マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第4主日『神の国と「主のみわざ」』

 本日は 聖霊降臨後第4主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 本日の聖書箇所は、エゼキエル書17:22-24、詩編92:1-4・12-15、コリントの信徒への手紙二5:6-10・14-17及びマルコによる福音書4:26-34。説教では、神の国(神の支配)は、人の知らぬうちに成長し、やがて豊かに実を結ぶことを知り、そうさせる「主のみわざ」に信頼し、主に喜ばれる者として歩み続けることができるよう、日々、祈り求めました。 
 テーマと関係する星野富弘さんの詩画「咲き終えて(ギボウシ)」や福音書前に歌った聖歌第212番にも言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第4主日です。福音書箇所はマルコによる福音書4:26-34で、神の国についてのことが語られています。ここは3つの段落からなり、聖書協会共同訳聖書では、それぞれ「成長する種のたとえ」、「からし種のたとえ」、「たとえを用いて語る」と表題がついています。
 イエス様は、当時のユダヤの人々に分かりやすいように、彼らの生活に密着した内容で、たくさんのたとえを語られました。マルコ福音書4章では今日の箇所の前には「種を蒔く人のたとえ」と「灯(ともしび)と秤(はかり)のたとえ」が語られています。
 今回の説教では、本日の箇所の最初と次の段落を中心に思い巡らし、イエス様の真意を考えていきたいと思います。
 
 まず、26-29節「成長する種のたとえ」です。こう始まります。
『また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。・・・』
 「神の国」とは何でしょうか? マタイ福音書では「天の国」と言っています。私たちには分かりにくい表現で、死んでから行くところのように考えてしまいがちです。しかし、そういう意味ではありません。
 「神の国(the kingdom of God)」の「国」はギリシャ語では「バシレイア」で、それは「王国」と「王としての支配」の両方を意味します。ですから、「神の国」は「神の支配」とも言い換えられ、「神様が王として、その支配が隅々まで徹底され、行き渡る国」です。その、「神の国」とはどのようなものかをイエス様は人々に話されました。
 イエス様は「神の国というのは、ある人が地面に種を蒔いておくと、本人が知らないうちに、蒔かれた種が成長していくようなものである」とおっしゃいました。つまり、蒔いた人が知らないうちに、種が芽を出し、茎をつけ、そして穂をつけてその先に実をつけるようなものだというのです。
 私はこのたとえから、神の国というのは、確実に、しかもゆっくりと成長するということを教えられました。成長には順番があります。それは、種、芽、茎、穂、実、収穫というプロセスです。種からいきなり実はできないのです。時間がかかりますが、着実に成長していくのです。
 良い地面に落ちた種は、黙っていても自然に「おのずから」実をつけていくのだから、あなたがたは心配する必要がない、神の国とはそういうものだというのです。ですから、私たちはただひたすら、種を蒔き続けることが大事だと思うのであります。
 「おのずから」という言葉がありますが、これは新共同訳では「ひとりでに」と訳されていて、ギリシャ語聖書では「オートマテー」という言葉でした。オートマチックという英語の語源になった言葉です。つまり、種はオートマチックに、ひとりでに成長するのです。人間が細かい操作をしなくても機械が自動的にしてくれるのをオートマチックと言うわけですが、しかし考えてみれば、そのように機械をプログラムしたのは人間です。作物が「おのずから」実を結ぶのもそれと同じで、作物をそのようにお造りになり、力を与えた方がおられるのです。つまり、この「おのずから」という言葉は、人間の理解を超えた、人間の力の及ばない所で、神様が作物を成長させ、実を実らせて下さっているのだ、ということを語っているのです。神の国もそれと同じです。イエス様がこの世に来られたことによって、神の国の種が、あなたがたのところに既に蒔かれている。その神の国の種は、着実に成長を始めている。さらに言えば、神の国の種は「イエス様の御言葉」と考えられ、人間の理解を超えた、その力の及ばないところで、神様がそれを育て、実を結ばせようとしておられる。その収穫の時が今や近づいているのだ。「成長する種のたとえ」はそういうことを語っています。 

