マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降臨節第1主日 聖餐式『責務を果たしつつ、主の来臨を待つ』

 本日は降臨節第1主日。前橋の教会で聖餐式に預かりました。聖書箇所は、コリントの信徒への手紙一1:1-9、詩編80:1-7とマルコによる福音書13:33-37。説教では、私たちが与えられた責務を誠実に果たしつつ主イエス様の来臨を待ち、それを意識しながら降臨節の日々を大切に過ごすことができるよう祈り求めました。
 本日から始まる「アドヴェント」の意味やイエス様の再臨と関係する聖歌「球根の中には」を紹介しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 ハマスイスラエル軍の戦闘の一時休止は七日間で終了し、また激しい戦闘が続いています。女性や子どもなど、多くの民間人の被害が広がっています。一日でも早い恒久的な戦闘停止がなされるよう祈っています。

 さて、本日は降臨節第1主日、今日から教会暦は新しい年です。アドヴェント・クランツのろうそくの1本目に火が点りました。

 クランツはドイツ語で冠を表します。英語ではリースです。マッテア教会では、11月16日(木)に20名の参加を得てクリスマス・リース作りが行われ、その後も毎週木曜にリース作りが有志により行われました。そして、今日は聖堂にたくさんのリースが飾られています。
 降臨節カトリックプロテスタントの一部の教派は、「待降節」と呼んでいます。降臨節待降節も英語では同じ「アドヴェント」です。ラテン語では「アドヴェントゥス」と言います。その動詞形が「アドヴェニオー」です。「アド」は「そばに、近くに」、「ヴェニオー」は「来る」という意味です。「アド」と「ヴェニオー」が合わさって「アドヴェニオー」(近くに来る、到来)という言葉が生まれました。その名詞形「アドヴェントゥス」から英語の「アドヴェント」という言葉が生まれました。ですから、「アドヴェント」は「だんだんやってくる」という意味を持っています。「何がやってくるか」と言いますと「救い主イエス様」であり、「主イエス様」の来臨を期待を込めて待つ期節、それが降臨節なのであります。
 本日の礼拝の入堂聖歌、聖歌56番「イエスきみ来たりて」を歌いながら、「今年も降臨節が始まったな」との思いを強くしました。この聖歌は降臨節アドヴェント)の聖歌ではありますが、1節で世の購い主としてこの世に来られたことに始まり、2節・3節で私たちの祈りを聞き罪を赦し導いたご生涯を思い、4節で終末(再臨)まで崇めることを歌っています。まさに降臨節の始まりにふさわしい聖歌だと思いました。
 また、聖書日課については今日からB年となり、マルコによる福音書を中心に読んでいきます。マルコによる福音書は4つの福音書の中で最初に書かれた福音書で、著者のマルコはイエス様の一番弟子、ペトロの通訳をしていたと考えられています。

