マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降誕後第1主日 聖餐式『生きた供え物として献げる』

 本日は一年最後の日で、降誕後第1主日。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、イザヤ書61:10-62:3、詩編148、ガラテヤの信徒への手紙4:4-7及びルカによる福音書2:22-40。説教では、聖家族に倣い、私たちの与えられた命を悔いなく、生きた供え物として献げて生きていくことができるよう祈り求めました。
 本日の福音書箇所の「イエス様の神殿奉献」の絵のある「絵で見るロザリオの祈り」とその「マリア、イエスをささげる」の絵を紹介しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 本日は12月31日、大晦日です。教会の暦では降誕後第1主日、25日のクリスマス(降誕日)後の最初の主日です。私たちの教会では週報にもありますように、25日の午後4時にご自宅でN・Mさんの洗礼式があり、翌日26日にはT・Hさんの葬送式が行われ、あっという間に本日、一年最後の日を迎えたという印象があります。本日はMさんの伴侶であるN・Nさんがこの礼拝に参列されておりますが、洗礼を受けてイエス様とつながったMさんのすがすがしいお顔が忘れられません。Mさんは全てを神に委ねる信仰をお持ちで、それを見習いたいと思いました。また、本日はT・Hさんのお子さんお二人も礼拝に参列されていますが、葬送式でHさんの天国への帰還を共に祈ることができ、よかったと思います。

 さて、聖書日課についてですが、これまで私たち日本聖公会では降誕後第1主日は、福音書ヨハネによる福音書1:1-18なのですが、降誕日の箇所がヨハネ福音書1:1-14でしたので、例年、重複しながらお話しをしてきました。
 カトリック教会では降誕日後の最初の主日は「聖家族の祝日」と言って、福音書は産まれてしばらくしたイエス様を連れて両親がエルサレム神殿を訪ねる箇所ルカによる福音書2:22節以下が取られていて「いいな」と思っていたところ、今回の降臨節から使っていいことになった「改正祈祷書試用版」の方を見ましたら、その箇所でしたので、本日はそちらを使うことにしました。
 イエス様とマリアとヨセフの三人が家族の模範のように、聖家族として敬いながら、家庭生活を歩めるようにと、今日の祝日が定められていると思います。

 本日の福音書の個所を振り返ります。
 マリアは、イエス様を出産した後、モーセの掟に従って、その期間を守り、イエス様の出生の日から、40日後に、エルサレムの神殿に詣でました。それは律法に従っていけにえを捧げるためでした。
 この家族が、神殿に出かけて行ったもう一つの理由があります。それは、「両親は、その子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、『母の胎を開く初子の男子は皆、主のために聖別される』と書いてある」(ルカ2:23)という理由からでした。
 ヨセフとマリアとイエス様の聖家族は長い旅をして、エルサレムの神殿に着きました。神殿の境内には、大勢の人々が集まり、ごったがえしています。
 その神殿の境内で、ヨセフとマリアは、二人の老人に会いました。それは、シメオンという老人と、アンナという女預言者でした。
 シメオンは、ずっとエルサレムに住んでいる人で、人々から「正しい人で、信仰が篤く、シメオンは、イスラエルの民が、神によって慰められることを待ち望み、いつも、聖霊が、彼にとどまっている人」と、人々から思われ、噂されている老人でした。
 そのシメオンは、神が遣わされる「救い主」に会うまでは決して死なないという、聖霊のお告げを受けていました。
 このシメオンが、聖霊に導かれるように、神殿の境内に入って来た時、ちょうど、ヨセフとマリアが、幼いイエス様のために、モーセの掟に従って、いけにえを献げようとして、「聖所」に入ろうとしているところでした。
 シメオンは、幼いイエス様を、抱きあげて言いました。
「主よ、今こそ、あなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。私は、この目であなたの救いを、はっきりと見たからです。これ(この幼子)は、すべての人々のために、備えられた「救い」です。この方こそ、異邦人をも含めて、すべての人々を照らす、神のみ心を表す光です。この方こそ、あなたの民であるイスラエルの栄光です。」と、賛美の声を上げました。
 これは、夕の礼拝の中で、唱えられる「シメオンの賛歌」です。
 ヨセフとマリアは、この老人が、突然、イエス様について、このようなことを言い出したので、びっくりしました。シメオンは、この家族を祝福し、さらに、母親のマリアに言いました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたりするためにと、この子の将来は、定められています。また、同時に、多くの人々から、様々な反対を受ける「しるし」が見られます。そして、あなた自身も、剣で、胸を刺し貫かれるような経験をすることになるでしょう。それは、この人に対して、悪意や疑問を持つ多くの人々の心や思いが、そこに現れるためです。」
 老人シメオンは、これから起こるイエス様の生涯を予言するばかりでなく、母マリアの上に降りかかる痛みと苦しみをも予告しました。
 さらに、シメオンは、イエス様の十字架の時が来るのを予言して言いました。
 「剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心の思いが現れるためです。」(ルカ2:35)
 約30年後、現実に、シメオンによって予言されていたことが起こりました。ゴルゴタの丘で、十字架につけられている我が子を、母マリアは仰ぎました。
 かつて、神殿で、幼いイエス様のために献げられた犠牲(小羊や山鳩や家鳩の命)は、実は、すべての人々のために献げられたイエス様御自身であったと言っています。生まれながらにしてイエス様ご自身が献げられていたことを、覚えたいと思います。
 このような箇所でした。