 次に30-32節「からし種のたとえ」です。
 このたとえ話のポイントは、蒔かれる時には地上のどんな種よりも小さい「からし種」が、成長するとどんな野菜よりも大きくなる、ということです。
 この「からし種」とは、クロガラシ(Black mustard)と呼ばれる、アブラ菜科の野菜のことのようです。水を引き潤った土地では、茎の高さが3メートルにも伸び、その種の一粒は、直径1ミリ前後で、胡麻よりも小さく、エンドウ豆のようにサヤに入っている野菜です。それが成長して大きな樹木のようになって鳥が巣を作るほどになる、最も小さい種と、大きくなるものを対比させて、たとえが語られています。
 これも「神の国」のたとえです。「神の国」を告げる福音(良い知らせ)は、まさにからし種の一粒のようにちっぽけな、吹けば飛ぶようなものとして始まりました。しかし、そのからし種一粒のような神の国が、成長してどんな野菜よりも大きくなり、鳥がその葉陰に巣を作るようになる、それはただ大きくなるというだけでなく、人々がそこに平安や安心を見出す拠り所となる、ということでもあります。今は目にも留まらないようなちっぽけな種である神の国が、最終的にはそのような素晴らしい木へと成長するのだ、ということをイエス様はこのたとえによって語っておられるのです。 

 最後の33-34節「たとえを用いて語る」では、たとえの理解は聞く者の力に応じていること、イエス様が弟子たちにすべてを説明していたことを述べています。神の国を「たとえで」語るのは、それが人間の理解を超えた現実だからです。

 ところで、今日は一冊、本を持ってきました。この4月28日に帰天された星野富弘さんの「<花の詩画集>種まきもせず」です。

 この本の中に、本日の福音書と関係すると思われる「咲き終えて(ギボウシ)」と題された作品があります。こうあります。
『咲き終えて 皺だらけの花が 
 落ちた あとに
 小さな実が残されていた』
 この詩から私はこう思います。
 木の成長には順番があります。それは、先ほどの福音書で言えば、種、芽、茎、穂、実という「流れ」です。富弘さんの詩でも咲き終えた花が、それで終わるのでなく、「小さな実が残されていた」のです。それは、イエス様がこの世に来られたことによって、神の国の種(イエス様の御言葉・福音)が、私たちのところに既に蒔かれ、着実に成長を始めるという「主のみわざ」なのだと思います。
 そのことは、先ほど福音書朗読の前に歌った聖歌第212番でも述べています。3節をご覧ください。こうあります。
『人は耕し 種蒔き育て 
 主は日を照らし 雨を降らせて
 地の産物は 豊かに実る』
 人は種を蒔き耕し、神は日を照らし雨を降らせます。それが「主のみわざ」です。それによって、地の産物が豊かに実るのです。

 本日の福音書箇所に戻れば、神の国(神の支配)は、人の知らぬうちに成長し、やがて豊かに実を結ぶようになることが「たとえ」によって語られました。この神の国は私たちのただ中に、隠された仕方で既にあり、そして神様のみ力によって成長しつつあり、実りの時へと向かっているのです。
 
 そのような中にあって、私たちはどうあったらいいでしょうか? その答えは、本日の使徒書に示されているように思います。
 コリントの信徒への手紙二  5:8・9節にはこうあります。
「それで、私たちは安心していますが、願わくは、この体という住みかから離
 れて、主のもとに住みたいと思っています。だから、体を住みかとしていようと、体を離れていようと、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」
 こう発言するパウロのように、私たちも主のもとに住み、ひたすら主に喜ば
れる者であることを神様はお望みなのではないでしょうか?

 皆さん、神の国の種(イエス様の御言葉・福音)は、私たちのところに既に蒔かれ、着実に成長を始めています。神様の計り知れない力によって、それは必ず成長し、豊かな実りをもたらします。既に始まっている神の国(神の支配)のただ中にあって、私たちはそのような「主のみわざ」に信頼し、主に喜ばれる者として、一歩一歩、歩み続けることができるよう、日々、祈り求めたいと思います。
 
  父と子と聖霊の御名によって。アーメン