 本日の福音書箇所はマルコによる福音書13:33-37で、ここのテーマは「目を覚ましていなさい」ということです。コンテキスト(文脈)を踏まえたこの箇所の「目を覚ましていなさい」というのは、イエス様の再臨のことです。イエス様は世の終わり、終末の時に再びこの世に来られるとされています。終末とは、私たち一人一人のこの世での人生の終わりとも言い換えることができるかもしれません。イエス様がいつ世の終りに来られるか分からないので、その準備のためにいつも「目を覚ましていなさい」と今日の福音でイエス様がおっしゃっています。今日から降臨節に入りましたので、私たちはイエス様の誕生を「目を覚まして待っていなさい」というメッセージとしてもこの言葉を受け取ります。イエス様の再臨であれ、イエス様の誕生であれ、イエス様が、いつ私たちのところに来られるか分からないから、「目を覚ましていなさい」と言っているのであります。
 また、本日の箇所では三回も「目を覚ましていなさい」と書いてあります。原語は「グレーゴレオー」の二人称・複数・現在・命令形です。この言葉には「油断しない」とか「注意深くする」といったニュアンスがあります。ここでは、物理的な意味ではなく、私たちの心の状態、霊的な状態を意味しています。
 ですから、「目を覚ましている」ということは、目を開けて眠らないようにしているということではなくて、神様が何を呼びかけているのか、よく注意して見る、よく注意して聞くということです。心の深いところで、神様が私たちのところに来ようとしていることに気がつく、ということです。主の来臨、つまり「主イエス様が私たちのところへ来られる」ということを心の中でしっかりと受けとめることが求められていると考えます。「終末的現実を生きる」ということです。
 では、「目を覚ましている」とは、どういう状況でしょうか? それは34節に示されています。
『それはちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに責任を与えてそれぞれに仕事を託し、門番には目を覚ましているようにと、言いつけるようなものである。』
 ここの「旅に出る人(家の主人)」は主イエス・キリストのことであり、「責任を与えられ仕事を託された僕たち」や「門番」は私たちキリスト者のことです。
 イエス様は私たちに責任ある仕事を託され、それを誠実に果たすことを求めておられるのです。では私たちに託された責任ある仕事とは何でしょうか?
 それは、ここ数回の主日の福音を鑑(かんが)みれば、小さくされた人々にそれぞれのタレント(賜物)を生かして奉仕することと言えるのではないでしょうか? そして、その火をともし続けるためには、信仰の油を途切れることなく持ち続けることが肝要なのだと思います。

 そうできる原動力はどこにあるのでしょうか? それは本日の使徒書、コリントの信徒への手紙一の1:8に示されていると考えます。こうあります。
『主も、あなたがたを最後までしっかり支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいます。』
 「主イエス・キリストの日」とはイエス様が再臨される終末の時のことです。それは、私たちのこの世の人生の終わりの時とも言い換えられると思います。その日まで、主なるイエス様が私たちを最後までしっかり支えてくださるというのです。それによって、私たちを非の打ちどころのないものにしてくださり、結果として、私たちは自分に託された責任ある仕事を果たすことができるのです。

 ここで今日は、皆さんと聖歌を一曲歌いたいと思います。賛美歌21の575番「球根の中には」です。この聖歌は私たちの日本聖公会聖歌集には入っていません。別紙の楽譜をご覧ください。

 この聖歌についてはブログで書きましたので、よろしかったら参照していただければと思います。立教女学院のCDで、まず聞いてみてください(CDを流す)。
  1節で、球根やさなぎは死んでいるように見えますが、そこから花が咲きいのちがはばたく、と歌い出します。この曲は永遠の命への希望に満ちた聖歌で、キーワードは3節冒頭の「いのちの終わりは いのちの始め」だと思います。そして、各節の終わりはどれも「その日、その時をただ神が知る。」ですが、実はこの言葉は、本日の福音書箇所の直前、マルコによる福音書13章32節のイエス様の言葉からの引用と考えられます。それは終末の時、イエス様の再臨の時に関する言葉で、こうです。「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」
 これらのことを心に留め、もう一度、今度はCDの歌唱に合わせて一緒に歌いましょう(CDを流す)。

 皆さん、本日は降臨節アドヴェント)の最初の主日です。今日の福音でイエス様は私たちに主の来臨(イエス様が来られる)まで「目を覚ましていなさい」と命じておられます。それは、主が来られるまで、また、自分のこの世の人生の終わりまで、自分に求められている責任を果たすこと、言い換えれば、私たち一人一人が自分のタレント(賜物)を生かして小さくされた人々に奉仕することだと思います。そのためには、その火をともし続ける信仰の油を持ち続ける必要がありますが、そうできるのは、主イエス様が私たちを最後までしっかり支えてくださるからです。
  私たちがそれぞれに与えられた責務を誠実に果たしつつ、主イエス様の来臨を待つことができるよう、また、そのことを意識しながら、これからの降臨節の日々を大切に過ごすことができるよう祈り求めたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン