメージですが、キリスト教では偶然というものはなく、すべては神の御心によって起こると考えています。箴言16章33節には、次のように記されています。
『くじは人の膝の上に投げられるが ふさわしい裁きはすべて主から与えられる。』(聖書協会共同訳)
 偶然に見える「くじ」も、ふさわしい結果に定まるように神が裁き、支配しているのです。マッテアが選ばれた場面では、日本語でくじを「引く」と訳されている言葉は、ギリシャ語では元々「与える」という意味です。くじの結果は神から与えられるのであります。
 マッテアが「くじ」で選ばれたということは、神がその結果を与えたということであり、神が彼を使徒として選任したということです。

 私たち聖職・信徒も、マッテアのように神から使徒として選任されたと考えられます。そしてそれは偶然ではなく、神の御心によるのです。そうであれば、私たちは、神の御心を忠実に果たすことができるよう、祈り求めて参りたいと思うのであります。

 

顕現後第7主日 聖餐式 『敵を愛し、慈しみ深くなる』

 本日は顕現後第7主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書日課
コリントの信徒への手紙一15:35-38、42-50とルカによる福音書6:27
-38。礼拝後は、堅信受領者総会が開催されました。
 説教では、イエス様の命じる「敵をも愛する」「慈しみ深くなる」という愛に生きることができるよう祈り求めました。『汝の敵を愛せよ』というキング牧師説教集の言葉も引用しました。

   『敵を愛し、慈しみ深くなる』

<説教>
  父と子と聖霊の御名によって。アーメン
   
 本日は顕現後第7主日です。福音書はルカの6章27-38、先週の続きの箇所で、いわゆる「平地の説教」(ルカ6章20-49節)の中の言葉です。

 今日の福音書の最初、27節のみ言葉「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」から、まず圧倒されてしまうのではないでしょうか? これは普段私たちが考える常識とはかけ離れている無理難題のようにも思われます。
 このみ言葉の前に「聞いているあなたがたに言っておく」とイエス様はおっしゃられました。これは、イエス様の言葉を聞く、そのために集まっている、その「あなたがた」に「言っておく」ということです。であれば、主日に、神の言葉、イエス様の言葉を聴こうとして集まっている私たちにも、イエス様は語りかけ命じておられると言えます。
 
 続いて31節で、イエス様は「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と語られます。これは黄金律(ゴールデン・ルール)と呼ばれるものです。イエス様は「自分がされて嬉しいことを他の人にもしなさい」と命令しているのであります。 
 
 35節で、イエス様はふたたび「敵を愛しなさい」とおっしゃっています。次にこの要求の根拠となる言葉があります。それが35節後半-36節です。「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」と。「いと高き方」とは神様のことです。神様は「悪人にも太陽を昇らせ、正しくない者にも雨を降らせる」(マタイ5:45)方です。ここの「たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」の原文を直訳しますと、「あなたがたにはたくさんの報いがあるでしょう。そして、あなたがたはいと高き方の子となるでしょう」と二人称・複数・未来形で語られていました。
 イエス様は私たちにこうおっしゃっているのではないでしょうか。「敵を愛しなさい。神様は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いのだから、あなたがたもその愛をもって慈しみ深くなりなさい。神様はあなたがたに恵みを与え、あなたがたは神の子となるでしょう」と。
 
 イエス様は私たちに「敵を愛しなさい」「あなたがたも慈しみ深い者となりなさい」と命じておられます。そのようなことが私たちにはできるのでしょうか?

 そのことについては、本日の使徒書(コリントの信徒への手紙一 15章)が参考になります。ここでは、最初の人アダムと最後のアダム(つまり、イエス・キリスト)が登場します。45節にこうあります。『「最初の人アダムは生きる者となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となりました』と。最初の人アダムは「人間一般」の意味で用いられています。そうしますと、パウロはこう主張していると思われます。「人間は最初の人アダムの子孫であるから、地上の命を生きる肉なるものでもあるが、最後のアダムであるイエス様が与える聖霊によって天上の命と関わりをもつ霊的な存在になり得る」と。私たちはイエス様の与える聖霊によって新たな霊的な力で生きる人間になることができ、それにより通常では難しい「敵を愛し、慈しみ深くなる」ことができるのだと考えます。
 そして、それは結果として、それぞれの場所で「憎む者に親切に」するという行動として示されます。

 今日は一冊本をもって来ました。『汝の敵を愛せよ』という題の説教集です。

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 アメリカの黒人の公民権運動に身を投じたマルチン・ルーサー・キング牧師のものです。キング牧師は多くの白人たちからの激しい敵意と憎しみにさらされ、様々な暴力を受けつつ、徹底的な非暴力を貫き、共に戦う人々にもそのことを求めました。そして、最後は暗殺という悲劇的な死を遂げました。
 そのキング牧師が『汝の敵を愛せよ』の説教の終わりのところで、こう語っています。
 『我々は、最も恨み重なる敵対者に対し、次のように言う、「我々は、苦難を負わせるあなたがたの能力に対し、苦難に耐える我々の能力を対抗させよう。(略)
 我々を刑務所に放り込むがいい、それでも我々はあなたがたを愛するだろう。 我々の家庭に爆弾を投げ、我々の子どもらをおどすがいい、それでも我々はなお、あなたがたを愛するだろう。(略)」。
 愛は、この世で最も永続的な力である。我々のキリストのご生涯にきわめて美しく例示されているこの創造力は、人類が平和と安全を追求する際に用いうる最も強力な手段である。』

 キング牧師の語る「非暴力」の武器は、「敵への愛」です。相手の悪に対して、善をもって報いるのです。迫害する者のために祈り、いかなる苦難をも甘んじて受け入れる「敵への愛」です。それこそが「神の愛」であります。

 皆さん、イエス様は「敵を愛し、憎む者に親切にしなさい」そして、「慈しみ深い者となりなさい」と命じておられます。それは人間の力では難しいですが、神様は聖霊によって私たちを、それをなすことができるよう新たな霊的な力で生きる人間にしてくださいます。この敵をも愛する優れた賜物を私たちにお与えくださるようお祈りいたしましょう。私たちが人に慈しみ深くなる時、神様は私たちに恵みをくださり、私たちを「神の子」としてくださると約束しておられます。
 私たちが、「敵をも愛する」「すべての人に慈しみ深くなる」、そのような愛に生きることができるよう聖霊の導きを祈り求めて参りたいと思います。