 登場人物が何人か出てきて、一人はシメオンという預言者の老人と、アンナという女預言者。この人たちは年をとっていました。そしてヨセフとマリア、そして幼子のイエス様です。今日は聖家族の祝日ということで思うことの一つは、今日の福音書ではシメオンとアンナという老人が出てくる。そして下の世代には若い夫婦であるヨセフとマリアが出てくる。そしてマリアの子としてイエス様という三つの世代がここで登場しています。私たちが家族ということを考えた時に、私たちはそれぞれのどこかの世代に属していて、そのつながりの中で私たちは生きています。
 このシメオンとアンナ、彼らにはどういう使命があったのでしょうか? シメオンはヨセフとマリアにこの幼子のことを語ります。シメオンには「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。」と言って、マリアに預言の言葉を言う役割があるのです。この女預言者アンナも同じで「そのとき、彼女も近づいて来て神に感謝を献げ、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話った。」とあります。ちなみに、この「アンナ」という名前は意味は「恩恵、恵み」で、英語になると「アナ」とか「アン」になります。来年、当教会で始める「キリスト教文化入門」で取り上げる「赤毛のアン」の主人公の名前はこの女預言者アンナやマリアの母のアンナから取られています。年老いた者の役割は若い世代が分からない知恵を持っていて、その知恵を若い世代に伝えるという使命があります。
 シメオンとアンナは深い神様との交わりの中から知恵をいただいていて、そしてそのことを次の世代に語り伝える、そういう使命を持っていたのです。それをヨセフとマリアは受けとって、その世代は何をするかというと、次の世代を育てるということです。具体的には救い主であるイエス様を育てるという使命を彼らにも与えられています。だからこそヨセフとマリアの苦労の中で「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ち、神の恵みがその上にあった」(ルカ2:40)のです。

 私は毎日、朝の祈りの後、「絵で見るロザリオの祈り」という小冊子を使って「ロザリオの祈り」を捧げています。

 今日の箇所はこのような絵です。

「喜びの神秘」の第4の黙想「マリア、イエスをささげる」です。この絵の下にはこうあります。「マリアとヨセフは神殿に行き、幼子イエスを御父にささげます。この一連をささげて、毎日の生活を神に奉献することができるよう聖母の取り次ぎによって願いましょう。」
 私たちの毎日の生活を神に奉献することが勧められています。このことについて、私たちは毎主日聖餐式で祈っていることを思います。それはこの後の聖餐式の終わりにあります。祈祷書のP.182の下から4行目です。こうあります。
「天の父よ、わたしたちはみ子によって、心も体も生きた供え物として献げます。どうか、聖霊によってわたしたちをこの世に遣わし、み旨を行う者とならせてください。」
 私たちはこの祈りのように、御子イエス様によって自分自身を生きた供え物として献げたいと思います。
 私たちの命はつながりの中にあるということを思い起こしながら、自分がどういう恵みを受けて今どういう恵みを誰と分かち合うか、命のつながりを持っていくのはどのような生き方なのかということを、この一年の締めくくりに、振り返ることは意味があると思います。明日から新しい年になりますが、聖家族に倣い、私たちの与えられた命を悔いなく、生きた供え物として献げて生きていくことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン